第41話 嘲笑う悪魔
空港の入口に、一台のタクシーが停車した。
後部座席から降りたマリアさんは、運転手に礼を告げると、最小限の荷物が入ったキャリーバッグを引いて歩き出した。
その後に続いて、リリアーヌさんもタクシーを降りる。
彼女は空港へ向かおうとして、不意に足を止めた。
振り返った先には、これまで暮らしてきた街の景色が広がっている。
僕とレオンと過ごした学園での日々。
セドリックさんと交わした、いつもの何気ない会話。
思い返せば、たくさんの思い出があった。
それらをすべて置いていくかのように、リリアーヌさんは寂しげな表情を浮かべていた。
けれど、後悔はない。
マリアさんについていけば、困っている人々を救うことができる。
自分の力を、誰かのために使えるのだ。
そう信じて、リリアーヌさんは前を向いた。
「リリアーヌさん?」
先を歩いていたマリアさんが、優しく声をかける。
「まずは、貧困の街から向かいましょうか。ここから十時間ほど飛行機に乗りますが、リリアーヌさんと一緒なら安心です」
「わたくしでお役に立てるのでしたら、喜んでお供いたしますわ」
リリアーヌさんは微笑み、マリアさんの隣に並んだ。
「まあ……ありがとうございます。頼りにしていますね」
マリアさんもまた、柔らかく微笑み返す。
二人は並んで、空港の自動扉をくぐった。
――しかし、
「……あら?」
空港の中へ入ったマリアさんが、ふと足を止めた。
リリアーヌさんもつられて立ち止まり、周囲を見回す。
妙だった。
普段なら大勢の人々で賑わっているはずの空港に、利用客の姿がほとんど見当たらない。
広々としたロビーには、奇妙なほど静かな空気が漂っていた。
それなのに、空港の職員らしき人物たちは、あちこちに立っている。
「……どうなさったのですか、マリアさん?」
不思議そうに尋ねるリリアーヌさん。
マリアさんは答えず、職員たちへ視線を向けると、小さく笑った。
「……もう、気付かれてしまったようですね」
「……?」
リリアーヌさんは首を傾げる。
マリアさんの言葉の意味が分からなかった。
「お前がマリアだな」
二人の背後から、低い声が響いた。
振り返ると、そこには魔界警察の一団が立っていた。
先頭にいる警察官が、一歩前に出る。
「リリアーヌ・ドラグニスさん、誘拐の罪で逮捕状が出ている。大人しくこちらへ来てもらおう」
「……え?」
リリアーヌさんは目を見開いた。
(……誘拐?)
いったい、何の話をしているのだろう。
自分はマリアさんに誘われて、困っている人々を救うために旅立とうとしているだけだ。
無理やり連れてこられたわけではない。
自分の意思で、ここまで来たのに。
「なんのことでしょうか?」
対するマリアさんは、少しも動揺した様子を見せなかった。
不思議そうに首を傾げ、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「私は今から、リリアーヌさんと旅に出かけるのですよ」
「とぼけるつもりか?」
「とぼけるだなんて……。私はただ、困っている方々を助けに行こうとしているだけです」
マリアさんは困ったように眉を下げた。
その姿だけを見れば、突然身に覚えのない罪を着せられた、哀れなシスターにしか見えなかった。
リリアーヌさんは困惑したまま、二人のやり取りを見つめる。
「……お待ちくださいませ。マリアさんが誘拐犯だなんて、何かの間違いですわ!」
リリアーヌさんの言葉を聞いた警察官は、彼女へ向き直った。
「リリアーヌさん。落ち着いてください。我々はあなたを助けに来たのです」
「助けに……?」
「ええ。さあ、帰りましょう?ご家族が心配されていますよ?」
警察官は警戒させないよう、ゆっくりと手を差し伸べた。
けれど、リリアーヌさんはその手を取らなかった。
家族が心配している。
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
セドリックさんは今頃、どうしているだろう。
僕とレオンは、まだ自分のことを怒っているだろうか。
ほんの一瞬、そんな思いがよぎる。
それでも、リリアーヌさんは首を横に振った。
「……わたくしは、自分の意思でマリアさんについてきたのですわ」
「リリアーヌさん……」
「マリアさんは、困っている人々を救おうとなさっているだけです。それなのに、どうして逮捕されなければならないのですか?」
警察官の表情が曇った。
目の前のリリアーヌさんは、明らかにマリアさんを信頼している。
しかし、失踪した子供とその母親の件をはじめ、マリアさんには疑わしい点がいくつもあった。
そして今、リリアーヌさんは彼女と共に街を離れようとしている。
警察官は小さく息を吐くと、
「……そうか。マリアに何かされたんだな?」
「……え?」
「よし、先にマリアの身柄を拘束しろ!」
警察官の指示を受け、武装した警察官たちが動き出す。
マリアさんへ向かって、慎重に距離を詰めていく。
その瞬間だった。
「お待ちなさい!」
リリアーヌさんが、マリアさんの前に立ちはだかった。
「マリアさんに酷い事なさらないで!」
彼女の手から炎が弾け、小さな火の粉が舞い上がり、近づいてきた警察官たちの足元へと飛んでいった。
「なっ……!」
警察官たちは驚き、咄嗟に足を止める。
リリアーヌさんはマリアさんを背に庇いながら、彼らを睨みつけた。
「リリアーヌさん!我々はあなたを傷つけるつもりはありません!」
「でしたら、マリアさんにも手を出さないでくださいませ!」
「彼女は誘拐の容疑者です!あなたを保護するためにも、身柄を拘束しなければならないのです!」
「そんなこと、わたくしが許しませんわ!」
リリアーヌさんの手のひらに、再び炎が灯った。
その炎は先ほどよりも強く揺らめき、赤い火の粉を周囲へ散らしていく。
彼女の瞳には、迷いがなかった。
「……魔界警察だとしても、わたくしの友人を傷つけるなら、容赦致しませんわ!」
凛とした声が、静まり返った空港に響き渡る。
警察官たちは、動きを止めた。
リリアーヌさんを傷つけるわけにはいかない。
しかし、彼女をこのままマリアさんと共に行かせることもできない。
誰もが慎重に次の一手を考える中、リリアーヌさんだけは一歩も退こうとしなかった。
彼女は信じている。
マリアさんは優しい人だ。
困っている人々を救おうとしている、かけがえのない友人なのだと。
だからこそ、自分が守らなければならない。
たとえ、相手が魔界警察であろうとも。
その背後で、マリアさんは何も言わなかった。
怯えることも、助けを求めることもない。
ただ、リリアーヌさんの背中を見つめていた。
名門ドラグニス家のお嬢様が、自分を守るために魔界警察へ立ちはだかっている。
その光景を、じっと眺めていた。
そして――魔界警察だけが目にした、マリアさんの口元には、すべてを嘲笑うかのような、静か微笑みが浮かんでいた。




