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幕間3 ミュラー領北領境遭遇戦後記ファビオ編

 大陸歴一四〇七年三月九日


 谷は深く、そして狭かった。上から見下ろせば、そこは人の通るべき道というよりも、地形に刻まれた裂け目に近い。左右の斜面は緩やかに見えて、実際には逃げ場を与えない角度で立ち上がり、進む者の速度をそのまま削り取るようにできている。


 「前へ出るなら、高地から射かけられます。相手の密度が薄いとはいえ、その前に崩されませぬか」


 それはファビオの指摘であった。理に適っている。谷という地形は、進む側にとって常に上からの圧を伴う。特に今回のように高地を押さえられている状況では、前進はそのまま被害の増大を意味する。前列が崩れれば密度は落ち、密度が落ちれば連鎖的に瓦解する。それは戦場の常識であり、揺らぎようのない前提だった。


 サエルはその言葉を、途中で遮ることもなく聞いていた。聞いた上で、否定もしなかった。ただ一度だけ、その理屈を受け止めるように間を置き、わずかに口元を緩める。


 そして言った。


 「良いか、ファビオ。こういう時はな、意外と敵中突破というのが一番生き残りやすいものだ」


 あまりにも平然とした口調だった。戦場の緊張を裂くような軽さでありながら、その軽さの中に一切の迷いはない。計算でも楽観でもない。ただ一度、自らの経験として通過したものだけが、そこにあった。



 「これより我らは、前方のエリクセン勢に突撃し、突破を図る。不安もあろう、恐れもあろう。降る者は止めん。ここで止まるもまた一つの選択だ」


 その声が戦場に落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。


 命令でありながら、命令の形をしていない言葉だった。進めとも言わない。従えとも言わない。ただ、ここで立ち止まることもまた選択であると告げた上で、それでもなお前へ進むという一点だけが、すでに決定されている。


 兵の間に、遅れて揺れが走る。それは恐怖というよりも、選択肢を与えられたことによる一瞬の迷いだった。進むか、止まるか。どちらも許された上で、しかし空気の重さは明らかに前へ傾いている。


 その揺れの中で、サエルはもう一度だけ言葉を重ねることなく、視線を前へ戻した。


 そこで初めて、ファビオはその決定の“意味”を後から追いかけることになる。


 ――エリクセンに、フォーゲル。


 この地形、この配置、この密度でそれを通すということは、理屈として見れば明らかに損耗を伴う。谷は上から削られる構造にあり、密度が落ちれば崩壊は連鎖する。前へ出るほどに不利は積み重なる。


 それでもなお、この突破を選ぶということ。


 それは説明ではなかった。正当化でもなかった。ただ戦場という場を何度も通過してきた者だけが持つ、ある一点への確信だった。


 「敵中突破が一番生き残りやすいものだ」


 その言葉は理屈ではなく、結論だった。


 そしてファビオは、その結論を理解してしまう。理解してしまったがゆえに、否定する言葉を失っていく。理屈としては正しい。損耗も、危険も、その通りだ。だがその正しさを、正しいと言いきる父の意図を計る。


 そのときすでに、突撃は流れになりつつあった。



 ファビオの視界の中で、戦場の形がはっきりと組み上がっていく。


 エリクセン勢はおよそ三百。前面に二百超。左右の高地におよそ四十ずつが配置されている。谷を正面から押さえ、上から削り、側面から崩すための布陣だった。


 そして背後にはフォーゲル。およそ四百五十か。退路を塞ぐには過剰なほどの戦力だが、それは包囲ではなく退く余地を奪うために置かれている。


 前も、上も、後ろも、すでに埋まっている。


 その事実は、数字としてではなく、構造として理解されていく。



 戦場の形が理解できたと思った瞬間に、逆に理解不能な巨大さへ変わった。


 谷の入口と出口、そのすべてが既に埋められている。逃げ道だけが、地図の上から丁寧に消されているようだった。


 しかしファビオの中に、それを見て動揺する感覚はなかった。むしろ逆だった。


 理解したことで、初めて迷いが消えていく。


 この戦場は勝敗を争う場ではない。損耗を比較する場でもない。どこか一箇所を突破するために、どこまで代償を許容できるかを問う構造だ。


 その中心に、すでにサエルの決定がある。


 「敵中突破が一番生き残りやすいものだ」


 その言葉が、ようやく意味としてではなく、現実として落ちてくる。


 理屈として正しいかどうかは、もはや問題ではなかった。正しい理屈が通用しない場所で、なお成立している別の正しさがある。それは戦術ではなく、選択でもない。もっと単純な、速度の問題だった。


