第8話 答えないでください
朝の光が戸の隙間から棚の一段目まで伸びていて、そこに立てたはずの折れた紙が、昨夕の形をしていなかった。
指の形に握り折ったはずの請負書が、平らになっている。棚から下ろして作業台に置くと、折れていたところに白い筋が細く残っていて、筋は四本、私の指の数だけ斜めに走っていた。紙の真ん中に掌を当てると、まだ少し温かい。朝の工房で、炉より先に温まっているものは一つもないはずだ。
炉の縁に、ギドの鏝が載っている。蝋燭の肩を均すのに使う小さな鏝で、いつもは道具掛けの三本目の釘に下がっているのに、今朝は柄を炉の内側へ向けて、熱の残る煉瓦の上に寝かせてあった。
ギドは炉の前にしゃがんで、灯精の鉢に蓋をかぶせかけていた。昨夕、訊く言葉を一つも組めずに終わった背中が、今朝も同じ場所にある。伸ばしてくださったんですか、と言えば、この人がそれを受け取らずに寝床へ持っていくのを私は知っていて、ではどう言えば受け取るのかを、白い筋の上に指を置いたまま探していた。
「紙は、折ったままだと燃えやすい」
私が口を開くより先に、背中がそう言った。それきりで、ギドは蓋を少しずらし、朝の湿りで灯精が弱っていないかを覗きこむほうへ戻っている。
燃えやすい、と言われればそのとおりで、折れ目は炉の熱で起き上がり、火の粉を拾う。四十年灯精を扱ってきた人の理屈として正しく、正しい理屈のほかは何も言わないのが、この人のやり方でもあった。私は鏝の柄を向き直して三本目の釘に掛けた。握った柄は、まだぬるかった。
ヨナは芯糸を買いに、川向こうの糸屋へ出している。昨夕、蝋は足りるのかと訊かれて、数えて足しますと答えたのは私で、数えた結果が芯糸の不足だった。ギドは灯精の鉢を棚へ戻し、昨日の蝋を入れたままの鍋を火に掛けて、火かき棒で縁を回しはじめている。
ソランジュ・ファヴルが来たのは、朝の鐘が鳴りやんでしばらくしたころだ。
四輪の音は昨日と同じく染物屋の裏で止まり、歩いてくる足音は一人分しかない。マダム・オレリーの丸い影はどこにもなく、今朝のソランジュは縁飾りのない灰色の外出着で、フードもかぶらずに朝の光を顔に受けていた。
「おはようございます。書くのはあとで、と昨日マダムがおっしゃいましたので、そのあとを頂きにまいりました」
「お入りください。戸は、開けたままにしておきます」
言ってから、昨日の自分へ言い訳をしたような気がした。ソランジュは敷居をまたいで作業台の前に立ち、伸ばされた紙の白い筋を見た。
「昨日、私が折りました」
訊かれる前に、私のほうから言った。
「存じております。拝見しておりましたから」
紙を裏返し、鉛筆を取って裏の一行目に指を置く。一割、立会人三人、言わせる一行、逃げ道の一行。訊く順番は、いつもと同じにするしかない。
「罪状の中身を伺います。嘘、というのは」
ソランジュは作業台の縁に指先を揃えて置いた。
「嘘は、ついております」
ゆっくりした声は昨日と同じで、嘘のところで下がらない。
「病だと申して、救貧院へ参りました。この秋の収穫祭の夜会を、熱があると申して欠いて、その晩は教会の救貧院におりました。……あの方が明るいところで言うのは、その先のことです」
「あの方、というのは」
「ラングレ伯爵家の、ティボー様です。私の婚約者の」
初めて聞く名で、私の耳は何も埋めずに、それをそのまま受け取った。
「次の夜会は五日後、ラングレ家でございます。そこでティボー様は、私が救貧院で男と会っていたと、立会人の皆様の前でおっしゃいます。書状には嘘をついた、とだけございましたけれど、その先は、あの方がご自分の口で私に言われました」
ファヴルの家は王家の側だ、とソランジュは続けた。公示破棄に教会が何と言っているかは、下町の職人でも知っている。その教会の門を、王家の側の娘が病を装ってくぐったことは、家の中でも言えない。
