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第1話 十二本目の蝋燭

「持参金の話は、後にしよう」


 幕の向こうでユーグ・ラモンがそう言ったとき、私は左の鏡の縁に指を当てていた。縁だけがまだ冷たさを保っていて、それを一寸だけ内へ向けると、灯精の光が揺れて令息の顔の右半分に影が落ちる。影があれば、人は何かを隠しているように見える。実際に隠しているのだから、手伝ってやるだけだ。


 請負書には蝋燭十本と書いたが、持ち込んだのは十二本で、余った二本は令息が立つ位置の斜め後ろ、袖の奥に置いてある。灯精が二つ増えるだけで、正面から見る人の顔は一段暗くなる。


 幕の隙間から広間を見た。伯爵家の秋の夜会、その隅の、庭に面した窓の前。リディア・コルネが扇を閉じたまま立ち、向かいにユーグ、その両脇に立会人が二人並んでいる。


 二人だった。


 私はもう一度数えたが、やはり二人で、三人目のロヴェル伯爵の姿はどこにもない。扉は閉まったままで、開く気配もなかった。立会人は爵位持ちが三人と決まっていて、二人では、ユーグが何を認めようと明日には酒の席の戯れ言で済んでしまう。


 袖が引かれた。一回、二回、三回。ヨナの合図で、三回は逃げろの意味だ。


 私は右手の甲を親指で撫でた。蝋の火傷跡が三つあって、一番古いものが一番硬い。逃げない。ここで逃げたら、あの子が五年前の私になる。


「姐さん」


 ヨナが耳元へ顔を寄せて、早口で言った。


「伯爵、来てない。扉の外、馬車も見えない。二人じゃ成立しないし、金貨四十枚が紙になる」


「知ってる。外へ行って、伯爵の馬車を探して。貴族街の正門から入る道は一本しかないし、今夜は他家の馬車で詰まってる」


 ヨナは口を開けて、閉じた。指はもう動いていた。


「見つけたら」


「連れてきて。表からじゃなく、袖の脇から」


 ヨナが行くと、幕が揺れて止まった。私は懐から小鏡を出し、袖の奥の十二本目へ向けた。芯の灯精が小鏡の中で揺れるのを見ながら縁をわずかに傾けると、光が沈んで広間が半歩ぶん暗くなる。


 リディアの扇が閉じたまま少しだけ持ち上がって、また下りた。仕込みのときに決めた合図だ。灯りが落ちたら、まだ話すな。彼女は分かった、と扇で答えていた。


 影の中でユーグの口元だけが動いている。笑っている形をしているのに目は動かない。持参金の話は後にしよう、と言ったときの声は優しかったし、本気で優しかったのだと思う。家の借金を返すのに婚約者の持参金が要った、それだけのことだと信じている顔だ。


 嘘をついている顔ではない。それがいちばん厄介だった。嘘をついている男は灯りを落とせば顔が崩れるが、本気で正しいと思っている男は崩れない。崩れないから、本人の口で言わせるしかない。


 扉は開かない。


 広間の楽士が曲を変え、踊りの列がこちらへ流れてきた。あと一曲でこの隅にも人が来て、人が来れば立会人の耳に届く声は小さくなる。


 リディアが扇を握り直し、その指が白くなっているのが幕越しにも分かった。あの子はまだ十八で、請負書を渡したとき私は言った。あなたの口からは何も言わなくていい、今夜、あの人に言わせます、と。


 その今夜が、あと一曲で流れる。


 私は幕から一歩出た。


 広間の光が濃灰色の作業着の袖に当たり、胸には請負札が下がっていて、周りは絹ばかりだった。一番近くに子爵夫人がいて、扇を開いて隣の夫人と話している。爵位があれば立会人になれる。


「失礼いたします、奥様」


 五年前の敬語が出た。言いながら、古いと自分でも分かった。


 夫人はこちらを見て、顔ではなく札を見た。それから作業着の袖へ目が下りて、隣の夫人のほうへ顔が戻る。何も言われなかった。隣の夫人が小さく笑ったのは、私にではなく別の話の続きだったのだろうが、その声だけが耳に残った。


 私は頭を下げたままだった。上げていい、と言ってくれる人がいないので自分で上げると、胸の札が揺れて止まり、右手の火傷跡を袖の中へ引っ込めた。手のひらが汗ばんでいて、鏡の縁に触れた指が湿っている。貴族街に入るといつもこうなる。五年前なら、名前で呼ばれていた。


