第9話 指図のとおりに
火かき棒は、動かずにいた。
鍋の縁を回る音が途切れてから、私が灯精の鉢の蓋を一度直すだけの間があって、それでもギドの手は鍋の中に沈んだままだ。蝋は火に掛かっている。回さずに置けば縁から焦げると、四十年この炉を使ってきた人が知らないはずがない。
ギドが立ち上がったのは、その後だった。作業台のほうへ向き直っても、目は封書へ行かず、私の右手のあたりで止まっている。
「返事は、書くな。持って行け」
それだけを言って、炉の前へ戻った。火かき棒が動き出し、鍋の縁で焦げかけていた蝋が崩れる音がする。
書くな、と言われた理由を、この人は言わない。書いた返事は書記の手に渡って終わるが、持って行けば、指図を書いた家の中に立つことになる。そう受け取ったのは私で、ギドがそこまで言ったわけではない。
五年のあいだ、依頼人の相手方の家へ、自分から返事を持って行ったことは一度もない。飾りに入る広間はいつも依頼人の側が用意し、私は札を下げて裏口から入り、幕の裏から出ずに帰ってきた。
ヨナは芯糸の束を棚へ上げながら、封書と請負書を交互に見ている。
「姐さんが向こうの家に行くの、初めてだね」
「初めてです」
「馬車、呼ぶ? 四半刻で着くよ」
「歩きます。石段で足りますから」
「……どっちの勘定で行くの」
「まだ、どっちでもありません」
壁の釘から請負札を外して首に掛ける。紐は昨夜の汗を吸ったまま乾いていて、首の後ろで少し硬い。封書は懐に入れず、手に持ったまま出た。署名の乾いた請負書を棚に残していくのに、封書だけを胸の側へ入れる気になれずにいた。
石段は昼前の光で白く、貴族街の門では、いつもの門番がいつものとおり札だけを見た。顔は見ない。見られずに済むことに、今日ほど助けられた日はない。
ラングレ伯爵家は貴族街の東寄り、門柱に緑の紋を彫った屋敷で、裏口ではなく正面の戸口から通された。職人を正面から入れる家は多くない。裏口から入れば台所の者の目をいくつも通るが、正面から入れた職人は、家令の目だけを通る。
家令は年嵩の男で、白い髪を後ろへ撫でつけ、両手を腹の前で組んで私を待っていた。その手には何も持っていない。手帳も、鉛筆も。
昼の広間は、ただ明るかった。夜になれば灯精が入る燭台が壁に沿って空のまま並び、高い窓から入る光がそれを平らに照らしている。昨日の朝、幕を引き取りに入ったあの伯爵家の広間もこうだった。暗くなる前の広間は、どこの家でも同じ顔をしている。
広間の真ん中の卓に、紙が一枚、もう載っていた。
「明かりは、図面のとおりに。職人の方には、置いていただくだけです」
家令が卓の脇に立って言う。私は請負書の声を出した。
「明かりは、当方の目で。壁の色と天井の高さで、灯精の数は前後いたします」
「指図のとおりに、と封書に書いたはずです」
声は大きくも小さくもならず、書いたはずのことを読み上げただけの声だった。私の返事はそこで途切れ、右手が図面の縁へ伸びかけて、触れる前に止まる。人の家の紙だ。家令はもう一度、掌で卓の紙を示した。
「当夜は夕の鐘の前においでください。燭台は当家のもの、蝋燭と灯精は工房から。合図は当家から出します。立会人の方々が席に着かれてから、明かりを入れていただきます」
「進行も、当家の指図で」
「左様でございます」
紙の上には、広間の形が黒い線で引かれ、丸印が十二、並んでいる。壁沿いの燭台に八つ、卓の両端に二つ。それで十本で、残りの二つは壁沿いにも卓にもなく、広間の奥、立会人が座る三つの椅子の斜め後ろ、袖の垂れ幕の陰に描いてあった。
余りの二本は、そこに置く。私が五年、依頼人の相手の斜め後ろへ置いてきたのと、ちょうど広間の反対側だ。
立会人の後ろに灯精が二つ増えれば、立会人の顔は逆光になって見えず、正面に立って答える者の顔だけが一段明るくなる。目が下がれば、下がったのが見える。瞬きを忘れれば、それも見える。
数えたのは、あの夜も十二だった。
光の真ん中に立たされて、何を言っても嘘に聞こえたあいだ、私は答えるのをやめて、目の前の光を数えていた。壁の燭台はもっと並んでいたのに、火が入っているのは八つで、卓に二つ、それから立会人の三つの椅子の後ろに、幕の陰から二つ。十二。数え終わっても次の問いは来ず、それで床を見た。
あの夜の王宮の広間と、この図面は、同じ数を同じところに置いている。
図面の線は、封書の書記の字とは別の手で引かれていた。書記の字は整いすぎて誰の手にも見えないが、この線は燭台の位置で一度ずつ止まり、止まったところに小さく墨が溜まっている。置く場所を知っている手だ。
「図面は、どなたのお手で」
「当家の指図でございます」
答えになっていない答えを、家令は同じ声で言った。それが誰の手かは、紙のどこにも書いていない。
「ファヴル嬢が、貴工房においでになったと伺いましたが」
図面から目を上げると、家令は同じ姿勢のまま、腹の前で組んだ手を解いていない。目だけが、私の首の札へ一度下りて、戻った。
封書が戸に挟まっていたあいだ、戸は開いていた。ソランジュが敷居をまたぐのを、挟んだ誰かが見ていたことは分かっていて、分かっていたのに、この家の家令の口から出るとは思わずに来た。足が卓の縁で止まり、請負書の声は喉のどこにも見つからない。
