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幕間7 エリーゼとアルビーナの逃避行

大陸歴一四〇七年三月九日


 各自の逃亡先が決まり、館の中ではそれぞれが慌ただしく動き始めていたが、誰がどこへ向かうのかという最後の線引きだけは曖昧なまま残されており、指示の飛び交った後のざわめきだけが廊下に漂っていた。


 その様子を一度見届けると、エリーゼは静かにその場を離れ、自らの部屋へと戻る。


 扉を閉める音は小さかった。


 しかし、その静けさの中には、もう残された時間がほとんどないことだけがはっきりと流れていた。


 エリーゼは机へ向かう。息を整える間も置かず、そのまま指示を出した。


 「馬車を出させて」


 侍女と小者は問い返すことなく即座に動き出す。


 納屋の戸が開かれ、荷車が引き出される。戦場から戻ったばかりの伝令騎兵の馬二頭が外され、鞍を解く金具の音が重なった。


 その様子を背にしながら、エリーゼは短く言葉を添える。


 「それを繋いで」


 二頭はすぐに二頭引きの馬車へと組み替えられていった。


 馬を繋いでいた兵が手綱を確かめている姿を認めると、エリーゼはそちらへ目を向ける。


 「御者をお願いできるかしら」


 兵は低く応じると、そのまま御者台へと回った。


 侍女と小者は荷をまとめるために走り回る。


 選ぶというより、削るような作業だった。


 何を持ち出すかではなく、何を置いていくかを決めていく中、エリーゼは机へ向かい、紙を引き寄せて筆を取る。


 筆先は一度も止まらなかった。


 一通を書き上げると、乾く時間さえ惜しむように、そのまま折り封じる。


 その間にも準備は終わっていた。


 兵は御者台へ上がり、繋ぎ替えられた二頭は手綱の下で落ち着きを取り戻している。


 荷は積み終えられ、他の者たちも順に荷台へ乗り込んでいった。


 アルビーナも抱き上げられ、その中へ収まる。


 さらに一騎が馬車の横へ並び、短い間だけ互いに目を合わせた。


 「行きましょうか」


 エリーゼが静かに言う。


 それを合図に馬が歩き始め、やがて車輪が土を軋ませながら回り出した。


 並走する一騎を伴い、そのまま南への逃走が始まる。


 馬車が通りへ出た頃には、すでに町は騒然としていた。


 行き交う人々の流れは定まらず、荷を抱えて走る者、家族の名を呼ぶ声、戸を打ち付ける音が重なり合っている。


 どこへ向かうのかも分からぬまま、人々は南へ押し流されるように動いていた。


 二頭引きの馬車は、その間を軋みを上げながら進んでいく。


 道を塞ぐように立ち尽くす者がいれば、御者が声をかけて道を開けさせ、並走する伝令騎兵が周囲を払う。


 決して速くはないが、車輪だけは止まらなかった。


 名を呼べば届く距離に、見知った顔がある。


 だが、その名は呼ばれない。


 声を掛ければ止まる。


 止まれば、崩れる。


 だから誰も呼ばない。


 子を抱えた男が一瞬こちらを見るが何も言わず、そのまま目を落とし、人の流れに押されるまま消えていった。


 落とされた荷も、立ち止まった者も、誰かが拾うより早く踏み越えられていく。


 アルビーナだけが、この状況をまだ“旅”だと思っていた。


 荷台の中から身を乗り出し、「すごいね」と小さく声を上げながら、珍しそうに外を眺めている。


 その声だけが、場違いなほど軽かった。


 揺れに合わせて侍女がそっと体を支える。


 エリーゼは一度だけ目を伏せる。


 それだけで十分だった。


 再び顔を上げた時には、その視線はもう揺れていない。


 町の喧騒は、南へ近づくにつれて少しずつ薄れていき、叫び声や物音が減るのに合わせ、人の流れも散り始める。


 逃げる者と留まる者の境は曖昧になりながら、それでも進む者だけが選ばれるように、道は徐々に細くなっていった。


 やがて南門が見え始める。


 その周囲だけは奇妙なほど静かだった。


 門は開かれているからか、通過を待つ列もなければ、押し合う人影もない。


 門番だけが立ち、周囲の様子を測るように流れを見ていた。


 馬車が近づく。


 門番の目が一度止まり、次いで伝令騎兵の姿を認めると、わずかに肩へ緊張が走った。