 止まるか、進むかではない。


 進む速度に、どこまで付いていけるか。


 その一点に、すべてが収束していく。


 自分はまだ命令を受けていない。だが、自分がどちらへ並ぶべきかだけは、もう理解出来ていた。


 そしてその瞬間、前方で空気が割れた。


 誰かが動いたのではない。


 空気が変わった、と誰かが言葉にする前に、戦場が動き始めていた。


 それは号令でもなく、合図でもない。誰か一人の意思が伝播した結果でもなかった。ただ、これ以上留まることが不可能になった者から順に、前へと押し出されていく。そういう種類の流れだった。


 サエルが先に動いたのか、それとも兵が動き出した結果としてサエルがそこにいたのか、その区別はもう意味を持たなかった。重要なのは、すでに前進が始まっているという一点だけだった。


 ファビオは一歩遅れて理解する。


 これは突撃ではない。崩壊でもない。もっと単純なものだ。止まることを許さない圧力が、形を持ったものだった。


 視界の前方で、エリクセンの前列が揺れる。二百超の圧が一斉にこちらへ向き直り、谷そのものが狭まったような錯覚を生む。左右の高地からはまだ影が動かない。だが動かないということ自体が、すでに圧になっている。


 その中でサエルは、最も危うい一点へ向かって進んでいた。そこが突破点であるかどうかなど関係ない。ただ、そこ以外に進む理由がないというように、迷いなく踏み込んでいく。


 そしてファビオは気づく。


 自分がその背中を見ている位置にいるのではなく、すでに同じ前進の中にいることに。


 一歩遅れていたはずの距離は、いつの間にか消えていた。サエルの背に追いつき、同じ速度で進み出る。


 次の瞬間、前列が裂けた。


 押し合いではない。衝突でもない。そこにあったのは、密度の違いだけだった。人と人の間に生まれたわずかな空白へ、刃が差し込まれるようにして道が開く。


 それを突破と呼ぶには、あまりにも静かだった。


 だが静かであることが、逆に異常だった。


 ファビオはその中で、初めて自分の剣を持ち上げる。命じられたからではない。ただ、ここで止まれば確実に飲み込まれるという一点だけが、身体を動かしていた。


 サエルの横に並ぶまで、あとわずかだった。



 前線は、すでに誰かの意志で形を保っている状態ではなかった。統率という言葉はとうに意味を失い、兵はそれぞれが自分の足元の崩れと、目の前に迫る圧と、そのどちらかに引きずられるようにして前へと押し出されていた。戦列というよりも、崩れながら流れていく一つの塊に近かった。


 その流れの中で、マルクは早かった。


 それは勇敢という言葉では足りないし、無謀とも違っていた。考えるよりも先に身体が前へ出てしまうというより、むしろこの状況においては“前へ出ること以外に整合が取れない”という種類の反応に近い。盾と盾が擦れ合い、押し返される圧の中で、わずかに生まれた隙間へと身体を滑り込ませるようにして、マルクは前列へと踏み込んだ。


 その動きは一瞬だけ、異様なほど滑らかだった。だが次の瞬間、その滑らかさは意味を失う。上方から落ちる影に対して、気付くには遅すぎる時間があった。戦場においては、その“わずか”がすべてを決める。


 音としては何も大きなものはなかった。ただ、そこにあった密度の一部が、ふっと抜け落ちるように消えた。その感覚だけが、逆に異様なほど明確だった。


 ファビオはそれを見ていた。


 正確には、見てしまった。


 視界の端で起きたはずのそれは、本来ならば処理されるべき一つの戦場の事象に過ぎない。しかし今の状況においては、それは単なる死ではなく、前進という流れの中で最初に示された“代償”だった。


