第7話 明るいところで
夕の鐘が川の上を渡ってきたとき、私はまだ戸の縁を握っていた。
鐘の三つ目が消えるより先に、石段のほうから荷を担いだ足音が近づいてきて、戸口の陽の中に麻袋の底が入ってくる。袋の下から出ている脚は、四十年ぶん蝋の脂を踏んできた脚だ。ギドは私を見て、それから革袋を抱えたヨナを見て、荷を作業台の上に下ろした。
「終わったか」
「四十」
ヨナが答えて、袋を持ち上げてみせる。ギドは頷きもせずに棚へ目をやり、その目が一段目で止まった。二本の蝋燭と、その隣に立てた帳面。閉じた背の向きが、朝と違っている。
「出したな」
「出しました。昼に副隊長が、昨夜の頁から前へ遡って読みました」
嘘はつかないと決めたのは五年前で、ギドの前でつかずに済んできたのは、この人が訊くことが少ないからにすぎず、今日はその少ない一つを使われた。ギドは帳面へ手を伸ばさずに麻袋の口を解き、蝋の塊を一つ取って掌で重さを量った。私も一つ持たされて、掌に載せると思ったより重く、脂の匂いが濃かった。
「今年のは脂が多くて、灯精が嫌う」
「ギドさん」
炉の前にしゃがんだ背中に向けて言った。この背中に何かを訊く形の言葉を投げても、この人はそれを受け取らずに寝床へ持っていく。工房に来てから、答えが返った試しがない。教わるときは手元を見て覚え、間違えたときは黙って直された。それで足りていたし、足りるようにこの人が仕事を組んでいた。
「私の字になる前の頁にも、十二本の夜があると。副隊長が、そう言って帰りました」
火打ちの音が二つして、炉に火が入った。ギドは鍋を火に掛け、量ったばかりの蝋を落として、溶けはじめる縁を火かき棒の先で崩している。帳面は棚にあり、この人の目は一度もそこへ戻らない。
「合わない夜は、合わないまま付ける」
蝋が一つ、鍋の底で音を立てた。
「理由まで付けたら、帳面が請負書になる」
それだけで、あとは鍋の話になった。今年の蝋は芯を太くしないと灯精が居着かないこと、居着いても風で逃げること、逃げた灯精は鏡で呼び戻せないこと。
私はそれを聞きながら、訊く言葉を一つも組み立てられずに、握った蝋の塊が掌の熱で少し柔らかくなるのを感じていた。合わない夜がこの人の字の頁にもあって、そこに理由は付いていない。
ヨナが袋を胸に抱え直して、戸口の外を見た。
「姐さん。馬車」
四輪の音が戸の前を通り過ぎて、染物屋の裏で止まった。貴族街の馬車が下町の川沿いに入るとき、うちの戸の前で止まる馬車はない。二軒先の染物屋の裏に着けて、人だけが歩いてくる。
歩いてきたのは二人だった。
先に立つ丸い体を、私は工房に来た年から知っている。衣装商のマダム・オレリーは貴族街に店を持ち、うちに来る依頼の半分は、あの店の奥の部屋から出てくる。後ろに、若い女がひとり。フードもヴェールもなく、夕方の光をそのまま顔に受けて歩いている。
「ヴァルツ工房の皆様、夕の鐘のあとにごめんあそばせ。こちら、ファヴル子爵家のソランジュ様でいらっしゃいますの」
令嬢の名を先に言ってから、丸い顔がこちらへ向いて、口が次の名の形に開く。この人は人の名前を間違えたことがない。間違えないから、私はその一瞬だけ、五年前の名が出てくるのを待った。
「ヴァルツさん。お戻りで何よりですわ」
出てきたのは今の名で、私は戸の縁から手を離した。
ギドは炉の前から動かず、鍋の蝋を火かき棒で回している。ヨナは私を一度見て、袋を抱えたまま敷居の外へ出た。下町の子は、貴族の話が始まると戸の外へ出る。それを覚えさせたのは私だ。
炉の前のギドを除けば、工房の中に、私と、マダムと、ソランジュ・ファヴルが残った。
癖が先に動いて、握っていた蝋を作業台に置き、戸を半分まで引き、棚の下に隅を作った。陽の届かない側へソランジュを立たせ、作業台の引き出しから請負書の白い紙と鉛筆を出して、紙を隅の側へ向けた。昼にリディアへやったことを、夕方にもう一度、同じ手順でやっている。手が覚えていて、頭がそれに追いついていない。
「ファヴル様。相手の口から、何を言わせますか」
請負書の声が、自分の口から出た。
棚の前の顔は、暗い側に立っているのに、暗く見えない。ソランジュは私の手元の紙を見て、鉛筆を見て、それから、鉛筆を持つ右手の甲を見た。
「何も」
声はゆっくりで、途中で一度、息が入った。
「……言わせたくないのです」
鉛筆の先が紙に触れたまま止まった。
「次の夜会で公示されますのは、私のほうです。嘘をついた、ということに、なっております」
嘘、のところで声は下がらず、左手の指が袖口の縁飾りを一度つまんで、つまんだ皺を戻さずにいた。
紙の上に、書く行がない。
請負書の表には装飾費と本数、裏には一割と立会人三人と、相手に言わせる一行と、残す逃げ道の一行。五年のあいだ、その裏の行を私は依頼のたびに埋めてきた。言わせるための行はある。言わせないための行は、表にも裏にもない。
鉛筆を置いて戸へ行き、半分引いていた戸を、全部開けた。
陽が棚の下まで届いて、作った隅が消える。開けておいてくださいませ、と昼に言われた戸を、夕方には言われる前に自分で開けている。ソランジュは動かずにそこへ立ち、暗さが剥がれても顔の向きを変えずにいた。