「救貧院では、何を」
訊きかけて、鉛筆の先を紙から浮かせた。
「それは申し上げられません。申し上げれば、ご迷惑のかかる方がおりますので」
揃えた指先が、作業台の縁を少しも押していない。力を入れずに置いた指で、それだけを言った。
五年のあいだ、依頼人には全部を言わせてきた。本物を本人に言わせるのが私の仕事で、嘘をつかない代わりに、知らないまま仕事をしたこともない。それでも私は鉛筆を下ろし、訊かないほうを選んだ。嘘をつかないことと、訊かないことは、どちらも黙っている形をしているのに、手触りが違う。
石段を上がる軽い足音がして、戸口の外に栗色の頭が止まった。芯糸の束を抱えたヨナは、中の顔ぶれを見ると、敷居をまたがずに戸の脇へ背をつけた。貴族の話が始まったら外、と覚えさせたのは私だが、今日は外に出きらずに、耳だけこちらへ残している。
「当夜の問答を、一度やってみましょう。私がラングレ様の役をします」
コルネ家でも、その前の家でも、夜会の前には必ず稽古をつけてきた。依頼人が立つ位置、相手に向ける問いの順番、問うたあとに黙る長さ。ただ、稽古をつけてきたのはいつも問う側で、問われる側に立った人と組んだことは一度もない。
私は作業台の角を回って、ソランジュの正面の、少し近すぎるところに立った。
「ファヴル嬢。収穫祭の晩、救貧院で、誰と会っていた」
「……どなたとも。男の方とは、お会いしておりません」
本当のことを言っている。それは声で分かるのに、男の方、のところで目が作業台の縁まで下がり、そこから戻るのに一拍かかった。
「では、救貧院で何をしていた」
「それは、……申し上げられないことで、」
言葉を選ぶたびに、選んでいることが顔に出る。何かを避けて通る人の顔は、明るいところでは、避けていること以外のものを何も見せない。
「目を、私から外さずに。答えは短く、毎回同じ言葉で」
問う側の依頼人には、いつもそう教えてきた。ソランジュは言われたとおりに私の目を見て同じ言葉を返したが、外すまいとする目は瞬きを忘れていて、短く揃えた答えは、覚えてきた台詞の音がした。三度目に同じ問いを投げると声は細くなり、揃えていた指が一本ずつ縁から離れていった。
「……嘘ついてる顔」
戸口から、ヨナの声がした。言ってしまってから自分で口を押さえたのが、戸の影の動きで分かる。
ソランジュは振り向かずに、耳の縁だけを赤くした。
四度目を投げようとして、私の口は問いの形のまま止まった。
誰と会っていた、と訊かれたら、名を言うか、言わないかしかない。言わなければ隠しているように見え、言えない理由があれば、その理由を避けるたびに目が下がる。この問いは、答えを聞く前から、答える人の顔を決めている。
五年前の広間で、私が何を言っても嘘に聞こえたのは、光の真ん中に立たされたからだと思ってきた。光だけでは、足りなかったのだ。
問いのほうが先に作ってあって、どう答えても隠しているように聞こえる形のものが、立会人の口へ順番どおりに渡されていた。あの夜の筋書きを書いた人間は、私の答えを待っていたのではなく、私の顔を待っていた。
そしてその形を、私はこの五年、依頼人のために組んできた。相手が避けて通れない問いを置き、避けた顔を明るいところへ出す。守る側に立って、初めてその形が向こう側から見えた。
「稽古は、やめます」
ソランジュが顔を上げた。
「当夜、誰と会っていたと訊かれたら、答えないでください」
「……黙っておりましたら、それこそ」
「一度、黙ってみてください。問いは、今のと同じにします」
私はさっきと同じ近さで、同じ問いを投げた。ソランジュは口を閉じたまま、私の顔を見ていた。昨日、火傷跡から目を逸らさずにいたのと同じ目で、黙っているあいだ、その目はどこへも下がらず、揺れもしない。