 だが、すぐに進路を塞ぐことはせず、状況を測るように半歩だけ脇へ退く。


 並走する騎兵が短く言った。


 「お前も早めに落ちろ」


 門番はすぐには返さなかった。


 少しだけ目を伏せ、それから馬車へ視線を戻す。


 その言葉の意味を測るような沈黙が一拍だけ落ちた後、ようやく通行を許す仕草へ変わった。


 その瞬間だけ、門の内と外の境目が妙に重く感じられた。


 だが次の瞬間には何事もなかったように空気がほどけ、馬車はそのまま南門を抜けていく。


 門を越えた途端、音が変わる。


 町の喧騒は背後へ置き去りになり、車輪の軋みと蹄の音だけが前へ伸びていく。


 風の冷たさまで変わったような錯覚の中で、道は緩やかに開けていった。


 アルビーナは振り返り、遠ざかる門を見つめている。


 それが何を意味するのかまでは、まだ分かっていないのか無邪気に言った。


 「小さくなったね」


 エリーゼは、その言葉に一度だけ目を閉じる。


 そしてすぐに開いた。


 その短い間に、何かを置いてきた感覚だけが確かに胸の奥へ沈んでいったが、それを拾い上げる時間はない。


 やがてアルビーナが外を見たまま、ふと思い出したように口を開いた。


 「もうみんないないの?」


 意味を理解しないままの声だからこそ、その言葉はかえって周囲の静けさを際立たせた。


 エリーゼは、すぐには答えなかった。


 その問いに答える言葉は、もう正しい形では残っていなかった。


 「……ええ」


 ようやくそれだけを落とすように返し、エリーゼはわずかに目を伏せる。


 町はもう見えない。


 だが、消えたわけではない。


 音が途切れた分だけ、先ほどまでの光景が遅れて浮かび上がってくる。


 それらが順番を失ったまま、記憶の断片のように重なっていく。


 そこで初めて、自分たちは抜けたのだと形になる。


 助けられなかったのではない。


 選んだのだ。


 その認識だけが、静かに輪郭を持ちはじめていた。


 エリーゼは揺れる馬車へ身を預けたまま、もう一度だけ目を閉じる。


 だが、それもほんの一瞬だった。


 街道をしばらく進む頃には、町の気配は完全に背後へ落ちていた。


 木々の間を抜ける道だけが前へ続いている。


 車輪の音さえ土へ吸われるように小さくなっていく静けさの中、エリーゼはふと手元へ目を落とした。


 そして短く言う。


 「止めてください」


 馬車はすぐに速度を落とし、やがて止まった。


 並走していた伝令騎兵も馬を寄せる。


 何かあったのかと一瞬だけこちらを見るが、問いは口にせず、そのまま静かに待機した。


 エリーゼは準備していた封書を手に取り、馬車から降りる。


 一度だけ封書へ目を落とし、それから伝令騎兵へ向き直った。


 短く何事かを告げる。


 言葉は長くないが、その内容に迷いはなかった。


 伝令騎兵は一瞬だけ間を置いた後、その意図を飲み込むように強く頷く。


 封書を受け取ると同時に馬へ向き直った。


 何を命じられたのかは誰にも共有されない。


 ただ、受け取った瞬間だけ、その表情が少し硬くなった。


 次の瞬間には馬腹が蹴られ、馬は街道の先へ吸い込まれるように駆け出していく。


 エリーゼは、その背中が見えなくなるまで見送った。


 だが、それ以上は何も言わない。


 静かに馬車へ戻る。


 馬車が再び動き出し、揺れが一定の調子を取り戻した頃、アルビーナが荷台から顔を出すようにして尋ねた。


 「どこへ行くの?」


 不安でも確認でもない。


 ただ移動そのものを楽しんでいるような声だった。


 エリーゼは少しだけ考える間を置く。


 そして穏やかな笑みを作った。


 「おじいさまのところへ行きましょうか。あなたを紹介しないとね」


  言葉にした瞬間、胸の奥で何かが少しだけ緩む。


 戦場にいるはずのサエルの姿が浮かぶ。


 その隣にはファビオとセアド。


 そして館で別れたアルス、カミル、ジョナスの姿も順に続く。


 皆それぞれ別の場所へ散っていったまま、まだ戻っていない。


 その事実が、今になって静かに重さを持ちはじめる。


 生きているかもしれない。


 まだ間に合うかもしれない。


 どれも確かなものではない。


 可能性だけが残されている。


