第38話 マリアへの恐怖心
マリアの教会を後にした僕、レオン、セドリックさんの三人は、学園長に相談を持ちかけた女性の案内で、行方不明になった親子の家を訪れていた。
目的は、母親から直接話を聞くこと。
子供の行方を捜していたはずの母親が、なぜ教会でお祈りをした後に、帰ってしまったのか。
そして、なぜマリアさんは、母親が教会を訪れたことを知りながら、子供について何も話さなかったのか。
確かめなければならないことは、いくつもあった。
「ここよ。あの人の家は……」
女性が立ち止まったのは、街の一角にある、ごく普通の民家だった。
彼女は不安そうに扉を見つめてから、ゆっくりとノックした。
「ねえ、いる?私よ。ちょっと話がしたいの」
しばらくすると、扉が開き、
「あら、どうしたの?」
姿を現した母親は、穏やかな笑みを浮かべていた。
頬に疲れが見えるわけでもなく、何かに怯えている様子もない。
行方不明になっていた三日間、何事もなかったかのような顔をしている。
「……よかった。無事だったのね」
女性は安堵したように胸を撫で下ろした。
「ずっと心配していたのよ。急にいなくなったから、何かあったんじゃないかって……」
「まあ。心配をかけてしまったのね。ごめんなさい」
母親は申し訳なさそうに頭を下げた。
その仕草はあまりにも自然だった。
だからこそ女性は違和感を覚え、
「……ねえ。あの子は?」
「え?」
「あなたの子供よ。あの子はどこにいるの?」
母親は不思議そうに首を傾げた。
「私の……子供?」
その言葉に、女性の顔から血の気が引いた。
「何を言っているの?あなたには子供がいるでしょう? ずっと一緒に暮らしていたじゃない!」
「……ごめんなさい。何のお話かしら?」
母親は困ったように微笑んだ。
「私、子供なんていないわ」
「そんな……!」
女性は思わず家の中へ視線を向けた。
以前、訪れたときには、壁にも棚にも子供の写真が飾られていた。
笑顔で母親に抱きつく姿。
一緒に出かけたときの記念写真。
少し照れくさそうに、二人で並んでいる写真。
この家の中には、あの子が確かに生きていた証が、いくつもあったはずなのだ。
それなのに、
「……写真が、ない……」
壁にも、棚にも、写真立てはひとつもなかった。
まるで最初から、ここに子供など存在しなかったかのように。
「ねえ、どうして……どうして覚えていないの?」
女性は震える声で尋ね、
「あなた、三日前に教会へ行ったでしょう?あの子がいなくなって、心配で……それで、私にも相談してくれたじゃない!」
「ああ、教会なら行ったわ」
母親は、ぱっと表情を明るくした。
「デウス様にお祈りをしてきたの。とても素敵な場所だったわ」
「……え?」
「マリア様も、本当にお優しい方なのよ。私の話を聞いてくださってね。おかげで、ずっと抱えていた気持ちが晴れやかになった気がするの」
母親は嬉しそうに語った。
まるで、心の底から救われたと信じているかのように。
女性は唇を震わせたが、
「違う……違うわよ……!あなたは、あの子を捜していたのよ!あの子がいなくなって、心配で、苦しくて……!」
「まあ、どうしてそんなに怖がっているの?」
母親は穏やかな声で言った。
「あぁ、そうだわ!貴女もマリア様とお祈りをしましょう?ね?」
その笑顔には、悪意など微塵もなかった。
嘘をついているようにも見えない。
母親は本当に、子供の存在を忘れてしまっているのだ。
大切な我が子を。
ずっと一緒に過ごしてきた日々を。
そして、その子を捜さなければならなかった理由さえも。
「……っ!」
女性は母親の両肩を掴み、
「ねえ!目を覚まして!あの子を探しに行きましょ!私も行くから!」
と、必死に訴える。
けれど、母親は困ったように眉を下げると、その手をそっと振り払った。
「もう、そんなに慌てなくても大丈夫よ」
「どうして……?」
「だって、私はもう悩みなんてないのだから」
母親は微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、女性は言葉を失った。
これ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
目の前にいるのは、確かに親友だった。
声も、顔も、仕草も、何ひとつ変わっていない。
それなのに、彼女の中から、最も大切なものだけが、綺麗に抜け落ちてしまっていた。
その様子を見つめながら、僕は拳を握りしめた。
「……おかしいよ。こんなの、絶対におかしい」
母親の様子は、単なる記憶違いなどでは説明できない。
家から消えた写真。
子供の存在そのものを忘れた母親。
そして、教会で出会ったマリアさんへの、異様なまでの信頼。
偶然で片づけるには、あまりにも不自然だった。
「……マリアさんが、何かしたんだ」
僕の声は、いつになく硬かった。
隣に立つレオンも、いつもの皮肉めいた表情を消していた。
「間違いないな。少なくとも、この母親がこうなったことと、マリアさんは無関係じゃない」
レオンは静かに言い切ると、セドリックさんも、母親から目を離さない。
「……お嬢様が、あの方を信頼していらっしゃることも、気がかりです」
その言葉に、僕の胸が締めつけられた。
学園に戻る前、リリアーヌさんはマリアさんを疑う二人に怒りをぶつけた。
マリアさんは優しい人だと。
二人の言葉など、もう聞きたくないと。
あのときのリリアーヌさんの表情が、脳裏によみがえる。
「……リリアーヌさん」
彼女は、マリアさんを疑うことそのものを嫌がっていた。
それは、本当にリリアーヌさん自身の気持ちなのだろうか。
レオンもまた、黙り込んでいた。
気が強くて、意地っ張りで、簡単には他人の言葉を信じない。
そんな彼女が、マリアさんのことになると、まるで別人のように頑なになった。
ただ、マリアさんを信頼しているというだけでは説明できないほどに。
「……まさか、な」
レオンの喉から、かすれた声が漏れたが、
「リリアーヌも……?」
その先を、口にすることはできなかった。
セドリックさんもまた、目を伏せる。
(……お嬢様の身に何かが起きている?)
そう考えれば、これまでの言動にも説明がつくのかもしれない。
だが、確かな証拠は何もなかった。
今ここで結論を出すことはできない。
それでも三人の胸には、同じ疑念が生まれていた。
マリアさんは、いったい何をしたのか。
そして、リリアーヌさんもまた、彼女によって何かを変えられてしまったのだろうか。
答えは、まだ分からない。
ただひとつ確かなのは――、あの穏やかな笑顔の奥に、決して触れてはいけない何かが潜んでいるのではないか。
僕は初めて、マリアさんという女性に明確な恐怖を覚えた。
「……リリアーヌさんを探しに行こう……!」