 そこで初めて、ファビオは理解する。


 この前進は意思ではない。命令でもない。ましてや勇気の問題でもない。ただ、留まることを許されない密度そのものが、人を前へ押し出しているに過ぎないのだと。


 理解はした。受け入れもした。だがそれでも、身体は止まらなかった。


 むしろその理解が、逆に一歩を軽くした。


 止まるという選択肢が消えたのではない。止まるという行為が、すでに戦場の速度から外れたものとして意味を失っていた。


 視界の前方では、サエルが動いている。


 それは指揮というよりも、流れの最初に触れている者の動きだった。誰かを導いているのではない。ただ、自らの位置がそのまま全体の流れの方向を決めているような、不自然なほど自然な前進だった。


 その背中は遠くない。あとわずかで横に並べると思っていた。だがあと一歩近づくという感覚が来ない。ただ同じ方向へ流れているという事実だけがある。


 ニコが何かを叫んだ。状況の変化か、警告か、それとも単なる呼吸かは分からない。エンゾがそれに応じて動いた気配があった。だがそれらはすべて、すでにファビオの外側にあった。


 その中で、ファビオは一歩を踏み出す。


 その一歩は、距離を詰めるためのものではなかった。追いつくためでもない。ただ、自分がまだ“後ろ側”にいるのか、それともすでに“前へ出ている側”に移っているのか、その境界を確かめるためのような一歩だった。


 そしてその一歩の中で、気付く。


 境界はすでに消えている。


 サエルの横へ出ることは、特別な行為ではない。そこに立つことを許されるかどうかという問題でもない。ただ、同じ速度にある者が、自然に並ぶというだけのことだった。


 次の瞬間、ファビオはその横へと滑り込んでいた。


 並ぶ、というよりも、最初からそこにいたかのように。



 突破は、持続するものではなかった。


 それは流れの中で長く続く並走ではなく、密度が一度だけ緩むことで生まれる、ごく短い接触にすぎない。前列がわずかに崩れ、その裂け目が“道”として認識された瞬間、そこにいた者たちは同じ方向へと押し出されるようにして、一瞬だけ並ぶことになる。


 サエルはその先頭にいた。


 そしてファビオは、その横にいた。


 それは距離としての並列ではなかった。むしろ、同じ現象の内部に偶然重なった二つの軸が、たまたま同じ瞬間を共有しているだけだった。前線の圧はなお続いている。左右の高地も、後方の密度も、すべてが消えたわけではない。ただ、その一瞬だけ、全ての力が一点を通過した結果として、空間が裂けていた。


 サエルがファビオを見る。


 言葉はない。確認もない。ただ、その視線の中にだけ、わずかな時間の重なりがあった。それは命令でも指示でもなく、もっと単純な認識だった。この先へ行く者と、ここで留まる者。その分岐はすでに決まっているという認識である。


 次の瞬間、サエルは止まらない。


 止まらないというよりも、むしろその場へ“戻る”ようにして動いた。前へ進んだ勢いをそのまま反転させるように、再び密度の中へ身を投じていく。それは撤退でも後退でもない。すでに突破が成立した以上、その場は再び保持すべき戦域へと変質していた。


 殿戦に移るというよりも、戦場そのものが彼を必要とした結果だった。


 その動きを、ファビオは見ていた。


 しかし追わない。


 追うという選択は、すでに彼には存在していない。


 視界の中でサエルの姿が再び密度へと沈んでいくのを最後まで見届けながら、ファビオはその場を抜ける。背後で再び圧が戻る気配があるが、それはもはや彼の進行方向とは関係を持たない。


 進む者と、留まる者。


 ファビオは振り返らないまま、北へと向かう。


 突破の熱がまだ背後に残っていた。


 音は遠ざかりつつあるが、完全に消えたわけではない。むしろ一定の距離を保ちながら、まだ戦場がそこに存在していることだけを示し続けていた。だがその距離が生まれたことで、ようやく呼吸が一つの形を取り戻しつつあった。


