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幕間4 占領されたローデン

 大陸歴一四〇七年三月十日


 館は燃えていた。


 炎は既に天を舐める勢いではなく、崩れた梁や壁の隙間から、赤熱した息のように鈍く漏れ出しているだけだった。


 扉は開いたままだったが、無理に破壊された形跡はない。人の気配もなく、抵抗の痕跡も薄い。まるで館そのものが、内側から静かに崩れ落ち、そのまま燃え尽きる順番を待っているようだった。


 館付きの庭師だった老人は、広場の外れから、その光景をただ黙って見ていた。


 長く仕えて来た屋敷だったが、既に近付こうとは思わない。いや、近付くべき段階そのものが終わっていた。


 そこに戦闘は残っていない。勝敗を叫ぶ声もなく、誰がそこに居たのかという事実さえ、焼け跡の熱と共に意味を失い始めている。


 風が吹くたび、火は揺れた。だが勢いを取り戻すことはない。


 館は燃え続けているのではなかった。ただ、ゆっくりと燃え尽きつつある。


 その赤い光だけが、夜のローデンにあって異様なほど静かに浮かび上がっていた。


    



 大陸歴一四〇七年三月十一日。


 ローデン占領から二日。


 都市は既に戦場ではなくなっていたが、平穏とも程遠かった。


 焼け落ちた館の周囲では、兵達が慌ただしく動いている。だが、その動きに焦りはない。


 区画ごとに並べられた荷車。道端へ積み上げられた木箱。通りを横切る兵士達の列。そのどれもが、まるで最初から決められていた配置へ戻っていくような整然さを持っていた。


 パン屋の息子だった青年は、空になった籠を抱えたまま、通りの隅で立ち尽くしていた。


 昨日まで客が行き交っていた大通りには、今も人の流れ自体は存在している。だが、その流れだけは既に別の誰かの手で組み替えられていた。


 人々は自由に歩いているように見えながら、実際には見えない柵の内側だけを歩かされている。


 ローデンは、既に区画ごとに切り分けられていた。


 もし天から見下ろせば、それは都市というより、処理単位ごとに整理された巨大な地図に近かっただろう。


 占領直後、多くの住民が都市から逃げ出した。


 誰かの命令によるものではない。ただ、この場へ留まれば死ぬかもしれないという感覚だけが、人々を同じ方向へ走らせていた。


 だが、その分散は長く続かなかった。


 都市の外縁には、明確な壁こそ存在しない。にもかかわらず、人の流れだけが押し返されていく。


 街道を抜けようとした農夫は、郊外で兵士達に止められた。


 剣を突き付けられた訳ではない。ただ道を塞がれ、別方向へ誘導され、そのまま気付けば再び都市側へ戻されていた。


 そこに激しい戦闘はない。追跡もない。


 分かれた流れを、再び一本へまとめ直す。


 ただそれだけが、淡々と繰り返されていた。


 森へ逃げ込んだ者達も、長くは持たない。


 食料は尽き、郊外の村々も余所者を抱え込める状況ではなかった。街道には既に見張りが立ち始めており、人々は少しずつ行き場を失っていく。


 数日もすれば、戻される者達が目立ち始めた。


 それは捕縛というより、どこにも定着出来なかった末の収束に近かった。


 途中で抵抗した者も居るが、その抵抗には何らかを変える程の効果を発揮しない。


 短く押さえ込まれ、流れを止めない程度に排除され、何事もなかったように次の列が動き始める。


 結果として、逃走は“失敗した出来事”としてではなく、“修正された動き”として都市へ吸収されていった。


 だが、全てが戻った訳でもなかった。


 外縁近くの区画では、昨日まで人の居た家が、そのまま空になっている場所もある。


 荷物だけ消えている家。


 家畜ごと姿を消した農家。


 戦時に上手く抜け、そのまま戻らなかった一家。


 どこへ逃げたのかを知る者はいない。


 ただ時折、確認に来た兵が、既に空になった部屋を見て、短く印を付けて去っていくだけだった。


 徴発もまた、既に体系として動き始めていた。


 倉庫の扉は乱暴に壊されていない。むしろ綺麗に開かれ、内部の物資だけが順番に外へ運び出されていく。


 香辛料商人の女は、自分の店先から、その様子を黙って見ていた。


