第30話 サリオン様の過去(前)
空が茜色に染まって、周囲が段々と薄暗くなってくる。
夕刻を過ぎても私はまだ、その場から動けないでいた。
立ち上がろうとするたびに、歩き出そうとするたびに、様々な記憶が蘇る。
――母の優しい笑顔、火事のトラウマ、実家での惨めな暮らし、サリオン様との楽しかった思い出。
そしてサリオン様を深く傷つけてしまったという事実が、私の心を深く沈みこませる。
謝りたい。償いたい。
けれど、それも何の意味もなさないのかもしれない。
どんなに願っても過ぎた時が戻らないことを、私は良く知っていた。
俯く私に大きな影がかかる。
不思議に思って顔をあげると、いつの間にか黒銀のドラゴン――アウロスが静かにたたずんでいた。
「あなた……サリオン様と帰ったんじゃ」
アウロスは喋ることは出来ない。
ただ、北の空を見上げて、緩やかに翼を揺らすだけだ。
「もしかして、私が困ると思って、サリオン様があなたを残していってくれたの?」
アウロスは黒い瞳をゆっくりと細めた。
それが肯定を示す表情のような気がして、私は胸がいっぱいになった。
「私、黒曜城に戻らなくちゃ。許してもらえないとしても、サリオン様に、きちんと謝らないと」
私は意を決して、そっと立ち上がる。
荷物を片付けるとアウロスの背に乗って、夜に染まりゆく空を黒曜城へ向けて飛んで行った。
◇ ◇ ◇
黒曜城の上空まで戻ってくると、城門の手前で空を見上げる人影が見えた。
近づいて行けば、それはリュミエさんの姿だと確認できる。
彼女は私とアウロスに気が付くと、ほっとしたように手を振った。
「お戻りになられましたか、良かった。探しに行こうと思っていた所でしたよ」
リュミエさんの傍にアウロスは着地する。
私はそのドラゴンにお礼を告げて城の石畳の上に降り立った後、暗い表情でリュミエさんを見上げた。
「ごめんなさい。皆さんに、折角準備も手伝って頂いたのに。私がサリオン様を、傷つけてしまって」
「ええ、事情は大体、伺っておりますよ」
リュミエさんの声はとても柔らかく、温かいものだった。
彼女はそっと私の肩に手を置く。
「まずはこちらへ。お疲れになったでしょう。温かい紅茶でも淹れましょうね」
リュミエさんの心遣いに、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、涙が零れ落ちそうになる。
それを必死にこらえて、私は声を紡いだ。
「いえ、あの、私、まずはサリオン様に謝らなくてはいけないんです!」
「まあまあ……」
泣くのを無理やり堪えた私のぐちゃぐちゃな顔を見て、リュミエさんが瞬く。
それからふっと微笑んで、私の頭を撫でてくれた。
「大丈夫、陛下なら、今はヴァルクたちが付いておりますから」
「そう、ですか。もしかして、私の顔を見るのすら、もうお嫌なのでしょうか……」
「ふふふっ、まさか! 城に帰ってからも、陛下はずっとカナリヤ様の身を案じていましたよ」
「えっ」
「でもね、少しだけ私に、お付き合いいただけませんか?」
「リュミエさんに?」
「はい。陛下のことを、お伝えしておきたいのです」
「サリオン様のこと……」
「それに今は戻ったばかりで、カナリヤ様も気分が落ち着かないでしょう。思いを伝えるのであれば、気持ちを整えてからでも遅くはありませんよ」
私はハッとして、自分の頬に手を当てる。
きっと今は酷い顔をしている。サリオン様を余計に傷つけたり、心配をかけてしまうかもしれない。
「はい、では、その。お言葉に、甘えさせていただきます……」
俯きながら頷く私の肩を優しく抱いて、リュミエさんが歩き出す。
そのまま私は、リュミエさんの部屋へお邪魔することになった。
◇ ◇ ◇
東塔の上階にあるリュミエさんの部屋は、白を基調とした落ち着いた雰囲気だった。
ベッドが大きかったり、棚がとても高い場所まであるのは、魔物形態でいることが多いからだろうか。
それでも部屋の中央にあるテーブルセットは人間向けのものだった。
サリオン様を招いたりすることもあるのかもしれない。
私が勧められるままに席に着くと、リュミエさんは温かな紅茶を淹れて来てくれた。
「お砂糖は?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「――本当は?」
くすくすと優しく微笑むリュミエさんに、私の頬が少し熱くなる。
「あの、ええと、ひとつ」
「はい、宜しい。ここでは遠慮はいりませんよ」
こうして私の前に、品の良いカップに注がれた甘い紅茶が置かれた。
お礼を言ってから口を付けると、温かさが染み渡っていくように感じられる。
リュミエさんは私の正面に座ってしばらく私の様子を見守ってくれていた。
カップの紅茶が半分くらいになったところで、彼女はゆっくりと口を開く。
「陛下のことは、おそらくご本人から少しは聞いていらっしゃると思いますが」
「ええ、少しだけ。持っている力のことや、お仕事のこと……」
「そうですね。陛下は、とにかく、特別なお方ですから」
そう語るリュミエさんの声には、尊敬や崇拝よりも、むしろ慈愛の色が滲んでいた。
「まずはあの御方が生まれてからについて、お話いたしましょう――」




