第2話 灯りを数える男
「袖の奥です」
口から出たのは、嘘ではないほうの言葉だった。偽りの舞台は作らないと決めている以上、偽りの答えも作れない。
「広間の隅が暗かったので、二本足しました。請負書を書き直すのを忘れていました」
「そうですか」
男は帽子を脇に抱えたまま、少しだけ頭を下げた。
「失礼しました。王都警備隊、副隊長のアルノー・ベルクです。今夜は伯爵家の警備を請けておりました」
名前を名乗られると、こちらも名前で呼ばれたことを思い出す。ヴァルツさん、と彼は言ったのだ。門番の前で、札ではなく私の顔に向かって。手のひらが湿ってきて、私は鏡の包みを抱え直し、その布で汗を拭った。
「隅というのは、ラモン様の斜め後ろのことですか」
二つ目の問いは、一つ目より静かだった。
この人は広間の中にいた。立会人の後ろか、楽士の脇か、踊りの列の外か。幕の隙間から私が見ていた広間の半分に、警備隊の制服は一度も映っていない。見ていたつもりの半分の外側から、この人は私の灯りを見ていたのだ。
「はい。あの窓の前は、庭の暗さが入りますから」
答えながら、自分の声が請負書を読み上げるときの調子になっているのが分かった。仕事の話をしている、という顔を作るには、それがいちばん楽だった。
「なるほど」
アルノーは頷き、帽子のつばを指でなぞった。
「では、もう一つ。コルネ嬢の扇が閉じたとき、その隅が明るくなりました。あれは、どなたの合図でしたか」
ヨナの指が、私の袖の中で固くなった。
灯りを戻したのは、伯爵が入ってきたからだ。伯爵を入れたのはヨナで、扇を閉じさせたのは私の請負書だった。どれを答えても、演出屋の段取りを自分の口で並べることになる。
嘘をつけば、本物しか使わないという私の決まりが私の中で崩れ、本当のことを言えば、今夜の公示が明日には「仕込まれた芝居」として貴族院に持ち込まれるかもしれない。
私はいつも、相手にこの形の問いを渡す側にいた。
半歩、右へずれた。門の灯精は左右から真正面に当たっているが、門柱の陰へ肩を入れれば顔の半分は暗くなる。暗い顔で話せば、言葉の端が相手に届く前に少しだけ丸くなるのだ。
「そこは暗いので、こちらへ」
アルノーも半歩ずれて、私の正面に立ち直した。門柱の陰は彼の背中の側へ移り、私の顔はまた二つの灯精の真ん中へ戻る。彼は何もしていないような顔で、帽子を抱え直しただけだった。
同じことを、されたのだ。
腹が立つより先に、うまい、と思ってしまった。光の真ん中に立たされた人間は、何を言っても言い訳の顔になる。私はそれを知っていて、知っているから今夜の広間であの隅を暗くしたのに、自分が真ん中に立たされたのは、五年前のあの夜が最後だった。
「照明の段取りのお話でしたら」
請負書を読む調子はもう戻らず、上ずった声のまま私は続けた。
「工房で、帳面をお見せします。今夜はもう遅いので」
「ありがとうございます。では、明日の昼に伺います」
アルノーはそこで言葉を切り、それから付け足した。
「川沿いの、染物屋の二軒先でしたね」
私はまだ、工房の場所を言っていなかった。
話を工房へ逃がしたつもりで、彼の足を工房の前まで運ぶ道を、自分で敷いてしまった。敷いたのは私だが、道の先にある戸口の場所は、彼が先に知っていた。
「箱の中だけ、見せていただけますか」
私は灯精の箱を石段に置き、蓋を開けた。十本の蝋燭が蝋と一緒に並び、芯の中で灯精が眠っている。アルノーは屈んで一本ずつ目で数え、十、と口の中で言った。それからヨナの外套へ目をやった。脇の下が不自然に膨らんでいるのは、私にも分かるくらいだった。
彼は、何も言わなかった。
「請け負った蝋を持ち帰るのは、罪ではありません」
立ち上がって、アルノーは帽子をかぶった。
「ただ、公示破棄のあった夜は、帰り道で刃物が出ることがあります。これまでに三件。四件目を、私の持ち場で出したくないのです」
公示破棄、と言うとき、帽子のつばを持つ指に力が入って、つばの端がわずかに曲がった。すぐに直したので、気づいたのは正面に立たされていた私だけだろう。
「お気をつけて、ヴァルツさん」
門番が道を空け、私は箱の蓋を閉めた。
石段を下りきるまでヨナは口を閉じていて、下りきった途端に外套の前を開けて、二本の蝋燭を出した。
「姐さん。あの人、見たよね、ここ」
「見てた」
「見て、黙った。黙るのが一番高いんだよ。銀貨三枚どころじゃない」
ヨナは蝋燭を片手に一本ずつ持って、歩きながら振った。
「それと、四十枚はラモン家が払ってからだから。払える家ならあんな借り方しないけど。鏡は四十枚のほうから出すけど、御者の三枚は今夜の八枚のほうから出すからね。姐さんが二枚でいいって言ったのは聞かなかったことにする」
「聞いてたでしょう」
「聞かなかった」
