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幕間1 ミュラー領北領境遭遇戦 後編

大陸歴一四〇七年三月九日


 谷の空気が、目に見えぬまま一段沈んだ。


 前方にはエリクセン。左右の高地には気配。そして後方には、遅れて閉じようとしているフォーゲルがいる。


 サエルは馬上でわずかに息を吐き、その変化を“状況”としてではなく、“前提”として受け入れる。


 「囲まれたか」


 低く落とされたその一言に、側近の一人がすぐ応じる。


 「いかがなさる」


 問いは簡潔であったが、その背後では兵たちの動揺が波のように広がりつつあった。視線は揺れ、槍の穂先がわずかにぶれる。高地を見上げる者、後方を振り返る者、まだ状況を理解しきれず立ち尽くす者――統一されぬ認識が、列の内側に見えぬ綻びを生んでいく。


 サエルはその全てを見ていたが、あえてそれに触れない。ただ前方へと視線を据えたまま、静かに言う。


 「後ろのフォーゲルがどれほどいるかは分からん。だが、正面は薄いな」


 その言葉に、ファビオが即座に反応した。視線はすでに敵陣の構造をなぞっている。


 「前へ出るなら、高地から射かけられます。相手の密度が薄いとはいえ、その前に崩されませぬか」


 理に適った指摘であった。谷という地形は、進む側にとって常に上からの圧を伴う。特に今回のように高地を押さえられている状況では、前進はそのまま被害の増大を意味する。


 だがサエルは、その理を一度受け止めた上で、わずかに口元を緩めた。


 「良いか、ファビオ。こういう時はな、意外と敵中突破というのが一番生き残りやすいものだ」


 あまりにも平然とした口調だった。


 それが冗談でないことは、その場にいる誰もが理解している。理解しているがゆえに、兵たちの動揺は収まらない。むしろ、理解と感情の乖離がさらに広がっていく。


 その空気を、別の方向から崩したのは老臣だった。


 「はは……そう言えば昔も、そのようなことがございましたな」


 場違いとも思える声音である。だがその“場違い”こそが、意図的に張られた楔であることを、長く仕えてきた側近たちは理解していた。


 「ああ、北の森で傭兵どもを拾った時ですな。あの時も似たような形でした」


 「そうそう。あの連中、どうしたか。まだどこかで生きておるのやもしれん」


 「傭兵ですぞ。とうにくたばっておりましょう」


 軽口が重なる。


 戦場の只中にあって、そのやり取りはあまりにも現実感を欠いていた。だがそれは、現実から逃げているのではない。むしろ逆で、極限の現実を“日常の延長”へと引き戻すための、熟練した操作だった。