 作業着の女が広間で頭を下げても、貴族は一人も増えない。分かっていて、出た。


 幕の裏へ戻ると鏡が曇っていた。布で拭くと汗が布に移り、もう一度拭いた。


 三日前、コルネ家の応接間で、私はリディアに請負書を渡した。装飾費として金貨八枚、表向きはそれだけですと言うと、彼女は請負書を裏の一行まで読んでから顔を上げた。


「裏は、賠償金の一割。それから、立会人は三人と」


「爵位のある方が三人です。それがなければ、あの人が何を言ってもただの口喧嘩になります」


「父の友人が二人。あと一人は」


「ロヴェル伯爵にお願いしてあります。マダム・オレリーの顧客で、教会派ではありません」


 扇が閉じて、それから少しだけ開いた。


「持参金は、戻りますか」


 その声は小さくて、あのときから小さかった。戻ります、あの人の口から借りたと言わせれば、と私は答えた。


 その伯爵が、いない。


 ユーグが一歩リディアに近づいた。


「戻ろう。ここは寒い」


 立会人の二人が顔を見合わせた。リディアの父の友人で、立会いのためだけに来ている二人だ。年上のほうが咳払いをして、言った。


「コルネ嬢、三人揃わぬうちは我々は何も聞いておらぬことになる。それでよいのかな」


「はい。もう少しだけ」


「ロヴェル殿は、来るのかね」


 リディアは答えず、扇を握った指がさらに白くなった。ユーグがその指を見て、それから立会人を見て、口元を少し緩めた。来ないと思っている顔だ。


 リディアが扇を半分だけ開いた。来い、の形ではない。まだ、と私に言っている。


 袖の脇の幕が動いて、ヨナが顔を出した。息が上がっている。


「連れてきた。正門の手前で馬車が止まってて、前に侯爵家の馬車が三台。伯爵、中で寝てた。御者に銀貨渡して、入口が裏に変わったって言わせて、庭の門から入れた」


「銀貨、何枚」


「後で」


 その後ろから腹の出た男が入ってきた。夜会服の襟が曲がり、酒の匂いがする。入口が裏に変わったと御者が言うのだが、とロヴェル伯爵は私に言い、私は頭を下げて今夜は庭からご案内しておりますと答えた。伯爵は札を見て、それで納得した顔になる。ヨナが指を三本立てる。銀貨三枚。後で叱ろう。


 伯爵が幕を抜けて広間へ出た。


「遅くなった。コルネ嬢、ラモン君」


 二人の立会人が振り返る。三人になった。


 私は小鏡を傾け直した。十二本目の灯精が光の中へ戻り、広間が半歩ぶん明るくなる。


 リディアの扇が閉じた。


「ユーグ様」


 小さい声だった。この子は怒ると小さくなる。


「私の持参金を担保に、金貨を借りましたか」


 ユーグの口元が止まった。私は鏡の中の彼の顔の右半分だけを見ていた。侍女の名前は出ない。出ないように順番を組んだ。借金の話だけで、それを認めれば侍女の件は公示しない。請負書の裏に私はそう書き、リディアはそれを読んで扇を閉じたのだ。


 ユーグは横を見た。立会人が三人。伯爵は襟を直している。彼は逃げ道を探していて、私はそれを一つだけ残してあった。


「リディア。ここで、そんな話を」


「借りましたか」


 ユーグは笑おうとして、口元が影の中で一度持ち上がり、下りた。


「借りたのは事実だ」


 その声は、優しかった。


「返すつもりだった。家の借金があった。父の代からの借金だ。君と一緒になれば、どうにかなると思っていた。君のためにも、なると思っていた」


 伯爵が襟から手を離し、年上の立会人がもう一人と目を合わせた。私は鏡の縁を握っていて、冷たいはずの縁がいつのまにか指の温度になっている。


 リディアの扇は閉じたままだった。


「はい。分かりました」


 それだけを小さい声のまま言った。泣かなかった。請負書を渡した日、泣くなら今夜より前に、と私は言い、彼女は今夜より前に済ませてきたのだ。


 三人が聞いた。公示は成立した。明日、貴族院の記録に一行が足され、持参金は戻る。


 ユーグ・ラモンは床を見ていた。


 五年前、私も床を見ていた。床には何もなく、何もないから人はそこを見るのだと、あのとき初めて知った。


 私は鏡を外して布で包み、さっきまで汗ばんでいた指が乾いて冷たくなっているのを布越しに確かめた。ヨナが袖を一回引く。帰ろう、の合図だ。蝋燭を数えると十本で、袖の奥の二本はヨナがもう抜いていた。灯精は蝋と一緒に箱へ戻し、蓋を閉める前に一つずつ数える。十。


 裏口から庭へ出た。庭の門は伯爵を入れたときのまま開いていたので、閉めた。


「姐さん。銀貨、三枚」


「二枚で済んだでしょう」


「御者が寝てる主人を起こす分。それに、鏡を新しくするのは四十枚のほうから」


 ヨナは数字で話す。今夜は数字だけ聞いていたかった。


 貴族街の門は石段の上にあって、ここを抜けて石段を下りれば、あとは川まで一本道だ。請負札を胸に下げていれば門番は札だけを見て通す。顔は見ない。今夜も、札を見るはずだった。


 門番が顔を上げて、私の顔を見た。


「ヴァルツさんですね」


 言ったのは門番ではなく、その横に立っていたもう一人だった。警備隊の制服で、胸に副隊長の飾り紐、帽子を脱いで脇に抱えている。門の灯精は左右に一つずつ、真正面から当たっていて、この位置に立つ顔には、私でも影を作れない。


「今夜の会場の灯りは、十二本でした」


 男は丁寧に言った。


「請負書には、十本とあります。あとの二本は、どこにありましたか」


 ヨナの指が私の袖を握って、一回も引かなかった。


 私は鏡の包みを抱え直した。布越しに、まだ冷たい。ユーグ・ラモンが床を見ていた顔と五年前の自分の顔はたぶん同じで、その床へ目が落ちかけるのを、男の顔を見ることで止めた。


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