第75話 もう、背負わなくていい
大陸歴一四〇七年十月一日
昼を少し過ぎた頃、ウォルフがアルスの元まで足を運んできた。
「砦主、完成したぞ」
その一言を聞いた瞬間、アルスは思わず立ち上がる。
「本当に? ずっと待ってたんだ。早速見に行こう」
近くにいたゼダンへも声を掛け、三人は揃って湖側の崖へ向かって歩き始めた。
途中、ウォルフは長屋の建設現場へ顔を向ける。
「おう。動かすのに何人か手を借りたい。少し手伝ってくれ」
いつもウォルフと一緒に作業をしている者たちが、その声に応えて集まってくる。
「何が始まるんです?」
「完成したんでな。試運転だ」
その一言だけで十分で、興味を持った者が後を付いて来る。
さらに、その様子を見た勘の良い者が別の者へ声を掛け、いつの間にか小さな人だかりができていた。
どうやら「ウォルフが完成させた」という話は、あっという間に拠点中へ広がってしまったらしい。
崖際へ着く頃には、試運転を手伝う者だけではなく、見物人まで含めて思いのほか大勢が集まっていた。
アルスは苦笑しながらその先へ歩みを進め、崖の縁へ立った瞬間思わず息を呑んだ。
そこには、見慣れない大きな木組みの構造物が据えられていた。
太い柱が地面へ深く埋め込まれ、その上へ幾本もの丸太が力強く組み上げられている。
中央には大きな滑車が幾つも並び、そこへ掛けられた太い縄が崖下へ向かって真っ直ぐ伸びていた。
縄の先では、荷を載せるための木製の台が静かに宙へ吊られている。
長い時間を掛けて少しずつ形になっていた物が、今ようやく一つの設備として完成していた。
「これが……」
アルスは自然と笑みを浮かべた。
「昇降機なんだね」
「うむ」
隣でウォルフが満足そうに頷く。
「色々苦労したが、何とか形になったぞ」
その言葉には、職人としての誇りが滲んでいた。
これまでは、人が荷を担ぎ、あの急な坂を何度も往復するしかなかった。
だが今日からは違う。この昇降機が完成したことで、拠点の荷運びは大きく変わる。
交易品も、建築資材も、狩りで得た獲物も。
これまで何人もの力を必要としていた仕事が、一つの設備によって大きく変わろうとしていた。
「皆、待ってたんだよ」
アルスがそう言うと、ウォルフは照れ臭そうに鼻を鳴らす。
「そうだろう、そうだろう」
その得意げな様子に、周囲から小さな笑いが漏れた。
だが誰もが、その目の前にある昇降機から目を離せずにいた。
ついに、この拠点へ新たな力が加わろうとしていた。
「よし。それじゃあ試運転してみよう」
完成した昇降機を前に、アルスは弾んだ声で言った。
「なら、まず俺が乗るね」
そう言って荷台へ足を掛けようとしたとき低い声が飛んだ。
「お待ちください」
振り返ると、ゼダンが呆れたような顔でこちらを見ていた。
「安全確認のための試運転に、なぜ砦主が真っ先に乗ろうとするのですか」
「いや、でも実際に乗ってみないと分からないこともあるかなって」
「まずは物で試すべきでしょう」
ぴしゃりと言い切られ、アルスは思わず言葉に詰まる。
「砦主の責任として、確認しようと思っただけなんだけど……」
「とても楽しそうな顔をしているように思いましたが?」
反論の余地はなかった。
ゼダンはそのままウォルフへ視線を向ける。
「なあ、ウォルフ。お前もそう思うだろう?」
「う、うむ。その通りだな。やはり最初は荷で確認せねば」
どこか歯切れの悪い返事だった。
しかも、なぜか目を合わせようとしない。
アルスはじっとウォルフを見つめる。
「……ねえウォルフ」
「なんだ」
「何か隠してない?」
「隠してなどおらんぞ」
……怪しいな。絶対何か隠してるだろ。
アルスは吊り下げられた荷台を眺めながら、何気ない調子で呟く。
「ここから見る景色って、結構良さそうだよね」
「おお。なかなか見応えがあるぞ。朝は湖に日が映って――」
そこまで言ったところで、ウォルフははっと口を押さえた。
「……あ」
アルスはにやりと笑う。
「乗ったね?」
「う……」
「しかも景色まで見てる」
「ち、違うぞ。作業の途中で確認しただけだ」
「どうだか」
周囲から笑いが起こる。
