第18話 鉛色の男
車両が横に跳ねた。
衝撃を受けて、コンパートメントの照明がジジジ、と一瞬消えかけて灯った。その様子を黒髪の長い美しい女性が不安そうに見上げて、向かいに座る灰髪の男性に話しかける。
「ねぇ、さっきから様子がおかしいと思わない?」
「思わない」
髪の毛全体を後方へ流した男性は、手元の新聞を眺めながら答えた。それに対して女性は、「もう」とため息を吐く。今度は真横に座る老人に問いかけた。
「おじいちゃんは? やっぱり乗務員さんに確認した方がいいかしら……」
「アミリは気にせんでええ。坊主もそう言いたいんじゃろ」
老人は白く立派な髭を撫でながら、朗らかにそう答えた。灰色の男性が新聞から視線を上げ、「おい」と不満気な声を漏らす。
「その呼び方はやめろ。幾つになったと思ってる」
「ワシからしたら、まだまだ坊主じゃよ」
「……はぁ」
短くない付き合いから、これ以上言っても無駄だと理解し新聞を広げ直して、男は長い足を組んだ。世界情勢の記事を追う。
偶然、とある人名が目に入った。いつも無意識に探してしまうファミリーネームの一つだった。
『ザファル・ゼレステラ元帥、四年間の闘病の末死去。慣例に従い、後継は長男のアルベール就任。統制は現状維持へ。庶子二名は依然行方不明──』
「…………」
「シロマ君? どうかした?」
微かに動いた眉を見逃さず、アミリが声をかけた。「なんでもない」とぶっきらぼうに返して、シロマは新聞を畳んでしまう。雑に扱ったので皺が増えた。
湧いて出てきた苛立ちを抑えるべく、窓の外に視線を移した。外は依然として暗いままだった。
「あとどれくらいで着くのかしら」
「さあ。日の出前には着くだろうよ」
「……気になる? お友達のこと」
「何が」
「ずっと連絡取れてないんでしょう。汽車に乗る前に、郵便局に寄ってたのが見えたから」
一般人の大陸と島の行き来は禁じられているが、手紙はその限りではない。共に行動するようになってから、シロマは時折誰かへ手紙を送っていた。
アミリは申し訳なさそうに声を潜めて、手元を見た。親指で手の甲を柔く撫でる。
「ごめんなさい。私たちに付き合わせてしまって。会いに行きたいわよね」
「何度も言うが」
シロマは大きく息を吐いて、窓からアミリに視線を戻した。
黒緑の瞳は鋭く、与える印象は冷酷なものだ。しかし内面はそれだけではないと、アミリは知っている。
「お前やジジイのお守りも、除隊したことも、俺が決めたことだ。何度も謝られるのは鬱陶しい」
「……そっか」
アミリはそれ以上は何も言わず、椅子に深く座り直した。コンパートメント内にやや気まずい沈黙が流れる。
耐えきれないのは意外にも、シロマの方だった。忌々しく舌打ちをして、足を組み直す。もう一言ばかり続けようと口を開いた姿に影が落ちた。
「あ?」
開かれた扉の向こう。
通路には壮年の男が一人立っていた。乗務員服に身を包み帽子を目深に被っている。
帽子のツバから、黒い目が覗いた。
男はシロマの顔だけをジッと見つめると、ふと表情が和らいた。わざとらしく左手を体の後ろへ隠す──。
──バリン!!
乗務員を蹴り上げた。拳銃を引き抜く隙も与えない。勢い殺せず男は窓を割り、海へ身を投げていった。アミリが小さく悲鳴を漏らす。
シロマは開け放った扉の上枠を掴み通路を見回すと、それが合図だと言わんばかりに、コンパートメントからわらわらと人間が解き放たれていた。どれもこれも、鍛え上げられた体をしている。
「お前ら、こっから出るなよ」
「ああ。お前こそ怪我するじゃないぞ」
「はぁ? 誰に言ってんだ」
シロマは鼻で笑ってそう答え、扉を後ろ手で閉めた。鍵の掛かる音を確認し、周りを見渡す。ざっと十人前後はいるようだった。男達は一定の距離を保ち、シロマを取り囲む。
「シロマ・ストラニフ」
シロマの左前方にいる大男が名前を呼んだ。右頬に大きな傷跡があり、片目は白く濁っている。振る舞いから見て、この男が彼らの指揮官だろう。
「犯人隠避罪並びに軍脱走罪により、お前を連行する」
その後に続く、「大人しくしろ」の「おとな」の部分まで言って、男は口をつぐんだ。正確に言えば、最後まで言えなかった。
ものの数分も掛からず全てを制圧し、シロマは手を軽く叩いて上を見上げた。戦闘中も何度か激しく打ち付けるような音がしていたのだ。こうなった以上、流石に気にならない訳がない。
「上の様子見てくる」
シロマは大人しく待機していたアミリ達にそう告げると、返事も聞かずに割った窓から屋根上へ上がった。
海の匂いが濃くなる。
