幕間2 ミュラー領北領境遭遇戦後記セアド編
大陸歴一四〇七年三月九日
谷は、詰まっていた。
セアドは後方からそれを見ている。
列は乱れず、整然と前方へ視線を向け並ぶ姿が広がる。
左右の斜面は、静かに続いている。
一見すれば、ただの地形だ。だが視線を上げると、違って見える。
起伏ではない。何かを隠すために整えられた面のように見える。
確信はない。だが、あそこには何かがある。
その感覚だけが、消えずに残る。
前方では、すでに代表同士が向かい合っていた。
サエルと、エリクセンの将。
距離が近いため、声も風に乗って届く。
山賊の追撃。通行の確認。協力の話。
どれも筋は通っているように思える。だが、わずかに噛み合っていない。
セアドは、ぐるりと視線を動かす。
そこで初めて、小さな変化に気づく。
動いた、というほどでもないが、谷の出口の景色がわずかに変わっている。
囲まれている。
言葉になるより先に、その事実だけが沈む。
後方には、まだ道があるはずだった。
だがそれは、“そう見えるだけの場所”へと変わりつつある。
それでも前では、会話が続いていた。
サエルは動かない。相手の言葉を受け、間を置き、次を返す。
落ち着いている。
セアドは、もう一度視線を上げる。
何もないはずの周囲の斜面に、線のようなものが見えた。
数は分からない。だが、ひとつではない。
“いる”のではなく、そこに置かれている。
そんな感覚が先に来る。
サエルが振り向き、旧臣たちと談笑を始める。
セアドは一歩だけ前へ出た。意味のある行動ではない。ただ、止まっていることに耐えられなかっただけだった。
それによって状況が変わるという確信はないが、押しつぶされそうな重圧の中、何か言わねばと口を開く。
「父上、何を暢気なことを。今はそれどころでは――」
ただその中でサエルが言葉を被せる。
「生きろ。どれほど無様でもよい。どれほど恥をさらしてもよい。生き延びろ」
その声は、命令という形を保ったまま戦場に落ちる。だがセアドはそれを意味として受け取るより先に、戦場そのものの空気がわずかに変わるのを見ていた。
次の瞬間、サエルが動いた。
ためらいはなく、構えるような動きもない。
気づいたときには、もう馬が前へ出ている。
突発的に飛び出したようにも見えたが違う。
最初から、そこへ向かっていたとしか思えない流れの中で、動きだけが遅れて目に入ってきた。
「遅れるなよ。サエル=ミュラー、これより推して参る。我ら、一迅の風とならん――」
その声は流れるように続きながら、一拍だけ戦場に沈み込み、その一拍は意味ではなく結果としてそこに残る。
「――いざ、突貫!」
その瞬間、戦場が崩れた。
誰かが突っ込んだわけではない。合図があったわけでもない。
ただ、均衡が消えた。
――止まっていた理由だけが、順に失われていく。
そうとしか見えなかった。
列が崩れ、声が重なる。一つの動きが、別の動きを引きずり出す。
セアドはそれを後ろから見ている。
そして、そのとき初めて、認識が軋んだのを自分の中に覚える。
サエルは、武人として名がないわけではない。
だがそれは、堅実に戦う男という評価だ。崩れず、外さず、積み上げるタイプの武だ。
戦場そのものを変えるような存在だなど、考えたことはなかった。
だが、今目の前で起きているものは何だ。あれは一体何なのだ。
先頭に立ち、迷いなく馬を駆り、敵陣へと突き刺さるその姿は、技でも戦術でもなく、言うなれば“得体の知れない何か”でしかなく、セアドの理解という枠の外で成立している。
真似できるかどうかという話ではない。そもそも、自分の中にそれを受け止めるだけの器がない。
ひとことで表すなら“意味が分からない”が適当か。
目の前で何が起きているのかは見えているが、それをどう理解すればいいのかが分からない。
その瞬間、セアドの中で何かが途切れた。判断が止まったのではない。判断するための土台そのものが、削られていく。
憧れとか、目標とかいう話ではなく、あれに追いつこう、という発想自体が浮かばない。
ただ、距離だけが残る。同じ場所にいるはずなのに、決して届かないものとして。
サエルの余りの勢いに引きずられた前軍と離れ始める。