私は一度だけ振り返った。石段の上で、門の灯精が二つ、同じ明るさで並んでいる。帰り道で刃物が出る、とあの人は言った。刃物を出すのは断罪された側で、刃物が向くのは、たいてい断罪を持ち込んだ側だ。私はそれを知っていて請負書を書き、知っていて今夜も袖の奥に二本を足した。
川の匂いがしてきて、ヨナの声はそれでも続いた。今夜のような仕事の帰りは、いつもこうだ。私が黙りかけるたびに数字が一つ増える。黙ったまま工房に着いた夜、私が朝まで灯りを点けていたのを、この子は一度見ている。
工房の戸を開けると、奥の炉に火が入っていた。
ギドが蝋鍋の前に座っていて、振り向かずに言った。
「十二本か」
「どうして」
「出るとき、棚から十二本減っていた。帰ってきた箱は十本の重さだ」
ヨナが外套から出した二本を作業台に置くと、ギドはそれを取って、芯の焦げた先を鼻に近づけた。
「燃やしたな。どこだ」
「伯爵家の夜会。広間の隅に二本。帰りに、門で警備隊の副隊長に数えられた」
ギドの手が止まった。
止まったのは一呼吸ぶんで、それから彼は二本を持ったまま蝋鍋のほうへ体を回した。鍋の中では古い蝋が溶けていて、そこへ入れれば芯だけが浮き、半刻もしないうちに二本はこの工房の他の蝋と見分けがつかなくなる。
私は作業台を回り込み、ギドの手から二本を取った。芯の焦げた匂いがまだ残っていて、蝋の肌は冷えているのに、握った指先だけが温かく感じた。
「十本だったことには、しない」
「嘘じゃない。蝋は蝋に戻るだけだ」
「昼にあの人が来たら、これを見せる。見せて、足したと言う。足したのは本当だから」
二本を棚に立てた。帳面の隣の、いちばん目につく段だ。ギドはしばらく棚を見ていて、それから鍋の下の火を火かき棒で崩した。
「昔」
火の粉が一つ上がって、消えた。
「灯りを一本ずつ数えて、帳面につける役人がいた。そういう役人がいたのは、王宮だけだ」
「ギドさんが王宮の夜会を請けていたころ?」
答えは返ってこず、ギドは火を落とした鍋に蓋をして、奥の寝床へ引っ込んだ。ヨナが肩をすくめて、爺さんはああなると朝まで喋らない、と言い、作業台の脇の椅子に丸くなった。自分の寝床ではなく、戸口に一番近い椅子だった。
私は鏡の包みを解いた。
布に移った汗で、鏡の面が曇っている。拭いて、灯にかざして、また拭いた。曇りは取れているのに、拭くたびにユーグ・ラモンの顔の右半分が映る気がして、そのたびに布を持ち替えた。
ユーグが「借りたのは事実だ」と言ったとき、鏡の縁を握っていた私の指は温かかった。冷たいはずの金属が指の温度になるまで握りしめて、あの一瞬、私は確かに気持ちがよかったのだ。順番どおりに言葉が出て、三人の立会人がそれを聞き、組んだ舞台が組んだとおりに閉じた。
その同じ指が、今は布を持ったまま冷えていて、胃の底が重い。あの男は、床を見ていた。持参金は戻り、リディアは泣かず、私は仕事をした。それで足りるはずだった。
棚の二本の影が、明けてきた窓の光で薄くなったころ、戸が叩かれた。
ヨナが先に椅子から跳ね起きて、閂に手をかけたまま私を見た。警備隊にしては早すぎる。昼に伺います、とあの人は言った。
刃物、という言葉のほうが先に浮かんだ。
私は炉の火かき棒を取って戸の横に立てかけてから、ヨナの手をどけて、自分で閂を外した。
戸口に立っていたのは、灰色のフードをかぶった女の子だった。夜会の絹ではなく、侍女が着るような地味な外套で、裾が朝露で濡れている。フードを下ろすと、リディア・コルネの顔が出てきた。
「ヴァルツさん。朝早くに、申し訳ありません」
戸の外に馬車の音はしていない。染物屋の角に年嵩の下男が消した角灯を提げて立っていて、橋のたもとに家紋の付いた馬車を置き、そこから川沿いを歩いてきたのだと分かった。工房の場所は、請負書の隅に控えの住所として書いてあったはずだ。
侍女の外套を借りたのは、演出屋の戸口にコルネ家の娘が立っているところを、誰にも見られないためだろう。
「ユーグ様が、昨夜から屋敷にお戻りにならないそうです。ラモン家から、うちに来ていないかと使いが来ました」
その声は、小さくなかった。
この子は怒ると声が小さくなる。昨夜の広間ではずっと小さかった。今は、はっきりと、戸口から工房の奥まで届く声で話していて、外套の前を合わせる指が震えている。
「昨夜、ユーグ様は床を見ていらっしゃいました。私、あの方がああいう顔をするのを初めて見て、それで、少しだけ胸がすっとしたんです」
リディアはそこで息を吸い、声は小さくならないまま続いた。
「すっとしたのに、朝になったら、あの方がいないんです。私が言わせたからでしょうか」
帰り道で刃物が出る、とあの人は言った。この子はその帰り道を、下男一人を連れて夜明けに歩いてきたのだ。
私の目が、足元の床へ落ちかけた。
床を見ていた男が、そのあとどこへ行くのか。私はそれを知っている気がして、知っていると思いたくなくて、リディアの濡れた裾から目を上げた。




