第6話 家から家へ
橋までの道を、今度はヨナと並んで歩いた。
帳面と鏡は工房の棚に置いてきた。ギドは昼前から蝋の買い付けに出ていて、夕の鐘までには戻ると、炉の脇の板に炭で書き残してある。戸は閉めたが鍵は掛けていない。下町で鍵を掛けて出るのは、盗まれて困るものを持っている者だけだ。
先を行くのはリディアと下男で、灰色の外套の裾が乾いた土を掃いている。後ろには夜会服のユーグと、帽子を脇に挟んだアルノーがいて、その帽子の中身は今も短剣のままだ。
私は歩きながら首の紐を確かめ、請負札を服の外へ出した。橋は貴族街ではないので、札を見る門番はいない。それでも爵位持ちの前に立つときにこれを下げていないと、私は自分の手をどこへ置けばいいのか分からなくなる。
「姐さん。数えるのは私?」
「金が出たら、そうする」
「出るの」
「出す約束を、させに行く」
ヨナはそれきり黙って、道の脇の舟繋ぎの杭を数え始めた。声には出さず、唇だけが動いている。工房に残していくための言い方を、今度は探さずに済んだ。それだけの違いなのに、隣に足音が一つあるだけで、川の音が昼ほど耳につかない。
染物屋の干し場を過ぎると、橋のたもとに馬車が二台、鼻先を向かい合わせて停まっていた。手前がコルネ家の家紋で、奥の、黒塗りの側面に細い金線を引いたほうがラモン家だ。奥の馬車は窓が開いているのに、降りてくる者がいない。
開いた窓の縁に、指が一本掛かっていた。太い指輪をはめた中指で、その指が窓枠を叩いている。三つ叩いて止まり、また三つ。数えるのをやめようとして、やめられずにいた。
「コルネ嬢。待たせてもらった」
窓の奥の声は低くて乾いている。リディアはフードを下ろして馬車の前へ進み、私はその二歩後ろで止まった。演出屋が立つのは幕の裏で、依頼人と払う側のあいだに立ったことは五年で一度もない。報酬はいつも、依頼人の手を通って来た。
「ラモン男爵様。昨夜のことは」
「聞いている。立会人は三人、公示は成り立った。異を唱える気はない」
指が三つ叩いた。
「四百は払う。ただし、コルネ子爵へだ。金は家から家へ払うものだ。娘に渡す金ではない」
「持参金は、私の名で入りました」
リディアの声が小さくなっていく。窓の中の男はそれを聞き取りにくいと思ったらしく、身を乗り出した。灰色の髪と、ユーグと同じ形の顎が窓枠の陰から出て、陽の中に入る。
「娘の名で払えば、娘に払ったという話になる。話は使用人の口を伝って、明日には貴族街の門まで届く。家から家へなら、帳簿の一行で済む」
指輪が窓枠に当たって、鈍い音を立てた。
「公示された家がどうなるかは、知っている。オーブレーの令息の、あの娘の家のようには、うちをしたくない」
オーブレーの令息。男爵はその先を言わずに済ませたが、私の耳は勝手に、レナルド、と続きを埋めていた。その家の名を人の口から聞くのは五年ぶりで、気づくと札の紐を握っていた。紐が首の後ろに食い込むまで握って、それから指を緩めた。
目が橋板へ落ちかけるのを、継ぎ目のところで止める。床を見るのは五年前に一度やって、あれで足りている。窓の中の男は私を見ていない。彼が見ているのはリディアで、私は札を下げたただの職人のまま、あの娘の家というのは、彼にとっては末路の例え話にすぎないのだ。
リディアが黙った。言い返す言葉を探している顔ではなく、次に何を言っても小さくなる声を、一度喉で止めている顔だった。
私は二歩前へ出た。
「男爵様。装飾の代金の件で、一つだけ」
請負書の声が出た。幕の裏で立会人に本数を告げるときの、抑揚のない、字で書いてあることしか言わない声だ。窓の中の目がリディアから離れて私の札に落ち、札から顔へ上がってきた。
「灯りの職人が、なぜここにいる」
声が止まった。
胸の上で札が揺れて、その揺れが収まるまで、私は口を開けずにいた。開けても、出るものがない。装飾の代金の件で、と言った先に続く文を、請負書のどこにも書いていないのだ。
演出でもなく請負書でもない言葉を、私はこの人に向けて一つも持っていない。次に出るのは嘘か全部かのどちらかで、そのどちらも、この橋の上で出すわけにはいかない。指輪の指が窓枠を叩くのを、私はただ数えていた。三つ。また三つ。
「父上」
声は後ろから来た。ユーグが私の横を抜けて、馬車の窓の正面に立った。夜会服の襟の輪染みが、陽の下では白く浮いている。昨夜私が暗くした顔が、私と窓のあいだに入って、陽を全部受けていた。
「借りたのは私です。払うのも、私の名で」
窓は開いている。橋の上に陽は隅まで届いていて、制服の副隊長が三歩後ろで手帳を開いている。ここで言えば書かれると、窓の中の人は知っているはずだ。
