第4話 帽子の中の短剣
「その短剣を、こちらへ」
アルノー・ベルクは脇に抱えていた帽子を逆さにして、両手で私の前に差し出した。手を伸ばせば届く距離なのに手は出さず、汗で色の変わった内張りの布だけがこちらを向いている。
「私が手から取れば、取り上げた、と書くことになります。あなたが置いてくだされば、預かった、と書けます」
置けばいい。それだけのことが右手に伝わらず、指は柄を握ったまま、鏡の縁に当てるときの一寸の加減さえ思い出せずにいた。五年間、この指は私の言うことを一番よく聞く道具だったのだ。
アルノーは急かさなかった。帽子を持ったまま砂利の上を半円に歩いてユーグの隣で足を止めたので、彼を見ようとすれば、私は朝日のほうへ顔を向けることになる。昨夜の門と同じ手で、背中へ回しておいた光が頬の片側に戻ってきた。
幕が要る、と体が先に思った。幕が無いのなら、言葉で組むまでだ。
「副隊長様。ラモン様は、こちらの庭で夜を明かされただけです。刃は鞘から出ておりません。お届けのあった方はご無事で、四件目は起きておりません。お書きになるのは、それだけで足りるかと存じます」
請負書の声だった。相手が一番楽に通れる道を一本だけ残して、そこへ立たせる。幕の裏から何十回とやってきたことを、私は幕の外で、制服の男を相手にやろうとしていた。
アルノーは帽子を差し出したまま、しばらく私の顔を見ていた。
「それは、私に逃げ道を作ってくださっているんですか」
耳の後ろが熱くなった。隣でユーグが、自分の通った道の名前を聞かされた顔をしている。
「暗くしてくれたから、のあたりから、門の外で聞いていました。立ち聞きは仕事のうちなので、お詫びはしません。ですから、その道が楽なのは分かります。見つけた、無事だった、で手帳を閉じれば、私は昼前に詰所へ戻れます」
帽子のつばを持つ指に力が入って、つばが曲がった。今度は、彼はそれをすぐには直そうとしない。
「書かれなかったことは、無かったことになります。私はそれを一度、身内で見ました。刃物のあった場に居合わせて書かずにおけば、次に出たとき、私は何も止められません」
身内で、と言ったところだけ声が低く、残りは門で灯りの本数を訊いたときと同じ丁寧さだった。この人は私を捕まえに来たのではなく、数えに来たのだ。数える人間に、数えなくていい道は通じない。
陽を背へ戻そうと、私は砂利の上を半歩だけ横へずれた。アルノーも帽子を差し出したまま同じだけずれて、光は頬の上に残った。
「昨夜の三つ目を、もう一度伺います。コルネ嬢の扇が閉じたとき、あの隅が明るくなりました。どなたの合図でしたか」
「帳面は工房に」
「帳面は要りません。あなたの口から」
相手の口から言わせる。一つ目の原則を、私は初めて言われる側で聞いた。観客は隣に一人いて、濡れた夜会服のまま私を見ている。
「どなたの合図でもありません。三人目の立会人が入られたので、私が鏡を戻しました。明るくなったら始める、とコルネ様と決めてあって、それで扇が閉じたのです。伯爵様を庭の門へお回ししたのは工房の者で、工房の者のしたことは、私のしたことです」
「工房の方のお名前は、伺っていません」
アルノーはそう言って、曲がったつばをようやく直した。訊かれなかったことは、書かれない。彼が残した道は一本きりで、それがヨナの名前の上に掛かっているのだと気づくまでに、息を一つ吐くだけの間が要った。
私は左の親指を、右手の甲に当てた。火傷の跡が三つ、古いほうから順に撫でていけば、いつもなら鏡を持つ前に指が落ち着く。今朝は向きが逆で、跡を一つ撫でるごとに指が一本ずつ柄から浮き、最後に小指が離れた。
短剣は帽子の中へ落ちて、内張りの布が鈍い音を立てた。鞘の先がつばの外へはみ出している。
掌には柄の形が残っていて、温度のほうは、もうどちらのものか分からない。
「預かります。鞘のまま、一振り」