暗闇で目を凝らすと、黒の軍服を着込んだ女がハンドガン片手に立っていた。背中を向けているためシロマには気づかない。
風で聞き取りにくかったが、誰かと話しているようだった。
女がハンドガンを構えた。
それを確認し、殺気を隠すことなく一気に踏み込む。
女が振り返る。眼前には拳が迫っていた。警報が彼女の脳を揺らす。
女は反射的に体を捻り、殴打を避けた。体勢が崩れる。倒れ込みそうなところを、片足を強く踏み出し堪えた。
しかしシロマは整える時間を与えない。ビュッ、と空を切る音と同時に、女は屋根の端まで吹っ飛ばされてしまった。うずくまり、咳き込んでいる。
(車体に手をついて勢いを殺したか)
咄嗟に最善の行動を取れるなら、それなりに強い人間だろう。しかし既に手負の様子である。敵ではない。問題は"もう一つ"の方だった。
さて、とシロマは下へ目を向けた。こんな場所にいるのだから、一般人ではないはずだ。
二人の青年を見下ろして、鉛色の髪をした男は冷たく問いを投げた。
***
ユティスの気配が消えたと同時に、ラグラスは車体を思い切り蹴り上げた。弾みがつく。勢いのまま、アスレインが引っ張り上げた。二人して倒れ込んだ。
大きく息を吐き胸を撫で下ろしたが、呼吸を整えるよりも早く、頭上から聞きなれない男の声がした。
「誰だお前ら」
「……!」
眼前に大木が立ち塞がっているような、凄まじい圧迫感だった。先ほどとはまた違った、ゾッと底冷えするほどの緊張感が二人を襲う。
これほどの殺気を出す人間を、アスレインは知らない。モルガナだってここまでではなかった。
(いや……一人、いたな)
アスレインは、意を決して男を見上げた。
灰色の髪をした男だった。前髪は後ろに流して、暗い色の瞳がよく見える。暗闇の中なので細かな顔の造りまでは分からないが、年齢はおそらく二十代から三十代に思えた。
(戦ったら……負ける)
強者としてのオーラが、アスレインにそう悟らせる。情けないが逃げるしかない。
逃げ道を探るべく視線を動かした、その横で突然。
ラグラスがダン!と地面に頭を叩きつけた。
「ラグラス・エルガードと言います! シロマ・ストラニフさんですよね!?」
「ちょ、ちょっと」
「あなた達に協力します! だから……、俺に力を貸してください!!」
あまりの出来事にアスレインはラグラスの肩を掴んだ。
しかし、彼は構うことなく続ける。
「俺、エルダの弟子です。師匠から、自分に何かあったらあなたを頼れって言われてました」
エルダの名前を聞いて、シロマの纏う雰囲気が少しだけ変わった。視線がラグラスに向けられる。
ラグラスは頭を伏せたまま続けた。
「エルダとあなた。それから、セオドア・ゼレステラの三人は、一時期行動を共にしていたと。軍人なんて碌でもないのばかりだけど、この二人だけは何があっても絶対に裏切らないって、師匠が言ってました。だからっ」
「エルダは死んだ」
ラグラスの言葉が止まる。
「俺が知らないとでも思ったか? くだらねぇ。今さら死人のために出来ることなんて何もねぇよ」
冷たい声が海風に乗って、後ろへと流されていく。
シロマの顔からは怒りや悲しみの感情は読み取れなかった。
ただ深く、黒く澱んだ眼で、銀色の頭を見つめている。
「故郷に帰って畑でもやってた方が、よっぽど懸命だぜ」
「エルダは生きてる!!!」
ラグラスは叫ぶようにそう言った。
握り込んだ拳から皮膚が裂けて血が滲む。心臓がバクバクと脈打ち、全身を揺らしていた。
死んでなんかいない。
あんなに強くて優しい人が、死ぬはずがない。
ラグラスは覚えている。エルダの手のぬくもりも、優しい眦も、少しかすれた声も。その全てを。
──絶対に取り戻す。
彼は大きく息を吐いて、今度は絞り出すようなか細い声でこう言った。
「約束したんだ。だから、力を貸して欲しい」
シロマは何も言わない。
その言葉を鵜呑み出来るほど、彼は馬鹿ではない。
しかし、旧友の忘れ形見であれば捨て置くのも良心が痛む。そんなところだろう。
──つまり、道理をもう一つ、増やしてやればいいだけだ。
「……セオドア・ゼレステラ」
アスレインがそう呟いた。シロマの黒い目線が動く。僅かな汽車の灯りが彼の瞳を一瞬の間、闇の元に晒した。
「僕もゼレステラの人間です。……兄に手紙を送っていたのは、あなたですよね?」
抑揚のない声でアスレインは問いかけた。シロマの体がピクリと反応する。
──『それなら、少しは信用してやってもいい』
ラグラスの言葉を思い出す。
彼がそう言ったのは、きっとゼレステラを利用するつもりだったのだろう。
それで構わない。
おかげでようやく、自分の進むべき道が見えたような気がしたから。