 サエルもまた、その流れに乗る。


 「いや、分からんぞ。ああいう連中は妙にしぶとい。どこかで楽隠居を決め込んでおるやもしれん」


 「それはございませんな」


 「ないですな」


 短い笑いが、ほんの一瞬だけ列の中に広がる。


 だがその空気を、セアドが切り裂いた。


 「父上、何を暢気なことを。今はそれどころでは――」


 その言葉は正しい。正しすぎるがゆえに、今この場では“効きすぎる”言葉でもあった。現実を直視させる言葉は、ときに兵を固める。


 サエルはその方向を即座に切り替える。


 「ふむ、そうだな」


 そして、声を張った。


 「皆、空を見上げてみろ」


 唐突な命であった。


 だがその唐突さゆえに、兵たちの視線は反射的に上を向く。谷の上空は抜けている。雲は薄く、風もない。戦場とは思えぬほどに穏やかな空が、ただ広がっていた。


 サエルはその光景を確かめるように、ゆっくりと言葉を続ける。


 「良い天気だ。嵐でもない、雪でもない。春にしては少し肌寒いが、悪くない日和だ」


 誰も応じない。だが全員が聞いている。


 「いつも通りの一日だ」


 一拍置く。


 「死ぬには、良い日だ。」


 その言葉は、冗談にも、狂気にも聞こえた。


 だが次の瞬間、サエルの声は一段だけ低く、そして確かに現実へと降りてくる。


 「これより我らは、前方のエリクセン勢に突撃し、突破を図る。不安もあろう、恐れもあろう。降る者は止めん。ここで止まるもまた一つの選択だ」


 兵たちの間に、わずかな揺れが走る。


 だがサエルは止まらない。


 「だがな、考えてみよ。エリクセンにフォーゲルだ。これを通せば、ローデンはどうなる。民はどうなる。俺はそれを看過できん」


 それは理ではなかった。だが、理よりも重く落ちた。


 「皆で一丸となって突っ込めばな、意外と生き残るものだ」


 わずかに笑う。


 「我らはこれより一つの竜となる。頭も尾もいらん。ただ前へ、ただ食い破る。それだけでいい」


 誰かが息を呑む。動揺は消えていない。だが、その質が変わり始めていた。


 「そして突破したならば――各自全力で逃げろ」


 その一言で、場が一瞬だけ止まる。


 「生きろ。どれほど無様でもよい。どれほど恥をさらしてもよい。生き延びろ」


 その上で、サエルはわずかに声を軽くした。


 「後日、報告会を開くぞ。“我が最も恥ずかしき逃走報告会”をな」


 老臣が吹き出し、側近が肩を震わせる。兵の中にも、遅れて笑いが生まれる。


 緊張は消えていない。だが、固まっていたものがほどけ、流れ始める。


 その瞬間だった。風を裂く音が、一本。


 矢がサエルの脇をかすめ、地に突き立つ。サエルはそれを一瞥し、肩をすくめた。


 「せっかちな奴らだ。こちらが別れを惜しんでいるというのに」


 そして、槍を軽く掲げる。


 「さて、どうやら刻限が来たらしい」


 その声はもはや軽くはない。


 「皆々方、準備は良いか」


 返答はない。だが、全員が前を向いていた。恐怖は消えていない。だが、恐怖の向きが定まっている。


 サエルは一度だけ周囲を見渡し、そして叫ぶ。


 「さあ、死にに往こうか」


 その言葉は狂気ではない。覚悟の形式だった。


 「遅れるなよ。サエル=ミュラー、これより推して参る。我ら、一迅の風とならん――」


 一拍。


 「――いざ、突貫!」


 その瞬間、全てが前へと崩れた。


 統制は失われていない。だが形は“保つもの”から“押し通すもの”へと変わる。


 槍が下がり、盾が前へ出る。馬が地を蹴り、歩兵がそれに食らいつく。


 軍は、一つの塊として、エリクセンの陣へと突き刺さっていった。



 衝突は、線ではなかった。面でもない。質量そのものが、前へ押し出されるような形でぶつかった。


 サエルを先頭に、騎馬がわずかに突出する。その後ろに歩兵が食らいつき、列は崩れぬまま“塊”としてエリクセンの前面へと食い込んでいく。上からは矢が降り、石が転がされ、打ち下ろされる角度の攻撃が無差別に突き刺さるが、それでも速度は落ちない。落とせば止まる。止まれば終わる。その単純な理だけが、全員の足を前へと押していた。


 最初に崩れたのは、外側だった。


 高地からの射撃は、列の端を削る。盾を掲げた者がそのまま押し倒され、馬上の者が肩口を射抜かれて転げ落ちる。落ちた者は起き上がる暇もなく踏み越えられ、あるいは後続に押し潰され、形の中から消えていく。だがそれでも中央は崩れぬ。崩れぬまま、ただ前へ出る。


 エリクセンの前列が槍を構え、受け止めようとする。だがその構えは“受けるための構え”であり、“押し返すための構え”ではなかった。


 サエルの槍が最初の一線を裂いた。


 突きではない。払うでもない。相手の穂先ごと横へ弾き、その隙間へ馬の体重ごと押し込む。わずかに空いた空間が、次の瞬間には通路になる。その通路に、後続の圧が流れ込む。


 盾と盾がぶつかる音は、もはや音ではなく振動だった。手に伝わる衝撃がそのまま全身を揺らし、踏みとどまるか押し込まれるかの差だけが生死を分ける。槍の穂先は互いに行き場を失い、突くというよりは押し合うための棒へと変わり、その中で一瞬でも体勢を崩した者から順に飲み込まれていく。


 ファビオの隊が、その“綻び”を見逃さない。


 「押せ!」


 短い声とともに、前列の密度がさらに増す。歩兵が盾を前に押し出し、騎馬の後ろに潜り込むようにして隙間を埋める。騎馬の突進は一度きりでは終わらない。押し込み、崩し、その内側へと歩兵が流れ込むことで、突破口は点ではなく幅を持ちはじめる。


 だがその代償は、後方に現れていた。遅れた者から、落ちていく。


 フォーゲルの追撃は、統制を欠きながらも確実に距離を詰めていた。完全な陣形ではない。だがそれで十分だった。崩れかけた列の後尾に噛みつくには、整然とした形など不要である。速い者から突き、遅れた者を切り離し、そこに新たな裂け目を作る。それだけで、列は後ろから削られていく。


 セアドの声が、後方で鋭く飛ぶ。


 「下がるな!詰めろ!間を開けるな!」


 その声に応じて、後列が無理やりにでも前へ押し出される。押し出されることでしか、生き残る道はない。後ろへ退けば、その場で追撃に飲まれるだけだと、すでに誰もが理解していた。


 それでも、落ちる者は落ちる。


 振り返った一瞬で、槍に貫かれる者。足を取られ、起き上がる前に刃を受ける者。馬を失い、地に取り残される者。個々の死はもはや認識されない。列の中で、それは“減る”という現象に変わっていく。


