第10話 届かない二本
帳面は、棚の元の場所に立っていた。
背の向きは昨日の朝と同じで、二本の蝋燭の隣にある。
ただ、古い頁に挟んだ紙の端が背の側から紙一枚ぶんだけ外へ出ていて、朝の光がそこだけを白く拾っていた。ギドは鍋の前で火かき棒を回していて、棚のほうを一度も見ない。直さずに置いてあるのだと分かったので、私も押し込まずに、灯精の鉢の蓋だけを順に開けて回った。
夜会まで、あと四日だ。
ヨナの姿は朝から見えず、炉の脇の板に炭で、端蝋、届けてくる、と一行だけ書いてある。あの子の炭書きにはいつも行き先と戻る刻と、かかる銅貨の数まで並ぶのに、今朝はどこへとも書かずに終わっていて、板の残りが黒いまま空いていた。
作業台を壁へ寄せて、床を広間にする。棚の前に八本を並べて壁の燭台とし、木箱を二つ伏せて卓の両端に見立て、そこへ二本。
戸口と反対の奥には椅子を三つ置いて、それぞれに外套を掛けた。私のと、ギドのと、釘に残っていた古い一枚で、背もたれに肩を合わせてやると、座った人の形に近くなる。その斜め後ろの梁から幕を垂らし、陰になったところへ残りの二本を立てた。
窓の板を下ろし、戸を閉めて、一本ずつ芯をつまんで灯精を起こしていく。十二本目の芯は指の腹に少し硬く、起きるのが遅い。
戸が開いたのは、その灯精がようやく立ったときだった。朝の光と一緒にヨナが入ってきて、空の籠を戸の脇に置き、床の明かりを端から数えている。
「遅かったですね」
「うん、ちょっとね」
どこへ、の続きは出てこない。ヨナは後ろ手に戸を閉めて、幕の陰の二本を覗きこんだ。
「これ、昨日の図面?」
「図面のとおりに、十二本です」
「椅子が立会人で、外套が三人。じゃあ、答える人がいないと始まらないよ」
言い終わる前に炉の前へ行き、ギドの袖を引いた。四十年この工房で灯りを灯してきた人が、火かき棒を握ったまま、床の真ん中まで引かれてくる。
「爺さん、何か白状して」
「……蝋が値上がりした」
「それ、誰の罪なの」
「蝋屋だ」
ヨナが笑い、私も笑いかけて、途中でやめた。
ギドの顔だけが、明るい。額の皺の一本ずつ、火かき棒を持ち直す指の節、言い終えて一度だけした瞬きまで、置いた私の目に全部届いている。その向こうの椅子の三つは黒い形でしかなく、どれが私の外套なのかも、掛けた本人に見分けがつかない。
「代わります」
ギドは何も言わずに炉へ戻った。空いたところへ立つと、光は正面から来た。壁の八本と卓の二本は横から頬を照らすだけなのに、幕の陰の二本は、三つの黒い肩のあいだを抜けてまっすぐ目に入ってくる。問う者の顔を探しても、見えるのは形だけだ。こちらの目がどこへ下がったかは、向こうから残らず見えている。
五年前と、同じ見え方だった。
「姐さん、目が下がってる」
「ここに立てば、誰でも下がります」
ヨナと入れ替わり、鏡を袖の位置へ運んだ。縁の真鍮は朝のうちの冷たさを保っていて、そこへ指を当てて一寸だけ内へ向けると、壁の八本の光が揺れて、ヨナの顔の右半分に影が落ちる。卓の二本も同じように沈んで、ここまでは五年やってきたとおりに動かせる。
幕の陰の二本だけが、鏡の中に入ってこない。
袖の位置からでは垂らした幕の背が先に映り、鏡を右の壁際へ据え直すと、今度は外套の肩が鏡の面を塞いだ。三度目は幕の真裏まで下げてみたが、映ったのは布の織り目ばかりで、灯精は一つも揺れない。
「姐さん、あたしの顔、暗くなった?」
「……いいえ、瞬きまで全部見えています」
届かせるには二本のほうを半歩、陰から出すしかなく、出せば図面と違う。丸印を引いた手の持ち主なら、広間に入って最初の一目で気づく。
鏡の縁が、指の温度になっていた。
私の一寸は、私が置いた明かりの中でしか使ったことがないのだ。置く場所を自分で決め、余りの二本を自分で袖の奥へ立て、そのうえで動かしてきた。人の図面の中で、置かれた明かりを崩す側に回るのは初めてで、初めてのことは三度やって三度とも届かずに終わった。
四日後、ヨナのいるそこに立つのはソランジュ・ファヴルで、私の手にあるのはこの鏡だけだ。
炉のほうで、鍋の縁を回る音が緩む。
「……あれは、見る側には親切な明かりだ」
ギドは鍋から目を上げずに言った。
嘘を見つけたい者にとって、これより正しい置き方はない。答える者の目も、喉も、指も、隠れるところが一つもない。私が五年、依頼人のために隅を作ってきたのと、向きが違うだけの同じ仕事だ。
「逆光の芯は痩せるから、当夜は太いのを持って行け」
それきり、話は灯精のほうへ逸れた。
昼の鐘のあと、戸を叩く者があった。ラングレ家の下男で、敷居の外から折った紙を差し出し、当夜の進行でございます、とだけ言って帰っていく。紙は厚く、折り目に指を入れると、封書と同じ書記の整った字が出てきた。