「下がるな!詰めろ!間を開けるな!」
それだけしか、言葉として発することができなかった。
気づいたときには、戦場はもう形を失っていた。
音はある。怒号も、剣のぶつかる音も、馬の気配も確かにある。だが、それぞれが何を示しているのかすら分からない。
前では何かが動いているが、それが味方なのか敵なのか、どこが崩れているのかさえ判断できなかった。
ただ、整っていたはずの列が崩れていき、その様子だけが、ぼやけたまま目に残る。
セアドは馬上からそれを見ているが、未だに「何が起きているのか」を掴めない。
次の瞬間、自分の身体だけが遅れて動いていることに気づく。
考えたわけではない。ただ、この場に留まることを拒むように、身体が前へ出ていた。
そして、気づけば地面に叩きつけられていた。
馬から落ちた、という理解は遅れてやってくる。視界が大きく揺れ、位置が変わっていることだけが事実として残る。
周囲の音が、一気に近づいた。
叫び声があるが、それが誰のものか分からない。
敵か味方かも判別できなく、すべてが同じ距離で押し寄せてくる。
その中で、ただ一つだけ残るものがあった。
――生きろ。
声ではなく、思い出でもない。
身体の奥に引っかかったまま離れない、感覚だけが残る。
気づけば、セアドは走っていた。
いつから走っていたのかは分からない。
走ろうと決めた記憶もない。
ただ、止まっていないという事実だけが続いている。
前へ。
どこへ向かっているのかは自分でも分からないが、それ以外のすべてが消えたあとに、前だけが残っていた。
やがて、視界が開ける。
気づけば、山の上にいた。
どのようにそこへ至ったのかは分からない。足を動かした記憶よりも先に、視界だけが抜けていたような感覚で、背後にあったはずの戦場はすでに遠いものへと変わっている。
谷の向こうには、煙が上がっていた。
一本ではない。いくつもだ。それらは黒い線となって空へ伸び、風にほどけながら広がっていく。
その中心にあるものを理解するよりも先に、視界だけがそれを固定する。
――館が燃えている。
セアドは動かない。山の上にいるという認識すら遅れて追いついてくるようで、立っている場所が変わっているという事実に、意味がまだ結びつかない。
「……母上」
声は喉の奥で引っかかるように落ち、風にさらわれて消えていくが届く相手は、いない。
煙は変わらない。燃えているという事実だけが、何も揺らさずそこに残っている。
そのとき、膝が崩れる。抵抗はなく、倒れたというよりも、支えていたものが失われた結果として、ただそこに身体が落ちた。
見えていた。分かっていた。それでも、何も守れなかった。
その認識だけが、遅れて確定していく。
そして、その底に、なお残るものがある。
――生きろ。
セアドは顔を伏せる。
泣いているのかどうかも分からない。ただ、壊れたままそこにいる。
だがその背後で、音がする。
金属の擦れる音と、山肌を踏みしめる気配が、遅れて、しかし確実に近づいてくる。
味方か敵か。救出か、はたまた狩りか。
ただ、まだ終わっていない。
その事実だけが、静かに迫る。
逃げるという思考は浮かばない。
ただ、この場所に留まることが終わりを意味するということだけが、単純な事実として理解されていく。
セアドはゆっくりと目を閉じ、その奥で沈んでいた声が、再び形を持つ。
――生きろ。
それはもはや残響ではなく、ここに残された、唯一の意志だった。
目を開け手を地につく。震えはある。だが、その震えの中で一つだけ確かに定まっているものがある。
生き延びる。
それだけは、ここで終わらせてはならない。
膝が地面から離れる。
押し出されたのではなく、自分で選び直すように身体を起こし、そのまま一歩を踏み出す。
背後の音はまだあるが、もう関係はない。
ここで止まることはできる。が、止まるという選択そのものを、ここで捨てる。
セアドは山の奥へ向かって歩き出す。
煙は、もう見ない。
ただ、生き延びるためだけに。
山の上には風が吹いていた。
それは何事もなかったかのように、同じ速度で通り過ぎていった。
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