「暗くしていただきたいのは、私ではございません」
ゆっくりした声が、開いた戸のぶんだけ大きく聞こえる。
「嘘を言う人の顔です。……明るいところで、嘘を言わせていただきたいのです」
断罪される側が戸口に来て、暗くしてくれと言わない。五年前、私は隅がほしかった。立会人の顔が見えない場所、自分の顔を見られない場所。そういう場所は広間のどこにもなく、それで床を見たのだ。
目が板の間へ落ちかける。継ぎ目のところで止めた。床は五年前の一度で足りていて、橋でもそう止めた。
顔を上げると、ソランジュの目は私の右手にあった。甲の火傷跡が三つ、陽の下で白く並んでいる。貴族の令嬢は職人の手を見ない。見ても、見てはいない顔をする。この人はそれを見て、見たままの顔で、目を逸らさずにいた。
「ヴァルツさん」
マダム・オレリーが、ソランジュの袖口へ手を伸ばした。旅の外套の下に着せてきたのは絹で、袖口にだけ、糸で細い縁飾りが入れてある。つままれて残った皺を一本の指で伸ばしながら、語尾の長い声が続く。
「公示される側にも、服は着せておりますのよ。着せた服のぶんだけ、と申しますでしょう。断罪の夜に着る服も、されるほうの服も、うちの店から出るんですのよ」
この人の商売の理屈で、この人の本音だ。着せた服のぶんだけ幸せになれ。そう言ってリディアにも着せ、公示される側に立った娘たちにも、あの店は着せてきたのだろう。五年前の私が着ていた絹がどの店の奥から出たものか、私は今も知らずにいる。
鉛筆を取り直さずに、棚の二本の蝋燭を目の端に置いて、私は三原則を当てた。
相手の口から言わせる。言わせるのは同じで、出るのが嘘になる。嘘を明るいところで言わせれば、灯精は反応せず、人が反応する。鏡の一寸は、今度は暗い側へではなく、その顔へ向けて倒す。
観客を先に味方につける。立会人は公示する側が選び、三人ともあちらの客なのだから、先に取れないなら後から取りに行く。袖の奥に足す二本の置き場所が、あちらの客がどの顔を見るかを決める。
逃げ道を一つ残すのは、今度は公示する側にだ。右手の指が、紙の裏の何も書いていない行の位置を、ひとりでになぞっている。嘘を言わずに済む道を一本だけ作っておけば、そこを通った瞬間に公示は崩れる。
三つとも、逆さに置けば使える。
組み上がる感じが胸の底から喉まで上がってきて、それと同じ高さで、胃が重くなった。夜会の幕の裏で舞台が閉じたときと同じ二つが、今度は何も組む前に、並んで来ている。五年前に私が持てずにいた道具を、私は今、逆さに持っている。
「請け負います」
言ってから、その声が請負書の声ではないことに気づいた。幕の裏で本数を告げる声でも、橋で男爵に止められた声でもない。抑揚があって、少し高い。五年前で止まった敬語が、令嬢の前では今もそのまま出てくる声だ。
紙には、まだ何も書けていない。
「書くのは、あとでよろしゅうございますわね」
マダムは袖口から指を離し、令嬢の外套の前を自分の手で合わせた。ソランジュが頭を下げる。下げ方が浅く、頭を戻すのが早い。人前で頭を下げ慣れていない下げ方で、この人がまだ、断罪される側の体を持っていないのが分かった。
二人が戸口を出るとき、ソランジュだけが敷居の上で足を止めた。
「立会人は三人、もう決まっているそうです。ロヴェル伯爵と、もうお一方と」
ロヴェル伯爵。昨夜、私が三人目に頼んだ人だ。昨夜使った駒が、今度は向こうの駒になっている。
「……オーブレー侯爵家の、レナルド様も」
その名が、人の口から出た。
橋で男爵が口にしたのはオーブレーの令息、までで、その先は私の耳が勝手に埋めた。今は、夕方の光の中で、断罪される側の口から、名前のまま出てきた。
右手が、作業台の上の白い紙の縁を握っていた。握った覚えのないまま握っていて、紙が指の形に折れる。書けていない請負書が、指の中で音を立てた。
ソランジュはその手を見て、また、目を逸らさずにいた。それから浅い会釈をして、マダムの後ろについて染物屋のほうへ歩いていった。馬車の音が遠ざかるまで、私は紙を握ったままだった。
戸口の外から、栗色の頭が入ってくる。姐さん、の前に、私が言った。
「ヨナ。今日、何回」
ヨナは袋を抱え直して、片手の指を全部たたんで見せた。
「零。まだ」
それから、たたんだ指を袋の上に置いて、付け足した。
「さっきの二回は四十枚で閉めたから、今のは別の勘定」
依頼ごとに帳面を分ける。金勘定はこの子の持ち場で、私はそこに口を出さずにきた。零から始まる、と言われて、私は握っていた紙の縁を指から外した。
炉のほうから、火かき棒が鍋の縁を叩く音がした。
「蝋は、足りるのか」
ギドは鍋を見たままで、私のほうへ顔を向けずにいる。止めろ、とは言わずに、蝋の話で訊いた。
「数えて、足します」
答えてから、折れた請負書の紙を棚へ持っていった。二本の蝋燭の隣、閉じたままの帳面の横に、紙を立てる。開けずにいる帳面の隣に、まだ書けずにいる請負書が並んだ。
陽が戸口から棚まで届いていて、明るいところで、その二つは同じ高さに立っている。