 帳簿を持った兵が品目を読み上げ、別の兵が短く頷き、それだけで荷運びが始まる。


 価値が高い物を奪っているのではない。


 必要と判断された物だけが、機械的に選び出されていた。


 工房でも同じだった。


 鍛冶場では完成した剣だけではなく、途中まで加工された鉄材や、炉脇へ積まれた木炭まで確認されている。


 何を残し、何を持ち去るかはエリクセンの管理の都合で決められており、現地で暮らす人間への配慮は存在していなかった。


 住民達は、その外側から見ている。


 視線を逸らす者も居れば、無言で立ち尽くす者も居る。だが、誰もこの流れを止められるだけの力は有していない。


 徴発は粛々と進められていく。


 抵抗する者も皆無ではなかった。


 だがそれは都市を揺るがす反乱ではなく、押し潰され切る前に漏れ出した短い悲鳴のようなものだった。


 路地の一角で、酒屋の主人が兵士へ怒鳴り声を上げる。


 徴発への抗議だったのか、それとも恐怖へ耐え切れなくなっただけなのか、本人にすら分かっていなかっただろう。


 兵士は数人だけ前へ出るが、必要なのは殺し合いではなく、停止だった。


 短い衝突のあと、男は石畳へ倒れ込み、そのまま別方向へ引きずられていく。


 周囲の人間は、それを見て理解する訳ではなく、諦めていく。


 次に同じ行動を取る者が現れる可能性が、静かに削られていく。


 暴力は隠されてもいなかった。


 必要なだけ現れ、必要なだけ消える。それだけの話だ。


 路地は、既に生活のためだけの空間ではなくなっていた。


 閉じられた扉の向こうには、倒れた椅子や、開いたままの戸棚、冷え切った器だけが残されている。


 誰かが急に消えたというより、生活そのものが失われた痕跡だった。


 ある家では、母親が子供の口を慌てて押さえている。


 泣き声を聞かれたくなかったのか、それとも単に外の気配が恐ろしかったのか、その理由は本人にも説明出来なかっただろう。


 別の路地では、住民が数人まとめて連れて行かれていた。


 抵抗は短く、すぐに途切れる。


 連れて行く兵士達も急いではいない。


 必要な速度で、必要な人数だけを動かしている。


 その整然さが、かえって都市から温度を奪っていた。


 空き家は増えていく。


 路地の奥では、数人の女性が兵士に呼び出されていた。


 洗濯屋の娘は、自分の名前が呼ばれた瞬間、小さく肩を震わせる。


 理由は告げられないが、このあと何が起きるのかが自然と理解できる。


 誰も命令されていない。にもかかわらず、人々は既に流れへ従うことを覚え始めていた。


 呼ばれた者の中には、戻らない者も居るが、それを誰も表では口にはしない。


 家の外で動く住民達は、視線を合わせず、何も聞こえないふりをしながら、その場を離れていく。


 仮に女性たちの悲鳴が聞こえたとしても、半裸の女性が路地から飛び出すとしても、それを追う兵士達の下卑た笑い声が響いたとしても、それへ反応すること自体が危険だった。


 やがて路地は静かになるが、それは平穏ではない。


 全てが終わった後に残る、処理済みの沈黙だった。


 ゲルハルトの名は、この都市のどこにも明示されていない。


 住民達の多くは、その姿すら見ていない。


 だが命令だけは、驚くほど滑らかに現実へ変換されていく。


 誰が決めているのかを問うことに意味はない。


 重要なのは、決定が遅滞なく実行され続けるという事実だけだった。


 占領され、支配されるという混乱もまた、既に終わり始めている。


 都市は壊されたのではなかった。


 壊す必要すらない形へ、少しずつ組み替えられている。


 徴発、移送、再配置。


 それらは別々の行為ではなく、同じ流れの異なる局面に過ぎない。


 そして、その流れは止まらない。



 町の火は、既に消え始めていた。


 焼け跡からも熱は薄れ、夜風だけが静かに石畳を抜けていく。


 新しい火が灯る日が来るのか、それを測る者はもう居ない。


 ローデンは静かに、新しい統治者の秩序の中へ沈んでいった。

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