第5話 開けたままの戸
「私は爵位を持ちませんが、手帳は持っています」
最初に動いたのはアルノーだった。肩の鏡台を戸口の内側へ下ろして壁に立てかけ、短剣の入った帽子を脇に挟み直すと、リディアにではなく私に向かって続けた。
「ここで伺えば、書くことになります。ですから表におります。昼の約束は川べりで済ませますので、帳面とその二本を、工房の方に持たせてください」
工房の方、と彼は今度も、名前の要らない呼び方で通した。聞こえるところに立てば手帳が開く人間が、自分から聞こえないところへ下がろうとしている。庭の掛け金と同じ道で、人から貰うのはこれで二度目になる。
ヨナはもう卓の帳面を閉じていた。二本の蝋燭を片手にまとめて握り、帳面を胸に抱えて私の横を通っていく。
「言われたとおりにやるよ。足したって言う。嘘はつかない」
今朝の私の言葉を、平たい声のまま返してきた。昼までに戻ると言っておいて昼の鐘を石段で聞いた私は、戻ったその足で、この子をまた副隊長と二人にしようとしている。
「ヨナ」
呼ぶところまではできた。栗色の頭は戸口で止まり、振り向かずに待っている。言うべきことは喉まで来ていたのに、言う順番を組めないうちに、その頭は敷居を越えていった。
リディアが炉の脇へ顔を向けた。
「橋を見てきてください。あちらの馬車が、まだいるかどうか」
年嵩の下男は角灯を提げたまま、お嬢様とユーグの夜会服とを見比べて動こうとしない。
「戸の見えるところに、私がおります」
アルノーが敷居の向こうから言うと、下男はそれでようやく頭を下げて出ていった。主人の言いつけより制服のほうが効くところは、貴族街の門番と変わらない。
工房に残ったのは三人だった。爵位持ちは一人もおらず、灯精は一つも起きていない。
「お入りください、ラモン様」
言ってから、彼をどこへ立たせるのかを決めていないことに気づいた。体のほうが先に動いていた。幕を肩に載せたまま戸の縁を握り、陽で温まった板を半分まで引くと、炉の前まで届いていた光が卓の手前で切れて、棚の下に、人が一人立てるだけの薄い隅ができた。
「ラモン様は、そちらの棚の前へ。コルネ様は、どうぞ椅子のままで」
戸を背にして立たせれば、顔は陰る。暗くすれば、人は一つだけ言える。私が知っている場の作り方は、それ一つきりだ。
「ヴァルツさん」
リディアの声は小さいままだった。
「戸は、開けておいてくださいませ。昨夜は、暗いお顔しか拝見しておりませんので」
戸の縁を握った掌に汗が出た。昨夜の暗さが誰の仕事だったのかを、この子は請負書を交わした日から知っている。知っていて、今日はそれを要らないと言っているのだ。依頼人に仕事を断られた演出屋は、黙って戸を元の幅まで押し戻した。
陽が炉の前まで戻ってくる。肩の幕を作業台に下ろすと両手が空き、空いた手の置き場が見つからないまま、私は戸の脇に立った。幕の裏でも袖の奥でもない、ただの壁際だ。
ユーグが敷居をまたいだ。露はもう乾いていて、襟には水の跡が輪になって残っている。卓を挟んでリディアの正面に立った彼の顔を、私はそこで初めて全部見た。
昨夜は鏡の中の右半分だけを見ていて、今朝の庭では短剣の柄と、帽子と、手帳ばかり見ていたのだ。鏡の中では影が頬を削いでいて、もっと年嵩の、もっと悪い男に見えていた。隅まで同じ明るさの下に置いてみれば、髭の剃り残しのある、一晩眠っていない二十四の男の顔だった。
リディアは椅子に戻らず、立ったまま待っている。
「コルネ嬢。あなたの侍女のことだ」
ユーグは一度こちらを見かけて、やめた。
「あの娘は、慰めてくれただけだ。借金のことで眠れなかった春に、あの娘だけが私の前で笑っていた。それだけのことだと、私は今も思っている」
庭で聞いたとおりの言い方だった。ほかの言い方を持っていないと言った人は、本当に一語も足さずに言い終えた。
「あの子の名前を、仰ってください」
「……ミレーユ」
言えるのだ、と思った。請負書を書いた日、私はその名前を訊いていない。出さないと決めた名前は、知らずにいたほうが順番を組みやすかった。
「はい。ミレーユです」
リディアは灰色の外套の襟に手をやった。
「この外套は、あの子のものです。夏の終わりに、あの子は私に全部申しました。母は、嘘を申す侍女は置けないと言って、三日後に暇を出しました。暑い日でしたから、外套は部屋に掛かったままでした」
借りたのだろうと、今朝の私は思っていた。貸す者は、とうに屋敷を出されていたのだ。
本当のことを言った人間が、家を追われる。同じ文を私は今朝、露に濡れた庭で、この人の口から聞いている。あのとき彼が話していたのは、自分のことだった。
ユーグの喉が動いた。
「暇を、出された」
「ご存じありませんでしたのね。あの子は、お断りできなかったと申しました」
声はさらに小さくなって、戸の脇の私にやっと届くほどしかない。
「男爵家のご令息に、子爵家の侍女が、何と申し上げてお断りするのですか」
「笑っていたんだ」
ユーグの声のほうが大きかった。
「あの娘は、私の前ではいつも」
「笑うほかに、何ができましたか」