「違う。借りたのは私だ」
叩いていた指が止まった。
「お前が生まれる前の借りだ。お前の名で借り直させたのは、私の判断だ。書け、副隊長」
「書いております」
アルノーは鉛筆を止めずに答えた。男爵は窓の外の息子を見て、それから手帳へ目を移し、息を一つ吐いた。
「三日のうちに、四百を家から家へ。コルネ子爵の帳簿に、ラモンの名で載せる」
「書きました」
アルノーは手帳の頁を窓の高さまで持ち上げて見せた。爵位のない立会人か、と男爵は低く言い、それ以上は言わずに座席の脇から革袋を取り上げた。
「手付だ。四十ある。……娘の名でいい」
袋は窓からリディアの両手に渡った。リディアはそれを胸の高さに受けて、一度も開けずに振り向き、私の前まで来て差し出した。
「ヴァルツさん。照明の代金です」
受け取った革袋には、金貨四十枚の重さがあった。金貨一枚が下町の家族の一月分だと、ヨナが数えて教えてくれた重さだ。両手で支えないと指が滑りそうで、私はそのままヨナへ回した。
「ヨナ。数えて」
ヨナは袋を抱えて橋の欄干へ行き、平らな石の上に口を開けた。十枚ずつ四つの列に分けていく指が、道の杭を数えていたときより速い。
「灯りに四十か」
窓の中の目は、まだ袋に戻っていない四列の金貨の上にあった。
「橋で半日待てば、いろいろな口が通る。昨夜の広間で、倅の顔だけが暗かったそうだな」
嘘はつかない。それだけは五年のあいだ一度も破らずに来たし、欄干に四十枚が並んだ今も、その勘定に入れる気はない。
「暗くしました」
窓の中の指が、もう一つだけ叩いて、それきり止まった。
「そうか」
男爵は息子を見た。
「乗れ。副隊長、届けは歩いて来るのか」
「歩いて参ります。夕の鐘には間に合います」
ユーグは馬車の扉に手を掛けて、掛けたまま、リディアのほうを向いた。
「ミレーユに、私が言ったと書いてくれ」
窓の奥で、止まったはずの指が、一つだけ窓枠を叩いた。男爵はその名を訊き返さず、息子の背中から目を離さずにいた。
リディアは頷かず、外套の前を合わせたままで言った。
「書きます」
それから外套の裾を持ち上げて自分の馬車へ向かい、私の前を通るときだけ足を緩めた。
「ヴァルツさん。請負書のとおりでした。裏の一行も」
依頼人が依頼の終わりを告げるのを、私は袋も鏡も持たない手で聞いた。裏の一行、のところで右手の指が柄の形に曲がりかけて、途中で止まった。握るものは、今日はもう帽子の中だ。
「四十」
欄干のほうから、ヨナの声が来た。四つの列を袋に戻す音が、扉の閉まる音と重なる。コルネ家の御者が先に手綱を動かし、灰色の外套が家紋の馬車に消えて、下男が角灯ごと後ろへ乗り込んだ。二台が順に橋を渡っていく。四半刻で貴族街の門だ。夕の鐘は、まだ鳴っていない。
橋の上に残ったのは、私とヨナと、帽子を脇に挟んだ副隊長だけだった。
欄干から戻ってきたヨナは袋を私に返そうとして、私が両手を出さずにいると、そのまま自分の胸に抱え直した。工房の戸口で数字を出さずにいた腕が、今は袋の重さを受けている。金貨四十枚の重さは、四百枚の一割としてではなく、依頼が終わった重さとして、この子の腕にある。
アルノーは手帳を閉じて制服の内側へ戻し、石段のほうへ体を向けてから、思い出したような顔で振り返った。数えて動く人間が何かを忘れて歩き出すところを、私はまだ見たことがない。
「ヴァルツさん。昼にお返しした帳面ですが」
帳面は工房の棚にある。彼が今持っているのは、短剣の入った帽子と手帳だけだ。
「あなたの字になる前の頁にも、十二本の夜があります」
それだけ言って、帽子のつばを一度握り、握ったまま直さずに、石段の道を上っていった。
私の字になる前の頁は、ギドの字だ。私が工房に来た年より前の頁を、私は開く用のないまま一度も開かずにきた。請負書と合わない夜は合わないまま付けろと教えたのはギドで、その教えのとおりに、ギドも付けていたということになる。
帰りの道は、来たときより短かった。
工房の戸は閉めたときのままで、ギドはまだ戻っていない。戸の縁に手を掛けると、昼に温まった板が夕方の風に冷え始めていて、押すと、開いた幅のぶんだけ棚まで陽が届いた。
「ヨナ。今日、何回」
ヨナは革袋を抱えたまま少し考えて、片手を袋から離し、指を二本立てた。
「二回。増えてない」
増えていない。減ってもいない。それでも今日の勘定が二で止まっていることを、私はこの子の口から聞けた。
戸を開けたまま、棚を見た。二本の蝋燭の隣に、帳面が閉じて立ててある。ギドが戻る前に開くものではない。私はそこへ手を伸ばさずに、戸の縁を握ったままでいた。
私の字になる前の頁に、十二本の夜がある。