 それでも前は、裂ける。


 サエルは前だけを見ていた。視界の中にあるのは、敵の密度の“薄い場所”だけである。そこに向かって、ただ押す。押し続ける。後ろで何が起きているかは、知っている。だがそれは今この瞬間には関係がない。関係を持たせれば、足が止まる。


 槍が一人の胸を貫き、そのまま引き抜かずに押し倒す。倒れた体を踏み越え、馬が半歩だけ前へ出る。その半歩が、さらに後続の一歩を呼び込む。


 やがて、手応えが変わった。密度が落ちる。押し返す圧が、わずかに軽くなる。


 サエルはそれを見逃さない。


 「ここだ、抜けるぞ!」


 声が飛ぶと同時に、最後の押し込みが行われる。ファビオの隊が一気に前へ出て、残された抵抗線を押し切る。その瞬間、前方の空間が開いた。


 抜けた。勝ったわけではない。ただ“外へ出た”という事実に過ぎない。だがその差は決定的だった。


 サエルは一瞬だけ、馬を緩めた。その一拍の中で、振り返る。


 後ろではまだ、戦が続いている。続いているが、それはもはや“抜けるための戦”ではなく、“残るための戦”へと性質を変えていた。


 サエルは即座に命じる。


 「伝令!」


 応じた兵が一騎、前へ出る。


 「館へ走れ。落ち延びよ、町は捨てよ、と伝えよ。俺は殿を務める」


 言葉は短い。だがその内容は、この戦の帰結をすべて含んでいた。


 伝令は頷き、馬首を巡らせる。その背が遠ざかるのを一瞬だけ見送り、サエルはすぐに手綱を引いた。


 方向を変える。前ではない。後ろへと突き進む。


 その動きを見て、追ってきた老臣が笑う。


 「最期まで付き合いますぞ」


 側近たちも、当然のように続く。


 「ええ、どこまでも」


 サエルはわずかに肩をすくめる。


 「貧乏くじを引かせたか」


 「なんの」


 即答だった。その声音に、迷いはない。


 サエルは一瞬だけ彼らを見て、それから言った。


 「楽しかったか」


 問いは軽い。だが、その奥にあるものは軽くない。


 老臣は笑った。


 「ええ。良き人生でした」


 側近の一人が、肩を竦めるように言う。


 「何を言っているんですか。報告会、やるのでしょう」


 その言葉に、サエルは小さく笑いかけた。


 だが、その瞬間。矢が飛んだ。左肩に突き立つ。


 衝撃が体を揺らし、馬がわずかに頭を振る。さらに、足元から突き上げるように槍が来る。右足を掠め、肉を裂く。


 それでもサエルは手綱を放さない。


 「そうだったな」


 息を整えながら、言う。


 「では、さっさと引かねばな」


 その言葉に、返事はなかった。サエルは一瞬だけ目を細める。


 横を見る。先ほどまでそこにいたはずの顔が、いくつか消えている。


 倒れたのか、遅れたのか、それとも――考えるまでもない。


 「付き合いの悪い奴らだ……」


 呟きは、誰にも届かない。その直後、さらに槍が来る。


 左腕に一本、腹に一本。衝撃が重なり、視界が一瞬だけ白く飛ぶ。それでも意識は途切れない。途切れさせない。


 サエルは槍を持ち替えた。


 右腕一本で、振るう。振るうというより、叩きつける。近づく者を払い、馬の周囲に円を作る。その円の内側だけが、かろうじて“生きている空間”として維持される。


 敵は尽きない。前からも、横からも、そして後ろからも来る。


 それでもサエルは、声を張った。


 「我こそはサエル=ミュラー!」


 その声は、戦場の中で異様に通る。


 「まだまだ馳走が足らんぞ!もっとだ!」


 挑発であり、宣言であり、そして何よりも“自分を保つための言葉”だった。


 刃が来る。受ける。弾く。突き返す。馬が悲鳴を上げる。だがまだ倒れない。倒れさせない。


 時間は伸びない。縮まない。ただ一定の密度で流れていく。


 やがて、音が遠くなる。戦場の中心から、わずかに外れた場所で、風が抜ける。


 そこから振り返れば、谷の奥に黒い塊が見える。それがエリクセンであり、フォーゲルであることは、もはや確認するまでもない。


 勝どきが上がる。それは一つではない。重なり、増幅し、谷を満たす。勝者の声であった。だがその声は、遠い。


 風に乗り、岩に反射し、形を失いながらこちらへ届くその音は、もはや戦の結果を告げるものではなく、ただ“終わった”という事実だけを残していく。


 その中で、なお一つの影が動いている。


 立っているのか、倒れているのかも判然としないその影は、それでもなお、前へと槍を振るっていた。


 谷は、静かにその音を飲み込んでいく。

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