ウォルフは照れ隠しに咳払いを一つすると、大きな声で言った。
「よし! 無駄話は終わりだ。試運転を始めるぞ」
「話を変えたね」
「変えておらん」
そんな二人のやり取りを見ながら、ゼダンは深くため息をついた。
「全く……。まずは荷で試すぞ」
ウォルフも真面目な表情へ戻る。
「おう。向こうに積んである材木を少し切って持って来い」
崖際には、湖側から運び上げた材木が仮置きされている。
その一本を適当な長さへ切り分け、荷台へ載せた。
「下ろせ」
縄を持った数人が息を合わせ、ゆっくりと荷台を降ろしていく。
やがて再び引き上げる。
滑車が静かに回り、材木を載せた荷台は大きく揺れることなく崖の上へ戻ってきた。
「問題なしだな」
ウォルフは頷く。
「次は増やすぞ」
材木を一本、また一本と追加していく。
その度に昇降機は静かに上下を繰り返したが異音もなく、縄が軋む様子もない。
「砦主も一緒に引いてみろ」
ウォルフに促され、アルスは縄を握った。
「これでいいの?」
「そのまま引いてみろ」
言われるまま力を込めるが、予想していたほど重くない。
「え?」
思わず声が漏れた。
「こんなに軽いの?」
ローデンでは、大勢の人間が汗だくになって石礫を引き上げていた。
それを思えば、拍子抜けするほどだ。
ウォルフは満足そうに笑う。
「滑車を幾つも使っておるからな。ただ縄で引き上げるのとは訳が違う」
「そういうものなんだ」
「滑車を増やせば増やすほど、必要な力は減る。だから重い荷でも少ない人数で動かせるんだ」
うん。良く分からないが、どうやらそう言う事らしい……。
だが、実際に引いてみれば、その違いだけははっきりと理解できた。
「おい、お前」
ウォルフは近くで見学していた元ナユリ兵の一人を呼ぶ。
「一人で引いてみろ」
「え?一人でですか?」
「いいからやってみろ」
男は恐る恐る縄を握り、ゆっくりと力を込めた。
すると荷台は少しずつ持ち上がり始める。
「おお……」
周囲から感嘆の声が漏れた。
一人では到底無理だと思っていた荷が、確かに動いている。
アルスも驚きを隠せなかった。
「これなら、本当に楽になるね」
「楽どころではない」
ウォルフは胸を張る。
「馬も牛も運べる。何なら荷を積んだ荷車ごとでも、上げ下げできるように作ってある」
「荷車ごと?」
「うむ。そのために最初から大きさも強度も考えて作った」
その一言に、アルスは完成した昇降機を改めて見上げた。
これは単に荷運びを少し楽にする道具ではない。
今後は拠点内で荷物を積んでから下ろし、拠点内に上げてから荷物を下ろす。そんな、これまでから考えると夢のような話が実現したのである。
この昇降機は拠点そのものの在り方を変える設備なのだと、ようやく実感した。
何度か荷を上げ下げし、異常がないことを確認したところで、アルスはゼダンとウォルフの顔を見比べた。
「そろそろ俺も乗っていいかな?」
ゼダンは昇降機全体を見渡し、縄や滑車の様子を確かめる。
それから小さく頷いた。
「ええ。問題はなさそうです。ですが最後まで気を抜かないでください」
「分かった」
アルスは笑顔でウォルフと共に荷台へ乗り込む。
「最初は少し揺れるぞ」
ウォルフが声を掛けると、縄を握った者たちがゆっくりと荷台を降ろし始めた。
ぎしり、と木が小さく鳴る。
荷台は僅かに揺れながらも、滑らかに崖を下っていく。
思っていたほどの揺れも衝撃もない。
「静かだね」
「滑車が上手く働いておる証拠だ」
やがて崖の下へ着くと、今度はゆっくりと引き上げられていく。
視線の高さが少しずつ変わり、木々の間から湖面が顔を覗かせた。
風を受けて揺れる水面が陽光を反射し、きらきらと輝いている。
拠点は森に隠れるよう築かれているため、期待したほど遠くまで見渡せるわけではなかった。
それでも、普段とは違う高さから眺める景色には新鮮さがある。
「朝ならもっと綺麗に見えそうだね」
「夕暮れも見事だぞ」
ウォルフが少し得意げに笑う。
その一言に、アルスも思わず笑みを返した。
荷台が崖の上へ戻ると、見物していた者たちから自然と拍手が起こる。