「嫌だとは、一度も聞いていない。私は、命じたことなどない」
卓の縁に置いた彼の指が、白くなっている。
「申せる相手でしたら、あの子は私より先に、あなたに申しております」
川の音が入ってきた。戸を開けてあるので、工房の中で人が黙ると、そこへ外の音が混じる。幕の内側の沈黙しか知らない耳には、ひどく落ち着かない音だ。
ユーグが私を見た。顔ではなく、手を見ていた。昨夜どこかで鏡を傾けていたはずの手、今朝の庭で礼を言った相手の手だ。暗くしてくれと口に出されたわけではない。けれども私は五年のあいだ、人がその目をするのを待って鏡を動かしてきたので、読み違えるはずもない。
道は見えていた。ラモン様はご存じありませんでした、と私が一言添えれば、彼はそこへ立てる。知らぬ間のことで済む場所は、床を見ているよりずっと楽だ。
右手の掌には、まだ柄の形が残っている。私はその手を左手で押さえることもせず、体の脇に下げたまま、壁際から一歩、戸口から入る陽の中へ出た。何も持っていない手を、何も持っていないと分かるように見せておく。
「ラモン様。今日は、鏡を持っておりません」
庭で礼を言われた手で、同じ人の、目だけで寄越された頼みを断っている。逃げ道を一本も残さずに人の前に立っているのは、この仕事を始めてから初めてのことで、膝の裏が冷えた。
ユーグは私の手から目を離し、床を見かけた。昼の床は隅まで明るくて、落ちた蝋の屑まで見えていて、目を置いておける暗がりがどこにもない。行き場をなくした目は上がってきて、灰色の外套の上で止まった。
「……断れなかったのか」
語尾は上がらないまま、卓の上に落ちた。
「私は、あの娘に、済まないことをしたのか」
「仰る先は、私ではございません。あの子の居場所も、お教えいたしません」
リディアは外套の前を合わせ直し、それから息を吸った。
「私も申します。母が暇を出すとき、私は止めませんでした。婚約がございましたから。あなたにだけ言わせるのでは、釣り合いません」
立会人のいない場では、聞く側まで言うらしい。観客がいなければ、誰も観客のために黙っている必要がないのだ。組んだ覚えのない順番で二人が話すのを、私は陽の中に立ったまま聞いていた。
「胸は、すっとしませんでした」
リディアは私のほうへ言った。声が、戸口から奥の炉まで届く大きさに戻っている。
「すっとする順番は、今日は一つも組んでおりませんので」
「昨夜は少しだけ、いたしましたのに。でも、これであの子に書けます。あなたは嘘を申していなかった、ラモン様がご自分の口でそう仰った、と」
何になる、と庭でユーグは訊いた。公示にも賠償にもならず、帳面のどこにも付けられないものが、手紙一通ぶんにはなるらしい。ユーグは何も言わずに、外套の灰色を見ていた。
私は息を吐いて、開けた戸の向こうへ目をやった。
川べりの舟繋ぎの杭にアルノーが腰を下ろしていて、膝の上に帳面が開いている。短剣の入った帽子はかぶるわけにいかないらしく、昼の陽を額にまともに受けたままだ。
声は届かない。彼は聞こえないところを選んで座ったのだから、こちらからも聞こえない。二本の蝋燭を握ったヨナがその前に立っていて、アルノーの指が頁をめくっていく。一枚、また一枚と、昨夜の頁より前へ。
いつも何かを数えて動いているヨナの指が、蝋燭を握ったまま止まっていた。
あの帳面に、私は嘘を書かせたことがない。出した本数も戻った本数も、請負書と合わない夜は合わないままに付けてある。数える人間がそれを読むところを、私は一度も考えずにきた。
アルノーは帳面を閉じて杭から立ち、ヨナと並んで敷居まで戻ってくると、両手で持ったそれを私に返した。
「正直な帳面ですね、ヴァルツさん。昨夜の頁だけでなく」
それだけ言って、彼はまた戸の外へ下がった。どの頁のことかを訊き返すより先に、川沿いの道を、角灯の硝子の鳴る音が近づいてきた。
年嵩の下男は敷居で息を整え、お嬢様にだけ聞かせる声を作ろうとして、作りそこねた。
「お嬢様。あちらの馬車は、まだ橋におります。うちの御者が申しますには、男爵様がご自身でお乗りで、コルネのお嬢様がお戻りになるまでは動かぬ、と仰せだそうで」
「父が」
ユーグの肩が、襟の輪染みごと固くなった。
爵位持ちが一人、と私は数えていた。あの橋は、この子が屋敷へ帰る道で、夕の鐘までにアルノーがユーグを連れて帰る道でもある。賠償の四百枚を払うのも、その馬車の中の人だ。
アルノーは下男を表へ呼んで、橋の話を自分の耳で訊き直しはじめた。制服の内側から、もう手帳が出ている。
ヨナはそのあいだに、二本の蝋燭を棚の元の段に立て直していた。私は持ったままだった帳面をその隣へ置き、置いた手を引っ込めずに言った。
「ヨナ。昼までに戻ると言って、戻ったのは鐘のあとだった。それから、帰ってすぐに、また外へ出した」
順番も何も組んでいない、起きたとおりを並べただけの言葉だった。
ヨナは蝋燭の芯を見たまま、指を二本立てた。
「二回」
今日この子の口から出た、最初の数字だった。三回目になりかねない行き先が、橋に停まったまま、私を待っている。




