第39話 孤独と隙間
(――どうして、分かってくださらないの?)
森の中を、わたくしは一人で歩いていた。
先ほどまで一緒にいたルカとレオン。
そして、セドリック。
三人の顔が、何度も頭の中に浮かんでは消えていく。
「……もう、知りませんわ」
吐き捨てるように呟いた声は、誰もいない森の中に虚しく響いた。
ルカも、レオンも、マリアさんを疑っていた。
あの優しくて、美しいシスターを。
わたくしたちを温かく迎えてくれて、美味しい紅茶を淹れてくれたマリアさんを。
確かに、あの教会には不思議なことが多い。
管理している人がいないはずなのに、マリアさんが暮らしていることも、行方不明になった親子のことも、気になるのは分かる。
けれど、それだけでマリアさんを疑うなんて。
「……もう少し、普通にお話を聞けばよろしいのに」
ぽつりと呟く。
そうすれば、マリアさんだってきちんと答えてくださったかもしれない。
あんなふうに疑うような聞き方をしなくても、よかったはずですわ。
わたくしは、マリアさんのことを信じている。
それなのに、二人はわたくしの言葉を聞こうともしなかった。
まるで、わたくしまで間違っていると言われたような気がした。
「……どうして、わたくしのことを信じてくださらないの?」
声が震え、目の奥が熱くなる。
(……泣くものですか)
こんなことで泣くなんて、ドラグニス家の人間として恥ずかしい。
そう思うのに、胸の奥が苦しかった。
ルカは、いつもわたくしに笑いかけてくれる。
無能力者のくせに、危なっかしいほど他人のことばかり気にして。
時には、わたくしが呆れるほど無鉄砲なことまでしてしまう。
レオンは、口は悪いけれど、いざというときには頼りになる。
わたくしが間違ったことをすれば、遠慮なく指摘してくれる。
そんな二人だからこそ、分かってほしかった。
わたくしがマリアさんを信じている理由を。
……けれど今日の二人は、わたくしの言葉を聞いてくれなかった。
「……セドリックまで」
思わず、足が止まった。
いつもなら、わたくしが怒ってその場を離れれば、セドリックはすぐに追いかけてきてくれる。
もちろん、わたくしが冷静になるまで、少し距離を置いてくれることもある。
けれど、今日は違った。
セドリックは、ルカとレオンのそばに残った。
わたくしを追いかけてこなかった。
「……どうしてですの?」
胸の中に、寂しさがじわりと広がった。
セドリックまで、わたくしのことを分かってくださらないの?
そんなはずはない。
セドリックは、わたくしの専属執事だもの。
ずっとそばにいてくれた。
わたくしのことを誰よりも気遣ってくれて、どんなときでも支えてくれた。
だから、きっと何か理由があるのだろう。
……そう思いたいのに、今日ばかりは、その考えさえ心細かった。
わたくしは、俯いたまま歩き続けた。
やがて、森を抜け、見慣れた道の先に、ドラグニス家の屋敷が見えてきた。
立派な門扉の、その向こうには、いつもと変わらない我が家がある。
門の前までたどり着き、わたくしは扉に手をかけた。
帰りましょう。
今日はもう、何も考えたくない。
部屋に戻って、ゆっくり休めばいい。
そうすれば、きっとこの胸のもやもやだって――。
「…………」
手が止まった。
頭に浮かんだのは、屋敷でも、ルカでも、レオンでもなく、マリアさんの顔だった。
柔らかな微笑みに、穏やかな声。
紅茶を淹れる、丁寧な手つき。
わたくしを温かく迎えてくれた、あの優しい姿。
「……マリアさん」
名前を口にした途端、胸の奥がざわついた。
そうですわ。
そもそも、わたくしはデウス様についてお話を聞きに来たのだった。
マリアさんは、デウス様に救われたとおっしゃっていた。
そして、あの教会で毎日お祈りをしているとも。
なのに、ルカとレオンは、マリアさんを疑うばかりだった。
「……聞き方が、よくなかったのですわ」
小さく呟く。
もっと普通に尋ねればよかったのだ。
どうして教会にいるのか。
デウス様とは、どのような方なのか。
行方不明になった親子について、何かご存じないか。
落ち着いて話せば、きっと分かることもあるはずですわ。
わたくしなら、もう少し穏やかにお話しできる。
