第82話 希望の台地
大陸歴一四〇七年十月二十八日
完成した放牧場では、数頭の馬が気持ち良さそうに駆け回っていた。
柵の中を自由に走り、喉が渇けば泉から引いた水路で水を飲み、また草を食む。
以前のように木へ繋がれたまま過ごしていた頃とは比べものにならないほど、伸び伸びとした姿だった。
「やっぱり必要な施設だったね」
その様子をゼダンと並んで眺めながら、思わずそう漏らす。
「ええ。過程はともかく、有ると無いとでは今後の発展に大きな差が出るでしょうな」
ゼダンも満足そうに頷いた。
放牧場は思っていた以上に広い。
百頭や二百頭の馬を放しても、まだまだ余裕がありそうなほどだ。
泉から水路まで引き込み、馬にとっては随分と快適な環境になったのではないだろうか。
「それにしても、この広さを作れるだけの木材がよく揃ったよね」
「ヴァルターたちの街道工事も佳境に入っておりますからな。木を伐るだけではなく、運び出す方にも相当な人手を割いております」
道作りも、当初の予定以上の速さで進んでいた。
最初は冬前に形になれば上出来だと言っていた工事も、今では伐採の大半が終わり、残るのは切り株を抜く作業が中心になっているらしい。
見栄えを気にしなければ、この時点で道は完成と言ってもいいのだろう。
もっとも、ヴァルターの性格を考えれば、それで終わりとは言わないはずだ。
切り株を抜いた跡を埋め、道を平らに均し、水はけまで考えて初めて完成だと胸を張るに違いない。
「あっちはヴァルターの好きにやらせておけばいいさ。悪いようにはしないだろう」
「ですな。下手に口を出せば、かえって現場を混乱させるだけでしょう」
ゼダンも同じ考えのようだった。
今は、以前のように勝手な判断で新しいことを始めないよう、ヴァルターたちには俺かゼダンへ一声掛けてからと頼んでいるだけだ。
元々ミュラー家の家臣であり気心の知れるヴァルターだからこそ、事情を話せばすぐ納得してくれた。
もし同じ立場が元ナユリ王国民だったなら、ここまで簡単には話がまとまらなかったかもしれない。
この先新たな形を公表しても実際に浸透するには、少しだけ時間が必要になりそうだ。
少し休憩を挟んでから、再び厩舎の方へ目を向ける。
放牧場では数頭の馬がのんびりと草を食み、泉から引いた水路では一頭が喉を潤していた。その隣では別の馬が気持ち良さそうに寝転がっている。
これなら、もう以前のように逃げ回る心配もないだろう。
そんな光景を眺めながら、ふと俺は口を開いた。
「それにしても、ヨアヒムたちは遅いな」
ゼダンも馬から視線を外さず、小さく頷く。
「ええ。予定通りであれば、五、六日前には戻っていても不思議ではありませんな」
俺も同じ計算だった。
しかも前回より街道へ行き来する道の整備が進み、移動に掛かる時間はさらに短くなっているはずだ。
それなのに、未だ姿を見せない。
「何かあったと思う?」
「無いとは申しませぬ。しかし、有ると断言できるだけの根拠もありません」
その答えが一番現実的だった。
何も起きていないのかもしれない。交易が思ったより長引いているだけなのかもしれない。
逆に何か問題が起きていたとしても、それを裏付ける情報は何一つ届いていない。分からない以上、勝手に悪い方へ考えても仕方がない。
「捜索隊を出すのは?」
「まだ早いでしょうな」
ゼダンは即答した。
「まださすがに捜索隊を出すほどの遅れとは言えません。それに、マティアスも同行しております」
「……そうだね」
マティアスが居る。その事実だけで、不思議と安心感があった。
もし本当に危険な事態になっても、彼なら誰かを伝令として走らせるくらいはするだろう。
もちろん絶対など無い。
それでも、そう思わせてくれるだけの信頼がマティアスにはある。やっぱり、この安心感が違う。俺がヨアヒムへ最後の一歩を踏み切れない理由も、結局そこなのだろう。
俺の頭には先日まとめた人事案が浮かんでいた。
交易班長――ヨアヒム(仮)。
能力を疑っている訳ではない。
ただ、組織として権限を与える以上、最後はどこまで信頼できるのかを見届けた上で決めたいという思いが残っていた。
だから人事案も、まだ皆には伝えていない。一箇所だけ「仮」が付いたままで先に動かすことは避けたかった。
ヨアヒムが戻り、最後まで決まってから皆へ示す。それが一番筋の通ったやり方だと思えた。
「どちらにせよ、今は待つしかないか」
「ええ。焦って動くより、戻ってくる者を信じる方が賢明でしょう」
俺も静かに頷く。
待つしかない。そう割り切ったところで、不安が消える訳ではない。
それでも今は、仲間を信じて待つことこそが、一人の仲間として出来る最善なのだと思うしかなかった。
放牧場を後にした俺とゼダンは、そのまま拠点の中をゆっくり歩き始めた。