戸口の影が、少し遅れて動いた。
「……今の、嘘ついてない顔」
今度は、ヨナは口を押さえずにいた。
作業台に戻って、伸ばされた紙の裏に鉛筆を当てる。白い筋が行を斜めに横切っていて、鉛筆の先はそこで一度、小さく跳ねた。
「言わせる一行は、これにします」
相手に、男の名を言わせる。
「嘘には、名が要ります。男と会っていたとおっしゃるなら、それはどなたか、とラングレ様の口から言わせます。名が出れば、立会人の前で確かめられる。出なければ、出ないところを立会人が見ます」
揃えて置かれていたソランジュの指先が、そのとき一度だけ、作業台の縁を押した。すぐに元の軽さへ戻ったそれを、私は訊かないほうへ置いた。
「それで、逃げ道のほうは」
ソランジュが、私の手元の次の行を見ていた。
「今度は、ラングレ様の側に残します。救貧院の件だけを言うのなら、男の話は問わない」
「……救貧院の件だけでも、公示は成るのでしょう」
「成ります。嘘は、ついておいでですから」
ソランジュは少し黙って、それから、昨日と同じ浅さで頷いた。
「それで、よろしゅうございます。病だと申したのは私ですもの」
一割、立会人三人、言わせる一行、逃げ道の一行。裏面はいつもと同じ型で、同じ私の字で埋まっていて、向きだけが逆さになっている。表の装飾費の欄は空いたままだ。守る側には、飾る広間がない。
ソランジュは鉛筆を受け取って裏の下に署名し、その名の最後の一画が、ちょうど白い筋の一本を跨いだ。
染物屋の裏まで送っていったのはヨナで、戻ってきたとき、芯糸の束の上に封書を一通載せていた。
「戸の外っ側に挟まってた。開けっ放しだったから、中からは見えないとこ」
戸を開けておいたのは、私だ。開いた戸は外側の面をこちらへ見せず、いつから挟まっていたのかは、中にいた私たちには分からない。ソランジュが作業台の前に立っていたあいだなら、敷居をまたぐところも、誰かに見られていたことになる。
受け取った封書は厚手の紙で、親指で押した封蝋は冷えきって固く、少しも沈まない。深い緑の蝋に押された紋を、私は子爵家の娘だったころに覚えさせられた紋の一つとして知っていた。ラングレ伯爵家のものだ。
割って開くと、整った書記の字が並んでいる。
ヴァルツ工房殿。五日後、当家にて催す夜会の装飾と進行を依頼いたします。立会人はロヴェル伯爵、オーブレー侯爵家レナルド殿、ならびに式典監殿のご推薦による一名。
レナルドの名を読んでも、指は紙の縁を握りにいかずに済んだ。インクで書かれた名は、人の口から出た名より平たい。三人目のところにだけ名がなく、推薦した者の役職だけが書いてある。
嘘をつく娘を、当家に迎えるわけにはまいりません。事を明らかにする場を、正しく整えたく存じます。
その一文は、たぶん本気だ。ソランジュは嘘をついていて、本人がそれを私の前で言った。ラングレの家から見れば、病を装って教会の門をくぐった娘を黙って迎えるほうが、嘘をつくことになる。
末尾に、一行だけ字が大きくなっていた。
明かりは、当家の指図のとおりに。
明かりを指図する側が、誰の顔を暗くするかを決める。私はそれを五年やってきて、今、その指図を受ける側の紙を持っている。守る側の請負書には飾る広間がなく、断罪する側の封書には、広間が最初からついてくる。
ヨナが芯糸の束を下ろして、作業台の上を覗きこんだ。署名の乾いた請負書と、緑の封蝋の割れた封書が、白い筋一本ぶんの隙間を空けて並んでいる。同じ夜の、同じ広間の依頼だ。
「姐さん。……これ、どっちの勘定」
答える言葉を、私はどちらの紙の上にも見つけられずにいた。右手を、二枚のあいだの板の上に置く。どちらにも触れない位置で、火傷跡の三つが、朝の光の中に並んでいる。
炉のほうで、鍋の縁を回っていた火かき棒の音が、一度だけ止まった。




