第5話 甘い物は正義
「おいしい……。」
朝霧琥珀は両手でチョコレートクリームパンを持ったまま固まっていた。
小さくもう一口。
ゆっくり噛む。
ふわふわのパン。
とろけるチョコクリーム。
口いっぱいに広がるカカオの香り。
「……幸せ。」
耳がぴくぴく動き、ふさふさの尻尾もゆっくり左右に揺れる。
その姿は、まるでご機嫌な猫だった。
萌香は思わず笑ってしまう。
「そんなにおいしい?」
「うん。」
琥珀は何度もうなずく。
「こんなの初めて。」
「代用チョコしか食べたことないから。」
「これが……。」
「本物なんだね。」
しばらく二人は黙ってパンを食べた。
バスターミナルには夕方の風が吹き抜ける。
殺伐とした世界なのに、この小さなベンチだけは穏やかな時間が流れていた。
「甘い物っていいね。」
萌香がぽつりと言う。
「仕事で嫌なことがあっても。」
「チョコ食べると少し元気になれた。」
琥珀は笑った。
「私も。」
「ダンジョン帰りは甘い物が食べたくなる。」
「でも、売ってるのは代用品だけ。」
「食べると逆に悲しくなるんだ。」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
「なんか。」
「似てますね。」
「うん。」
「萌香も毎日残業だったんでしょ?」
「そう。」
「会社と家の往復。」
「唯一の楽しみがコンビニのお菓子だった。」
「私も同じ。」
琥珀は苦笑する。
「探索者って自由な仕事だと思われてるけど。」
「現実は違う。」
「朝から夕方までダンジョン。」
「帰って報告書。」
「素材の納品。」
「装備の修理。」
「毎日くたくた。」
「まるでブラック企業。」
「えぇ……。」
「夢がない。」
「ないよ。」
琥珀は肩をすくめた。
「だから甘い物くらいしか楽しみがない。」
その時だった。
ふわり。
風に乗ってチョコレートの香りが流れる。
近くにいた探索者が鼻をひくつかせた。
「ん?」
「なんか甘い匂いしない?」
「代用チョコじゃないぞ。」
琥珀の耳がぴくっと動く。
「まずい。」
小声でつぶやいた。
「萌香。」
「パンしまって。」
「え?」
「この香りは目立ちすぎる。」
萌香は慌ててパンを袋へ戻す。
琥珀は周囲を見回し、小さな声で言った。
「ここ駅前だから。」
「探索者も商人も多い。」
「本物のチョコだって知られたら大騒ぎになる。」
萌香は不安そうにリュックを抱える。
「そんなに?」
「うん。」
「それと……。」
琥珀は少し言いにくそうに続けた。
「さっき言ってたよね。」
「違う日本から来たって。」
萌香はうなずく。
「令和八年の日本です。」
その瞬間。
琥珀は素早く萌香の口を両手で押さえた。
「しっ!」
「むぐっ!?」
猫耳がぴんと立つ。
周囲を見回す。
誰も聞いていない。
ほっと息を吐き、手を離した。
「そういう話は。」
「絶対に人前でしちゃ駄目。」
「え?」
「理由は今は言えない。」
「でも。」
「異世界。」
「転生。」
「別の日本。」
その言葉に異常に反応する人たちがいる。
「探索者協会。」
「軍警。」
「宗教団体。」
「闇商人。」
「関わったら、きっと普通の生活は送れなくなる。」
萌香の顔が青くなる。
「ご、ごめんなさい。」
「知らなかった。」
「うん。」
琥珀は優しく笑う。
「だから安全な場所へ行こう。」
「私の住んでるところ。」
「北八王子。」
「魚人街。」
「ゾーンB。」
「え?」
「ケットシーも魚人も亜人も普通に暮らしてる街。」
「私のアパートもそこ。」
「一緒に来る?」
萌香は少しだけ考えた。
この世界で知り合った、初めての人。
疲れた時に甘い物で笑顔になる。
そんな共通点がある相手だった。
「お願いします。」
「よし!」
琥珀は笑顔になる。
「じゃあバスが来るまでに食べちゃおう。」
「冷めたらもったいないからね。」
「そうですね!」
二人は笑いながら残りのパンを頬張った。
どれだけ世界が変わっても。
おいしいものを食べると、人は笑顔になれる。
その小さな幸せだけは、この世界でも変わらなかった。




