第3話 朝の広間
「言わせたのは、私です」
嘘ではないほうの言葉が、今朝も先に出た。リディアの濡れた裾から目を上げたまま私はそれだけを言い、次の言葉を探すあいだ、戸の縁に手を掛けていた。木は朝の冷えを吸っていて、握った指の温度がそこへ吸われていく。
「請負書に書いたとおりに言わせました。あなたは何も言わなくてよかったし、実際、何も言っていません」
「はい」
リディアの声は、まだ小さくなっていない。外套の前を合わせる指は震えているのに、声だけは戸口から工房の奥まで届いていて、椅子の脇に立ったヨナが目を丸くしている。
リディアは外套の内から折った紙を出し、開かずに胸の前で持った。請負書の控えで、裏の一行のあたりだけ折り目が白く擦れている。
「ヴァルツさん。私、持参金が戻れば済むと思っていました。裏の一行も読みました。借金だけ認めれば侍女のことは公示しない、と。読んで、それでいいと申し上げました」
「はい」
「でも、昨夜あの方が床を見ていらしたとき、思ったんです。私が本当に言ってほしかったのは、借金のことではなくて」
そこで初めて声が下がり、下がった声のほうが私にはよく聞こえた。
「侍女のことでした。あの方の口から、私の前で。お金ではなくて」
言わせなかったのは私だ。順番を組み、侍女の名前が出ない道を一本だけ残し、その道をユーグ・ラモンは歩いた。三件、と副隊長に言われるまでもなく、その数は請負書を書く前から知っていた。
「全部を言った人は、帰り道で刃物を出します。過去に三件。だから一つだけ、言わなくていい道を残しました」
「その道を通ったはずの方が、今、どこにもいらっしゃらないんです」
リディアはそう言って、初めて工房の中へ目をやった。棚の二本の蝋燭、火の落ちた炉、戸の横に立てかけたままの火かき棒。火かき棒を見て、外套を合わせていた指が止まった。
私は戸から手を離した。
「屋敷へお戻りください。川沿いを、人が出る前に。ラモン家の使いが次に来たら、コルネ家は何も知らないとだけ答えてください」
「ヴァルツさんは」
「幕の撤収があります。昨夜の会場に、幕と鏡台を置いてきていますから」
置いてきたのは本当で、今日引き取る取り決めも本当だった。それを今すぐ出て行く理由に使うのは嘘ではないが、口から出た声は請負書を読み上げる調子になっていた。
リディアがフードを上げ、下男の角灯が染物屋の角を曲がって見えなくなるまで、ヨナは戸口に立っていた。
「姐さん。昼にあの人が来る」
「昼までに戻る。戻らなければ帳面を出して、棚の二本を見せて。足したと言って。嘘はつかないで」
「姐さんが見せるって言ったんだよ、あの人に」
「言った。だから戻る」
ヨナは何か数えるように指を動かし、数え終わらないうちに壁の外套を取って、私の肩に掛けた。
貴族街の門番は、朝は札だけを見た。札を返す手を止めずに、副隊長はもう通ったぞ、と隣の番に言うのが聞こえて、私はまだ、それを自分の話だと思わずにいた。
昨夜の伯爵家は、朝の光の中では別の家に見える。家令に札を見せて幕の引き取りと告げると、裏口から広間へ通された。使用人が二人、膝をついて床を磨いていて、袖の壁際には鏡を外した鏡台が畳んで立てかけてある。
広間は、どこも同じ明るさだった。
庭に面した窓から朝の光が入り、その光は隅にも中央にも同じだけ届いていて、昨夜ここに影があったことを覚えている者は、この広間に私しかいない。幕はまだ袖に掛かったままで、私はその裏へ回り、床に膝をついた。
二本の蝋燭を立てた場所に、蝋の垂れた跡が二つ、灰色に固まっている。爪で掻くと薄い皮のように剥がれて、指の腹に冷たく残った。この二つの跡だけがここで何かをした証拠で、それを剥がしているのも私だ。
剥がした蝋を握ったまま立ち上がり、幕の隙間から広間を見た。昨夜と同じ隙間で、昨夜と同じ窓が見える。
窓の外に、人が立っていた。
庭の側から、こちらを見ている。夜会服の襟が濡れて色が変わり、髪にも露が降りていて、朝の光の中で顔だけが白い。ユーグ・ラモンだった。床を見た男は、その床へ戻ってくる。昨夜から知っている気がしていたのは、それだった。
彼は広間の隅を見ていた。自分が立っていた場所ではなく、その斜め後ろ、袖の奥、私が今立っている幕の裏を。
裏口から庭へ出た。庭の門は昨夜私が閉め、今は開いている。伯爵が入ってきた門で、それを横目で見ていた男が、朝になって同じ門から入ってきたのだ。