「ファヴル様から、装飾の依頼は頂いておりません」
出たのは、五年前で止まった敬語だった。嘘ではない。棚に立てた請負書の表の装飾費の欄は、今朝も空いたままだ。訊かれたことに全部を答えていないだけで、それは嘘をつくのと、手触りが違う。今朝、訊かないほうを選んだのは私で、今は答えないほうを選んでいるのも私だ。
「左様で」
家令はそれだけ言った。手帳を出さず、紙にも書かず、次を訊かない。副隊長なら、ここで鉛筆を舐めて一行書き、二問目を出す。書かれれば書かれた形で残り、残った形は読める。書かない人間が何をどう残しているのか、私には見えず、見えないまま卓の前に立っている。
「式典監殿も、当夜はお見えになります。明かりをご覧になりたいと」
式典監は王家の式典の明かりを仕切る役で、家と家のあいだの公示に出てくる役ではない。建前どおりなら、伯爵家の夜会に来る理由はどこにもない。
「式典監殿が、伯爵家の夜会に」
「お目に留まる明かりでございます。心してお願いいたします」
五年前の王宮の夜会を仕切っていたのも、その役の男だった。私の立つ位置を決め、燭台の数を決め、立会人の椅子を並べたのが誰の手か、あの夜の私は一度も考えずにいた。数えていただけだ。
断れば、この図面はほかの職人の手に渡る。下町に照明師は何人もいて、丸印のとおりに置くだけの仕事なら誰でもできる。そうなればソランジュ・ファヴルは、五年前の私と同じ数の光の真ん中に立ち、黙っている目を、立会人の後ろの二本に照らされる。
受ければ、置くのは私の手だ。十二本を丸印のとおりに置く手と、そのあとで鏡を一寸動かす手は、同じ手になる。そしてその一寸に気づける目は、広間にただ一つ、明かりを見に来るというその役の目だけだ。
「お請けします」
声は請負書の声に戻っていた。家令は頷いて、卓の端に伏せてあった紙を表に返した。伯爵家の側で作った請負書で、装飾費の欄には金貨十五枚と、すでに数字が入っている。伯爵家の格の値だ。裏はなく、一割の行もなく、私が書く欄は名前の一つだけだった。
「図面の写しを、頂けますか」
「お持ち帰りは、ご遠慮ください。当夜、この卓に同じものを置いておきます」
私はもう一度、図面の丸を数えた。壁に八つ、卓に二つ、椅子の斜め後ろに二つ。数えて覚えるのは、五年前からの癖だ。
「嘘をつく娘を迎える家が、嘘をつくことになります」
鉛筆を取った私に、家令はそう言った。封書の一文を、口で言い直した形だ。この人にとってこの夜会は正しい場で、正しい場に正しい明かりを置く職人を雇っているだけで、たぶん本当にそう思っている。
署名する手は、震えずに済んだ。名の最後の一画を引くとき、紙の上に汗が一つ落ちて、インクではないので跡にはならずに乾いた。
「五日後に」
「五日後に、夕の鐘の前に」
貴族街の門を抜け、石段を下りるあいだに、掌の汗が引いていった。段を数えていて、途中でやめる。数えた十二は、引いていかずに残っている。
工房に戻ったのは夕の鐘の前で、ヨナは戸の内側に、ギドは炉の前にいた。
「表だけで、金貨十五枚。裏はありません」
「十五? 裏なしで?」
「向こうの家の請負書に、先に数字が入っていました」
「コルネ様は、八枚だったのに」
ヨナは指を折って何かを数えかけ、手を下ろした。下ろした手は、棚に立てたままのソランジュの請負書のほうへ一度向きかけて、戻った。
作業台に紙を一枚置いて、鉛筆で広間の線を引く。壁に八つ、卓に二つ、丸を描いて、それから奥に三つの椅子を描き、その斜め後ろの、幕の陰に二つ。
「明かりは、これで。図面は持ち帰れませんでしたので、数えて覚えました」
ギドは火かき棒を鍋に立てかけたまま、作業台まで来て、紙を見下ろした。長いあいだ、何も言わない。灯精の鉢が棚で一つ鳴り、ヨナが動きかけて、やめた。
「……二本、多い」
請負書の本数より二本多い、という言い方ではない。伯爵家の請負書を見ていないこの人が、丸を数えて十二と分かって、二本多いと言った。何より多いのかは、言わない。
それから、棚へ手を伸ばした。
二本の蝋燭の隣の帳面を取り、作業台の上で開く。昨日、副隊長の名を出しても伸びずにいた手が、頁を後ろから前へ繰っていく。私の字が終わり、その前の、角張った別の字が始まるところで手が止まり、そこへ、私が描いたばかりの紙を挟んだ。帳面を閉じ、棚の元の場所へ、背の向きを朝と同じにして戻す。
理由は言わない。私も訊かない。昼に卓の前で全部を答えずに済ませた手触りがまだ掌に残っていて、訊かないほうも、同じ手触りをしている。
ヨナが、帳面の背から私へ目を移した。
「で、どっちの勘定」
「表はラングレ。裏はファヴル。……広間は、一つです」
「一つの広間に、二枚」
「二枚です。置く手は、一つですが」
ヨナは自分の帳面を開き、ソランジュの件の頭の下に、もう一つ頭を作った。零、と書き、その隣にも零と書く。二つの零が、同じ頁に並んだ。
夕の光が戸口から作業台まで伸びて、右手の甲の火傷跡三つが、その中にある。五年前に数えた十二本を、五日後には、この手で置く。あの夜の広間を仕切っていた男が、その明かりを見に来る。