 それなのに今、自分だけがこの馬車の中にいる。


 その事実だけが、ゆっくりと胸へ沈んでいった。


 言葉にはならない。


「え。私におじいさま、いるの」


 アルビーナが目を見開く。


 崩れていくものがある一方で、最後までそこに残り続けるものもあった。


 この子だけは。


 エリーゼは思う。


 せめてこの子だけは、何としても守り抜いてみせる。


 その決意を声には出さない。


 ただ胸の奥で繰り返し確かめる。


 崩れかけた思考の中で、その思いだけが形を失わずに残っていた。


 アルビーナは返事をしない母を気にせず、外の景色に目を向けている。


 エリーゼは何も言わず、静かに目を伏せた。


 その頬を、一筋の涙が誰にも気づかれないまま伝っていく。


 馬車は淡々と街道を進み続ける。


 先ほどまでの喧騒が遠ざかるにつれ、景色は徐々に開けていった。


 畑と森の境は曖昧になり、道そのものにも人の手から離れていくような気配が混じり始める。


 エリーゼは涙を拭わない。


 ただ前を見ていた。


 胸の内では、先ほど確かめた決意だけが静かに残り続けている。


 この子だけは。


 その思いだけが、すべてが崩れた後に残された最後の支えのように、沈黙の底で形を保っていた。


 やがて道は緩やかに下り始める。


 木々の間を抜ける風の音が増え、空気にも少しずつ湿り気が混じり始めていた。


 「ブラウナー領に入ります」


 御者が低く言う。


 誰かへ向けた説明ではない。


 ただ事実を口にしただけだった。


 エリーゼは前方へ目を向け、わずかに目を細める。


 遠くに低い建物の群れが見え始める。


 その輪郭は次第に港の気配を帯びていった。


 大きくはない。


 華やかでもない。


 ただ海へ繋がるためだけに形作られたような、簡素で実用的な町並みが、地平の先に浮かんでいる。


 背後へ置いてきたものの重さと、前に待つ場所への不確かさ。


 その二つが胸の中で重なり合う中、馬車は止まらない。


 ゆっくりとその輪郭へ近づいていく。


 ブラウナー領へ入ってからもしばらくは、道の様子に大きな変化はなかった。


 人の気配が少し減っただけで、街道は畑と森の間を縫うように淡々と続いている。


 馬車も一定の速度のまま進み続けていた。


 やがて前方に人影が現れる。


 数は多くない。


 巡回中と思われる兵士が数名、道の脇を確かめながら歩いているだけだった。


 領境を固めるような張り詰めた空気はない。


 たまたまこの道を通っているだけ、そんな雰囲気だった。


 本来なら止められる相手ではない。


 だがエリーゼは、そのまま通り過ぎるかどうかを一度考えるように目を落とし、それから顔を上げた。


 「あの前で止めて」


 短く告げる。


 馬車は速度を落とし、兵士たちの前で止まった。


 視線が集まる。


 武装はしているが、即座に警戒へ移るほどではない。


 ただ、誰もが素通りするような場面で声を掛けられたことに、わずかな緊張が生まれていた。


 窓から顔だけを出したエリーゼは、少し間を置き、それから静かに口を開く。


 「ローゼンベルク家の者です」


 その名が落ちた瞬間、空気が変わった。


 兵士の一人が反射的に背筋を伸ばし、別の者は言葉を失ったように隣を見た。


 西部四十八家の中でも名門として知られる名は、ここで不意に聞くには重すぎた。


 エリーゼはそれ以上説明を加えない。


 ただ続ける。


 「ローゼンベルク領へ戻るところです。どちらへ向かうのが良いかしら」


 問いではある。


 だが拒む理由もまた、すぐには見つからなかった。


 兵士たちは短く顔を見合わせ、そのうちの一人が前へ出る。


 「……こちらへ」


 エリーゼは示された方向を見て、小さく頷いた。


 そして馬車を再び進ませる。


 馬車はゆるやかに進路を変え、そのまま示された街道へ入っていった。


 兵士たちの姿が少しずつ遠ざかる。


 その輪郭が曖昧になっても、エリーゼは前だけを見ていた。


 ただ静かに、その名の重さを抱え続けながら。

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