道具置き場を抜け、初めて来たときから有った石壁の前まで来る。何度も見慣れた景色のはずなのに、最近は妙に気になっていることがあった。
「それはそうとゼダン」
「何でしょう」
「グライフ家は、この砦を何に使うつもりだったんだろう」
ゼダンが少しだけ首を傾げる。
「どう、と申されますと?」
俺は周囲を見渡した。
完成した放牧場だけでも相当な広さがあり、その横には厩舎が建つ。後背には長屋も保存庫も並び、奥には畑も少しずつ広がってきている。
それでもなお、驚くほど土地は余っている。
「見てよ。これだけ色々建物を建てたり、畑を起こしたりしているのに、まだまだ土地が余ってる」
「確かに、この台地は広大ですな」
「しかも自然の地形だけじゃない。平らになっている場所も多くて恐らく相当人の手が入ってるよね。更に石壁や石櫓まで造り始めていて、最初は何か目的があったはずなんだ」
ゼダンも石壁へ目を向けた。
「以前は、この東側にあるグライフ領内の村々を管理する拠点ではないかと話しておりましたな」
「うん。でも、それだけにしては広すぎる気がするんだ」
村を管理するだけなら、ここまで大規模な造成は必要ない。もっと小さな砦でも十分だったはずだ。
だからこそ違和感が残る。
俺は石壁の方へ目を向けた。
「それに、一番気になるのはあれなんだ」
石積みは途中までしか完成していない。
それでも、どこから築き始めたのかははっきり分かる。
「あの石壁、北西側から造り始めてるんだ」
ゼダンも改めて石積みを見回した。
「単に近い場所から工事を始めただけではありませんかな」
「そうかもしれない。でも俺なら違う」
俺は台地の端へ歩き、周囲を指差した。
「もし俺が造るなら、南の街道側か、北東の湖側から始める」
「ほう」
「そっちの方が、自分たちの領地じゃない方向だから」
北西はグライフ領。南には街道が延び、その先には他領がある。北東は湖を挟んだ先で、こちらも警戒すべき方向だ。
俺なら、まず外からの侵入を防ぐ場所を優先する。
なのに実際は、自領側から石壁を築いている。
その理由がどうにも分からない。
「もし意味があるなら、その理由を知りたいんだけどね」
ゼダンは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「申し訳ありません。現状では見当が付きませぬ」
「やっぱりそうだよね」
俺も苦笑するしかなかった。
情報が少な過ぎる。今ある材料だけでは、答えを出そうにも出せない。
「ですが」
ゼダンはゆっくり続けた。
「理由が何であれ、この広さは我らにとって大きな利点です」
「利点?」
「ええ。今後人が増えたとしても、まだまだ受け入れる余地があります」
確かにその通りだった。
今いる八十人程度では、この台地は一部しか使えていない。
「ここだけでも、まだまだ建物は建てられるよね」
「その上、頂上側にも麓側にも拓ける土地があります」
「それに東側にも山があるよね。あの山もこっちと同じくらい大きい」
俺はさらに東を見た。木々に覆われた山が、そのまま連なっている。
「あっちも、いつか使えるかもしれない」
するとゼダンは苦笑した。
「マティアスたちの調査では、拓けた土地は見つからなかったそうですぞ」
「まだまだ先の話だよ」
俺も笑う。
「東にまで手を出すとしたら、こちらがそれなりに埋まってからになるだろうし、その頃には人の手も相当増えてるはずさ」
「夢が広がりますな」
ゼダンが穏やかに頷く。
グライフ家が何を考えて、この場所を造ろうとしていたのかは分からない。
それでも一つだけ確かなことがある。
この広大な台地は、これから先の俺たちの可能性を支えてくれる場所だということだ。
その事実だけで、十分希望を持つ理由になるのだった。
そんな話をしながら、俺とゼダンは拠点の見回りを続けていた。
いつの間にか日は西へ傾き始め、辺りも夕暮れの色へ染まり始めた頃だった。
「交易組が帰って来たぞー!」
拠点の入口の方から、大きな声が響いた。
思わず俺はゼダンと顔を見合わせる。
「帰ってきた!」
自然と足が動き出す。ゼダンも慌てることなく歩き始めていたが、その表情には僅かな安堵が浮かんでいた。
予定より随分遅れた帰還だった。だからこそ、無事だと分かっただけで胸のつかえが一つ取れたような気がする。
「全く……。あと一日、いや半日でも早く帰ってきてくれれば、こんなに気を揉まずに済んだのに」
思わず苦笑が漏れる。
まあ良い。さあどんな顔で、どんな話を聞かせてくれるか。
願わくば、人事案のヨアヒムの名前の後ろについている「仮」という字が、迷わず消せるようなものを見せて欲しいものだな。
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