私は窓の前へ回り込み、朝日を背にして立った。顔を暗くする癖が先に体を動かし、そのあとで、鏡も幕も持っていないことに気づいた。
「ラモン様。ヴァルツ工房の者です。昨夜の装飾を、引き取りに参りました」
請負書の声で言った。相手の口から出させる、観客を先に味方にする、逃げ道を残す。三つとも幕の裏で立会人が三人いてはじめて回るもので、朝の庭には立会人も観客もなく、私と、濡れた男が一人いるだけだった。声は宙に浮き、彼は広間の隅から目を離さずにいた。
「札」
ユーグが言った。私の首を見ている。顔を暗くしても、札は首に下がったままだった。
「昨夜も、その札を下げていた。幕の裏で。伯爵は幕の裏から出てきて、庭の門が開いていた」
「はい」
嘘は作れない。作らない決まりでここまで来て、その決まりは今、私に逃げ道を一つも残していない。
「昨夜、私の顔だけが暗かった」
彼はそう言って、広間の隅へ目を戻した。
「今朝、ここへ来て見た。どこも同じ明るさだ。あの隅だけ暗くなるはずがない。だから、誰かが暗くした」
言う前に、首の札を外そうとして、紐が指に掛かった。外す理由はどこにもないのに、指がそう動いた。
「はい。私が、暗くしました」
ユーグは窓へ一歩寄り、硝子に映った自分の顔を見た。朝の光は彼の顔にも同じだけ当たっていて、そこに影は一つもない。
灯りは人を照らすのではなく、人が自分で影を作るのだとギドは言う。それは灯精を扱う側の言い分で、影を作られた側の顔が、今、私の正面にある。鏡に映した右半分ではなく、全部が。
「暗いところで言ったことは、本当なんだろうか」
ユーグの声は、昨夜と同じで優しかった。
「借りたのは事実だと、私は言った。言ったら、家が終わった。父の代からの借金だ。私が嘘をついていれば、持参金で家は残った。本当のことを言った人間が家を追われて、嘘をついていれば残った。あなたは、それをどう思う」
答えを、私は持っていない。同じ問いを、五年前の私は、答えを持たないまま床に向かって投げたことがある。
ユーグは待っていた。木の葉から溜まった露が一つ落ちて、砂利の上で音も立てずに消えた。
「灯精は、嘘に反応しません。暗くしたのは私ですが、言ったのはラモン様の口です」
「そうだ」
彼はうなずいた。それから、夜会服の内側に手を入れた。
脇の下の膨らみなら、昨夜の門でヨナの外套に一つ見ている。あれとは形が違って、細くて長い。彼が取り出したのは鞘に入った短剣で、令息が夜会に帯びることを許されている、飾りのほうの刃だった。
四件目、と副隊長の声が頭の中で言い、私の足は止まった。止まったのは腹を据えたからではなく、朝の庭で灯りも幕もなく、人ひとりの正面に立ったことが、この五年間に一度も無いからだ。
ユーグは短剣を、柄のほうを私に向けて差し出した。
「侍女の件は、公示されなかった」
「はい」
「あの娘は、慰めてくれただけだ。私は今もそう思っている。それを、コルネ嬢の前で言うつもりだった。言えば裏の一行が消えて、家だけでなく私も終わる」
柄が、私の手に触れた。
「言わずに済む道を、あなたが作った。暗くしてくれたから、借金のことだけ言えた。明るいところでは、あれも言えなかった」
彼は私の右手に短剣を握らせた。火傷の跡が三つある手の甲を、彼は見ていない。
「ありがとう」
短剣の柄は、露で濡れているのに温かかった。一晩、この人が握っていた温度だ。冷たいはずの物が指の温度になるまで握られていたのは昨夜の鏡の縁と同じで、私はそれを、離せなかった。
礼を言われた。断罪した相手に、暗くしたことの礼を。五年前、私を光の真ん中に立たせた誰かに、私は一度もそれを言っていない。言うはずがないと思っていたが、この人は言った。
庭の門で、砂利の音がした。
振り向くと、門の柱の脇に帽子を抱えた男が立っていて、朝の光は彼の顔の真ん中に当たっている。
「ヴァルツさん」
アルノー・ベルクは、私の右手を見た。それから濡れた夜会服のユーグを見て、帽子のつばを持つ指に力が入り、すぐに直した。
「ラモン家から、夜明け前に届けがありました。帰り道を、門から順に歩いてきました。工房の前は、通っていません。ここの庭の門が、開いていたので」
四件目を出したくないと言った男が、四件目の刃物を握った女を、四件目になるはずだった男の正面で見つけた。
「昼の約束は、ここで済ませましょう」
彼はそう言って門を閉めた。私が昨夜閉め、ユーグが今朝開けた門を三人目の男が閉め、朝の庭はその音で狭くなった。
右手の指は、まだ柄を離さない。