マリアさんだって、わざわざ疑うような聞き方をされれば、困ってしまうに違いない。
「……わたくしが、もう一度お話を聞けば……」
そうすれば、ルカたちの疑いも晴れるかもしれない。
マリアさんが悪い人ではないことを、二人にも分かってもらえるかもしれない。
そう考えると、先ほどまで胸を塞いでいた苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ。
わたくしは門扉から手を離し、そして、ゆっくりと振り返る。
来た道を戻れば、あの森がある。
森を抜けた先には、古びた教会が。
マリアさんが、待っているかもしれない。
「……もう一度だけですわ」
誰に言い聞かせるでもなく、呟いた。
ルカたちに腹を立てているからではない。
マリアさんを疑っているからでもない。
ただ、もう一度、きちんとお話をしたいだけ。
そう自分に言い聞かせて、わたくしは屋敷に背を向けた。
再び、森へと足を踏み入れ、今度は、先ほどよりも迷いがなかった。
「まあ……リリアーヌさん」
教会の扉を開けると、マリアさんが驚いたように目を丸くした。
けれど、その表情はすぐに柔らかな笑みに変わる。
「戻ってきてくださったのですね」
「……ええ。少し、お話をしたくて」
「もちろんです。どうぞ、お入りください」
マリアさんは、何も尋ねなかった。
どうして戻ってきたのか。
ルカたちとはどうなったのか。
そうしたことを問い詰めることもなく、ただ、わたくしを温かく迎え入れてくれた。
その優しさに、胸がいっぱいになる。
「……ありがとうございます」
思わず、声が小さくなった。
「ふふ。そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」
マリアさんは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「せっかく戻ってきてくださったのですから、またお茶にしましょうか」
「……よろしいのですか?」
「もちろんですよ」
そう言って、マリアさんは奥へと向かった。
わたくしは、案内された席に腰を下ろした。
さっきまで、あんなに胸が苦しかったのに。
ここに来ると、少しだけ安心できる。
どうしてなのかは、うまく説明できない。
ただ、マリアさんと一緒にいると、張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくようだった。
やがて、紅茶の芳しい香りが漂ってきた。
「お待たせしました」
目の前に置かれたティーカップから、温かな湯気が立ち上っている。
「……ありがとうございますわ」
わたくしはカップを手に取り、紅茶を口に含んだ。
華やかな香りが広がる。
その温かさが、喉を通って胸の奥へと染み込んでいく。
ふう、と息を吐いた。
不思議だった。
あんなに乱れていた気持ちが、少しずつ落ち着いていく。
ルカたちへの怒りも、セドリックへの寂しさも、さっきよりずっと遠くに感じられた。
もちろん、納得したわけではない。
けれど、今はもう、あのときのように感情をぶつけたいとは思わなかった。
「……少し、落ち着かれましたか?」
マリアさんが尋ね、
「ええ。おかげさまで」
「よかったです」
安心したように微笑んだ。
「おつらいことがあったときは、無理に気持ちを抑え込まなくてもいいのですよ。誰かに話すだけでも、心が軽くなることがありますから」
「……マリアさん」
わたくしは、カップを両手で包み込んだ。
「わたくし……ルカとレオンに、信じてもらえなかった気がするのです」
口にしてみると、胸の奥にしまい込んでいた悲しさが、再び顔を覗かせた。
「お二人とも、マリアさんを疑ってばかりで……わたくしが何を言っても、聞いてくださらなくて」
「そうだったのですね……」
マリアさんは、静かに耳を傾けてくれた。
「セドリックまで、わたくしを追いかけてきてくれませんでしたわ」
最後の言葉は、思っていたよりも弱々しい声になった。
「いつもなら、すぐに来てくれるのに……」
言い終えてから、わたくしは慌てて顔を上げた。
「……いえ。セドリックにも、何か考えがあったのでしょうけれど」
「大切な方たちだからこそ、分かってもらえないと悲しいですよね」