アルノーは帽子を左の脇に挟み、制服の内側から掌ほどの手帳と、短くなった鉛筆を出した。
「どなたの手から、と書きましょうか」
彼はユーグを見て訊いた。ユーグの口が開きかける。私の、と言う形だった。持ち主は彼で、一晩握っていたのも彼で、そう書かれても嘘にはならない。
「私の手からです」
先に言ったのは私だった。
「ラモン様からお預かりして、私が握っていました。副隊長様がご覧になったとおりです」
本物しか使わない。その決まりは他人の手帳にまで及ぶらしく、及ぶと知ったのは口が言い終わってからだった。ユーグがこの庭で初めて、私の手の甲を見た。
鉛筆が動く。ラモン男爵家令息、伯爵家庭園にて無事。短剣一、鞘のまま。ヴァルツ工房主の手より預かる。朝の光の下で、手帳の字は隅まで同じ濃さで読めた。請負書と札のほかにはどこにも書かせずにきた工房の名が、警備隊の手帳の上で、鉛筆の粉になって光っている。
アルノーは手帳を閉じ、それから門のほうを振り返った。
「掛け金を見てきます。さっき閉めたとき、噛みが甘かったので。少しかかります」
砂利を踏む音が遠ざかっていく。あの掛け金なら、昨夜閉めた私が知っている。一度で掛かる。
逃げ道を、人から貰った。貰う側の足元はこれほど落ち着かないものかと思いながら、私はユーグへ向き直った。使える時間は、掛け金一つぶんだ。
「ラモン様。裏の一行を書いたのは私です。侍女の件は公示しない、と書きました。言わせない、とは書いていません」
ユーグの濡れた睫毛が動いた。
「同じことだ。言えば、あの一行が消える」
「消えません。昨夜、立会人がお二人のあいだ、私は鏡を戻すのを待ちました。三人揃うまでは、何を仰っても公示にならないからです。コルネ様おひとりの前で仰ることは、ご実家にも、あの一行にも届きません」
「立会人のいないところで言ったことは、何になる」
「分かりません」
嘘のないほうの答えは、それ一つきりだった。
「立会人のいない場を、私は一度も組んだことがありません。灯りをどこへ置くのか、あなたにどこへ立っていただくのか、今は見当もつかずにいます。分かっているのは、コルネ様が望まれたのがお金ではなく、それだということだけです」
「彼女が、そう言ったのか」
「今朝、私の工房の戸口で」
ユーグは広間の窓へ目をやった。硝子の向こうで、使用人がまだ床を磨いている。
門のほうで掛け金が鳴った。一度で掛かるものを、外して掛け直している音だ。
「あの娘は慰めてくれただけだと、私はそのまま言うよ。ほかの言い方を、持っていないから」
「はい」
その言い方のまま十八の娘の前に立たせていいのか、私は決めかねていた。暗くすれば、人は一つだけ言える。何も暗くしない場所で人が全部を言ったとき、聞いた側に何が残るのかを、私はまだ見たことがないのだ。ただ、刃物は帽子の中にある。全部を言った人が帰り道で出すはずの物は、もう、この人の懐を離れている。
それだけを頼りに、私はうなずいた。
砂利の音が戻ってきた。
「掛かっていました」
アルノーは私たちの顔を一度ずつ見ただけで、先を続けた。
「ラモン家への届けには、見つけた、と書きます。夕の鐘までに、お屋敷へお連れします。それまでにどこを通られるかは、帰り道のうちです。帰り道で刃物が出るのなら、帰り道には私が付きます」
「工房を通ります。帳面も、そこでお見せできます」
「昼の約束ですね」
「はい。昼の」
昼までに戻る、と言った相手は、もう一人いる。
幕を畳むのは二人の仕事だ。端をヨナが持ち、私が折り、三度返せば肩に載る大きさになる。一人でやると端を床に引きずったまま、折るたびに広間の向こうまで歩いて戻ることになる。
引きずった端は、今朝爪で蝋を剥がした床の上を二度通った。跡はもう磨かれていて、どこだったのか私にも見分けがつかない。床を磨いていた二人の片方が見かねて手を貸してくれるころには、窓から入る光が足元まで縮んでいた。