「次は俺も乗ってみたい」
「私も!」
待ちきれなくなった避難民や元ナユリ兵たちが次々と手を挙げた。
「順番だ。慌てるな」
ウォルフが声を掛けると、皆それを守りながら荷台へ乗り込み、初めての昇降機を楽しみ始める。
歓声を上げる者もいれば、恐る恐る手すりへ掴まる者もいる。
その様子を眺めていたウォルフは、ふと真剣な表情になってアルスへ向き直った。
「砦主。一つ大事な話がある」
「うん」
「完成したからといって、安心してはいかん。この手の物は使い方を間違える方が危ない」
そう言って、吊り下げられた太い縄を指差す。
「まず使う前に、縄が擦り切れておらんか、綻びがないかを必ず見ることだ」
続いて滑車へ視線を移した。
「滑車がずれていないか、軸が緩んでいないかも確認する。それと、いつもと違う音がしたら無理に使うな。一度止めて原因を探せ」
アルスも真剣な表情で頷く。
「人や荷を運んでいる途中で縄が切れたら、大事故になるもんね」
「そういうことだ」
「便利だからこそ、毎日の点検を欠かしちゃいけないんだね」
「うむ。その一手間を惜しまなければ、長く安全に使える」
アルスはゼダンと顔を見合わせる。
「皆にも必ず周知しよう。使う前の点検を、この昇降機の決まりにする」
「それが良いでしょう」
ゼダンも静かに頷いた。
こうして昇降機は、拠点を支える新たな仕事道具として動き始めた。
その後も入れ替わるように多くの者が試乗し、昇降機の周囲はしばらく賑わい続けた。
夕方になると、拠点の外へ出ていた者たちが次々と戻り始めた。
昇降機の噂はすぐに共有され、帰ってきた者は荷を下ろすより先に崖際へ足を運び、物珍しそうに眺めている。
そんな中、拠点の入り口から聞き慣れた声が響いた。
「戻ったぞー!」
狩猟班だった。
先頭を歩くティムに続き、リッキー、それにゲーフの代わりとして同行している元ナユリ兵二人が姿を現す。最後にフラフラとクラウスも帰って来る。
今日はどうやら大猟らしい。
大きな獣へ木の棒を通し、二人掛かりで肩へ担ぐ。
腰には小動物が何匹もぶら下がり、誰もが汗だくになって坂道を登ってきた。
クラウスに至っては、鹿を一頭一人で背負って来ている。
見慣れた光景とも言えた。
……いや、それも今日までの話。
坂を登り切った五人は、目の前の光景を見て足を止める。
崖際では昇降機が上下し、荷台へ積まれた材木が軽々と運び上げられていた。
周囲では避難民や元ナユリ兵たちが歓声を上げながら代わる代わる試乗している。
その賑わいと、自分たちが担いできた獲物。
二つを見比べたリッキーが、大きく叫んだ。
「なんで今日なんだよ!昨日完成してりゃ、この坂を担がずに済んだじゃねえか!」
続いてティムも天を仰ぐ。
「せめて朝出る前に、今日出来そうだって教えてくれりゃ良かったのによぉ!」
二人は口々に文句を言う。
だが、その視線は昇降機から一瞬たりとも離れない。
その横では、一緒に獲物を担いできた元ナユリ兵二人が、その場へ膝をついた。
「……俺たちの苦労は」
肩を落とす姿が、何とも言えず哀愁を誘う。
それを見た周囲から笑いが起こった。
「ほら、次はお前たちも乗ってこい!」
誰かがそう声を掛けると、リッキーは獲物を放り出す勢いで昇降機へ駆け出した。
「俺が先だ!」
「待て! 俺の方が先だろ!」
ティムも慌てて追い掛ける。
さっきまで文句を言っていた二人は、すっかり子供のようにはしゃいでいた。
アルスはその様子を見ながら苦笑する。
「なんだかんだ言っても、楽しめるあの二人には感心するよ」
ゼダンが静かに答える。
「全く、殆ど子供だ。あいつらは」
その言葉にアルスも頷いた。
ふと視線を向けると、一人だけ昇降機へ向かわず、獲物を担いだまま入口から少し入ったところで立つ尽くすクラウスの姿があった。
彼は昇降機をじっと見つめ、それから自分が今登ってきた坂道を振り返る。
「……」
何も言わない。
ただ、遠い目をして黄昏れているクラウスの姿が、妙に印象に残ったアルスだった。
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