マリアさんは、わたくしの気持ちを否定しなかった。
ルカたちが悪いとも言わない。
ただ、わたくしが悲しかったという事実を、そっと受け止めてくれた。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……はい」
わたくしは、小さく頷いた。
やっぱり、マリアさんは優しい方ですわ。
わたくしが何を感じているのか、ちゃんと分かってくださる。
ルカたちにも、少しは見習ってほしいものですわね。
そんなことを考えながら、もう一度、紅茶を口に運んだ。
「ところで、リリアーヌさん」
しばらくして、マリアさんが口を開いた。
「よろしければ、これからお祈りをしていくところを見てみませんか?」
「お祈り、ですの?」
「はい。デウス様へのお祈りです」
マリアさんは、穏やかな口調で続けた。
「もちろん、やれと言っているわけではありませんよ。よかったら、見るだけでもいかがですか?」
わたくしは、少し考えた。
普段の生活では、あまり縁のないものだ。
ましてや、デウス様という方についても、まだ詳しくは知らない。
けれど――わたくしは、デウス様について話を聞きに来たのだった。
マリアさんが、あれほど大切にしている方。
マリアさんを救ってくださったという、デウス様。
どのような方なのか、知っておいても損はないだろう。
「……見るだけでしたら」
「ありがとうございます」
マリアさんは嬉しそうに微笑んだ。
「では、こちらへどうぞ」
案内されたのは、教会の奥にある小さな礼拝スペースだった。
そこには、誰もいなかった。
静まり返った空間に、柔らかな光が差し込んでいる。
マリアさんは祭壇の前に立つと、静かに両手を組んだ。
「デウス様。今日もこうして、祈りを捧げられることに感謝いたします」
穏やかな声が、静かな教会に響いた。
わたくしは、少し離れた場所からその姿を見つめていた。
マリアさんの表情は真剣だった。
誰かに見せるためでも、褒められるためでもない。
本当に、心からデウス様を敬っている。
その姿を見ていると、自然とそんなふうに思えた。
(――マリアさんは、本当にデウス様を大切に思っていらっしゃるのですわね)
そのときだった。
ふと、耳元で誰かが囁いたような気がした。
『――マリアは、優しい人』
わたくしは、瞬きをし、周囲を見回してみる。
けれど、そこにいるのは、祭壇の前で祈り続けるマリアさんだけだった。
『――マリアを、信じて大丈夫』
「……?」
今のは、何だったのだろう。
誰かの声を聞いたような気がしたのに、はっきりとは思い出せない。
けれど、不思議と不快ではなかった。
むしろ、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな不安が、すっと遠のいていくような感覚があった。
マリアさんは、優しい人。
わたくしを温かく迎えてくれた人。
わたくしの話を、きちんと聞いてくれた人。
(そんな方を、疑う必要なんてありませんわ)
そう思うと、気持ちが落ち着いた。
先ほどまで胸を締めつけていた孤独も、ほんの少しだけ薄らいだ気がした。
「……リリアーヌさん?」
祈りを終えたマリアさんが、こちらを振り返った。
「大丈夫ですか?」
「ええ。何でもありませんわ」
わたくしが微笑むと、
「……素敵なお祈りでしたわね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
マリアさんは、いつものように穏やかに笑った。
その笑顔を見ていると、やはり間違っていないと思えた。
マリアさんは、信じるに値する方なのだ。
ルカとレオンにも、きちんと話せば分かってもらえるはず。
セドリックだって、きっと。
(……そうですわ。わたくしが、もう少し頑張ればいいのです)
マリアさんのことを、みんなに分かってもらえるように。
そう考えながら、わたくしはマリアさんの隣に立った。
教会の窓から差し込む光が、静かに二人を照らしていた。
その穏やかな時間の中で、わたくしは気づいていなかった。
自分の心に生まれた小さな隙間へ、何かが静かに入り込み始めていることに。
そして、その隙間が、これから少しずつ広がっていくことにも――。