裏口を出ると、アルノーとユーグは庭の門の外で待っていた。幕を肩に載せ、鏡台を脇に抱えた私を見て、ユーグが手を出しかける。
「持とう」
「請負書にない仕事です」
男爵家の令息に幕を担がせて貴族街を歩けば、札より目立つ。代わりに黙って鏡台を取り上げたのはアルノーで、畳んだ脚を肩に掛け、帽子は短剣ごと反対の脇に挟み直した。
貴族街の門番は、鏡台を担いだ副隊長を見て口を開けた。
「副隊長、それは」
「取り上げたのではありません。運んでいるだけです」
アルノーは手帳に書くときと同じ顔で答え、門番はうなずいたきり、私の札を見るのを忘れた。札も顔も見られないままこの門を抜けたのは、五年で初めてだ。ヨナに話せば、銀貨何枚ぶんの見ものかをその場で値付けしただろう。
そう思いながら石段を下りる途中で、鐘が鳴った。
昼の鐘だった。王宮区の塔で撞く鐘は貴族街の屋根を越えて、川沿いの下町まで同じ数だけ届く。工房の戸口でも、今、同じ音がしている。
私は数えずに下りた。数えれば、あの子が指を折っているのと同じ数になる。足を速めると肩の幕がずれ、後ろでユーグの靴が一段遅れてついてきた。
川沿いの道は昼の人通りで、染物屋の干し場には、朝は見なかった藍の布が三枚掛かっている。その二軒先の戸は閉まっていた。
戸に手を掛けると、木は陽を吸って温かい。今朝、同じ縁を握ったときは指の温度を取られたのに、今は戸のほうが私の手より温かくて、それだけの時間が過ぎたのだと掌から先に知らされた。
戸は内から開いた。
ヨナが立っている。私の肩の幕を見て、後ろの制服を見て、その後ろの濡れた夜会服を見て、最後に私の顔へ戻ってきた目が、そこで止まった。
「姐さん」
「遅くなった」
「うん」
ヨナの両手が、肩の幕を受け取る高さまで上がりかけて、途中で下りた。今日の幕は、端を持つ者のいないまま畳まれてここにある。
それきりだった。鐘が鳴ってから戸の前を何人が通ったか、染物屋が布を何枚干したか、いつもならこの子は私が訊く前に全部数えて寄越す。ヨナは数を一つも口にせずに体を引いて、私たちを通した。
卓の上には帳面が開いて置いてあり、その隣に、棚にあった二本の蝋燭が並べて立ててある。言われたとおりに出して、言われたとおりに待っていたのだ。来るはずの人も戻るはずの人も現れないまま、昼の鐘を一人で聞いて。
「橋に、ラモン家の馬車がいた」
ヨナは私の背中へ、平たい声で言った。
「コルネの馬車の隣に停まって、御者に何か訊いてたって。だから戻ってきた。姐さんが、来た道を戻れって言ったから」
戸口に一番近い椅子から、灰色の外套が立ち上がった。炉の脇には年嵩の下男が、消した角灯を提げたまま控えている。
川沿いを、人が出る前に。私はそう言って、リディアを帰したつもりでいた。家紋の付いた馬車が橋のたもとに置いてあると分かっていたのに、請負書の声で帰し方を言い渡し、それで済んだことにして庭へ出かけたのだ。夜会が終わったあとの依頼人をどう守るかは、請負書のどこにも書いたことがない。
リディアはフードを下ろしていた。裾はもう乾いて、泥が白く残っている。彼女は私を見て何か言いかけ、制服に気づいて外套の前を合わせ、それから、その後ろを見た。
アルノーの肩の鏡台の、向こう。敷居の外で足を止めたユーグ・ラモンの、襟の色が変わった夜会服を。
炉の脇で、下男が消した角灯を持ち直した。硝子の鳴る音がして、誰もそちらを見ない。
外套を合わせていた指が、震えるのをやめた。
「ラモン様」
小さい声だった。今朝のように下がったのではなく、昨夜の広間と同じ、隣に立つ者にしか届かない大きさまで小さくなっている。
開け放した戸から昼の陽が奥の炉の前まで入っていて、工房には暗くできる隅が一つもない。鏡は布に包んだまま奥にあり、幕は私の肩の上で畳まれている。右手は空で、掌にはまだ柄の形が残っていた。
立会人のいない場は、私が何ひとつ組まないうちに、もう始まっている。