 三騎は自然と速度を緩め、ほとんど無意識のまま横に並んでいた。


 戦場の中で並ぶという行為は、本来ならばあり得ない。だが今はそれが成立している。先ほどまでの密度が一度だけ解けた、その残響の中にだけ許される配置だった。


 エンゾが、最初に口を開いた。


 「……マルクが、いません」


 その声は大きくはない。ただ事実を確認するためのものだった。しかしその事実は、すでに全員が理解している種類のものでもある。


 ニコはすぐには答えなかった。


 視線をわずかに下げ、それから前方へ戻す。その動作の間に、すでに状況の整理は終わっている。しかし言葉にするまでの時間だけが残っていた。


 「……落ちるのを見た」


 短い沈黙があった。


 それは悲しみというよりも、認識だった。何かが失われたという事実が、まだ言葉として安定していない時間。


 ファビオはその間、何も言わなかった。


 しかし沈黙は否定ではない。むしろ、最も深く受け入れている者ほど、言葉が遅れることがある。


 やがてエンゾが、もう一度だけ問い直すように言う。


 「……そうですか」


 それ以上は続かなかった。


 そこに怒りも、取り乱しもない。ただ事実が一つ、確定しただけだった。だがその確定は軽いものではない。幼い頃から同じ時間を過ごし、同じ訓練を受け、同じ隊列の中で成長し、同じ主を仰いできた者の不在である。


 名を呼べば返事が返る距離にいた時間が、今はもう存在しない。


 ファビオはようやく口を開く。


 「……行くぞ」


 それは命令ではなかった。決意でもない。ただ、そこで止まることを選ばないという事実だけが、その言葉の中にあった。


 そして三騎は、再び前へ進み始める。


 戦場の音は、もはや背後にあった。


 それはまだ存在しているはずなのに、距離というよりも“別の世界の出来事”として処理されつつあった。つい先ほどまで命を削っていた場所が、急速に意味を失い始めている。


 それでも誰も立ち止まらなかった。


 マルクの名が一度だけ共有され、それ以上は語られないまま、三人の間に沈んでいく。それは忘却ではない。ただ、今ここで抱え続けるには重すぎるという、暗黙の了解だった。


 エンゾが先に視線を上げた。


 「……このまま戻りますか?」


 その問いは帰還の提案ではない。選択肢の確認でもない。ただ、まだ“戻る側”の世界が残っているのかどうかを確かめるための言葉だった。


 ニコはすぐには答えない。


 しかし彼の中では、すでに戦況の整理は終わっていた。エリクセンの密度、高地からの圧、後方に展開したフォーゲルの規模、それらが一つの線として繋がっている。ミュラー側の兵力では、時間を引き延ばすことはできても、形勢を覆すには足りない。


 「……持たないな」


 その一言だけが、結論だった。


 誰が悪いでもない。何が間違っていたでもない。ただ、最初から成立していなかった均衡が、ようやく崩れたというだけのことだった。


 ファビオはその言葉を受け取る。


 そして静かに言った。


 「……ミュラーは、落ちる」


 断定だったが、感情はなかった。事実の整理というより、すでに終わった未来の確認に近い。


 一瞬の沈黙の後、エンゾがわずかに息を吐く。


 「なら、ここに戻る意味はないか」


 誰も否定しなかった。


 戻れば戦場に巻き込まれるだけだ。そこに再び加わる理由は、もはや残っていない。


 だが、もう一つだけ確認が残っていた。


 ニコが低く言う。


 「エリクセンと……フォーゲル。見にいってみますか」


 その言葉に、異論はなかった。


 戦いは終わっていない。むしろこれから形を変えて続いていく。その中心にいる者たちが何者なのかを知らずに次へ進むことはできない。


 ファビオは小さく頷く。


 それだけで決まった。


 三騎は、振り返らなかった。


 背後ではなお戦場が続いている。だがそれは、もう彼らの進む方向とは一致しない出来事になっていた。


 北へ。


 ただそれだけが、今の彼らに残された座標だった。

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