入場の順のあとに立会人の席が三つ並び、中央にロヴェル伯爵、右にオーブレー侯爵家レナルド様。その名の上を、指が勝手に避けて通る。左の席には、式典監殿の御推薦により、と一行置いて、三つ目の名があった。
ラモン男爵。
肩越しに覗いたヨナが、息を止めた。
「四百枚の人だ」
「払うほうの方です」
「……あの人、姐さんの顔、覚えてるよ。橋で、札から顔まで見たもん」
「暗くしました、と申し上げた相手です」
「それ、まずくない?」
「まずいです」
奥の左の椅子では、釘に残っていた古い外套が黒い形のまま座っていて、そこに名前が一つ入った。
橋の馬車の窓枠を、三つずつ叩いていた指輪の指。あの人は、この工房が依頼人の相手の顔を暗くすると知っていて、それを私の口から聞いている。明かりを見に来る式典監と、暗がりを知っている男爵。見る目が、二つになった。なぜその人が推されたのかは、書付のどこにも書いていない。
ヨナは空の籠を取り上げ、持ち直して、また床へ置いた。
「端蝋、救貧院に持ってった」
芯の残った端蝋は、前から教会の救貧院へ回している。届けるのはヨナの役で、ただ、いつもの日より早い。
「姐さんは訊かないって決めた。あたしは決めてない」
「……何を、訊きましたか」
「賄いのおばさんに、ファヴルのお嬢さんは収穫祭の晩に来たかって訊いたら、来たって。中で何してたかは、言わない約束だからって、教えてくれないの」
「約束、ですか」
「誰との約束かも言わないんだけど、でも」
ヨナの指が一本立ちかけて、止まった。数字を言う前にこの子の指が止まるのを、私は初めて見ている。
「男は、いたよ。収穫祭の晩も。月に二度、同じ日に、裏の戸から来るんだって。制服じゃない外套で」
「それは、どなたですか」
「……副隊長」
ギドは振り向かず、ただ火かき棒が鍋の縁の同じところを二度こするのが、炉のほうから聞こえた。
「今朝、あたしも見た。裏の戸のところで、ほんとに、制服じゃない外套だった。向こうもあたしを見たよ。見て、手帳を出さなかった」
「何か、言われましたか」
「何も言わないで、頭を下げただけ。あたしの名前、今日も訊かなかった」
棚からソランジュの請負書を取った。鏝で伸ばされた白い筋が斜めに走っていて、裏の三行目を指でなぞると、鉛筆の粉が指の腹に移る。男と会っていたと言うなら誰か、とラングレ様の口から言わせる。
嘘には名が要る、と私は言った。名が出れば立会人の前で確かめられる、出なければ出ないところを立会人が見る、と。
ティボー・ラングレがあの晩の男を知っていれば、この一行が広間に出させるのは副隊長の名で、知らなければ、言えずに黙る。どちらになるかは向こうが何を知っているか次第で、私はそれを知らない。知らないまま書いて、署名をさせた。
書かれなかったことは、無かったことになります。私はそれを一度、身内で見ました。
そう言った人の名を、私の請負書が、三人の立会人の前へ書かせにいく。行は鉛筆で書いたのだから、擦れば薄くはなる。けれどその下にはソランジュの名があって、名の入った紙の行は、書いた者の手だけでは消せない。
「あの一行、誰の名前が出るの」
口を開けて、閉じた。右手の甲の火傷跡を親指で古い順に撫でても、出てくる言葉がない。ヨナは立ちかけた指を一本、宙に残したまま、数字を言わずに私の手を見ている。置いていかれた回数とは別の勘定が、その指の上で止まっていた。
夕方、窓の板を一枚だけ上げて、もう一度答える者の位置に立った。幕の陰の二本は痩せもせずに目へ入ってくる。鏡は届かず、届かないのなら、動かすのは明かりではないのかもしれない。
作業台から書付を取り、光に近づけて読み直す。入場の順も席も書いてあり、合図は当家から、ともある。けれど、問う者がどこに立ち、答える者がどこに立つかは、一行も書かれていない。
進行は、工房の請負だ。
「ヨナ、図面に人の丸はありましたか」
「姐さんが描いたやつには、蝋燭の丸しか」
「向こうの紙にも、蝋燭しかありませんでした」
書付を畳んで、床の真ん中から半歩、幕の側へずれてみる。黒い肩の一つが二本のうちの片方を隠して、目に入る光が半分になった。
「明かりは、指図のとおりに。……立つ場所は、指図にありません」
鍋の縁で、火かき棒が止まった。昨日は蝋が焦げかけるまで動かずにいた手が、今日は私が息を一つ継ぐあいだに、もう回り出している。
戸が二度、叩かれた。
ヨナが開けると夕の光が床の十二本の上まで入ってきて、戸口に立った人はそれを全部背負っている。肩の線と、脇に下ろした両手の形しか見えない。今日一日、椅子の上に見てきた黒い形と同じだった。
「ヴァルツさん。四日後のラングレ家の警備は、私の持ち場になりました」
丁寧な声で、空いたままの手は、今日も手帳を出していない。
ヨナの指が下りる。私は影から目を離せずに、作業台の請負書を、あの一行を下にして置いたかどうか、思い出せずにいた。




