第35話 静かな訪問者
教会に住むシスター、マリアさんと出会ってから一週間が経とうとしていた。
僕達は相変わらず、マリアさんに会いに行っては〝お茶会〟をして、帰るだけの繰り返し。
そんなある日、僕達が知らない所で、ある事が起きていた。
「この子を……見ませんでしたか?」
街の大通りでは、そばかすのある女性が、行き交う人々に一枚の紙を見せながら、必死に声をかけていた。
「あの!この子見ませんでしたか!」
紙には、幼い子供の似顔絵が描かれている。
明るい表情で笑う、ひとりの子供。
女性は何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。
「お願いです!どんな些細なことでもいいんです!この子を見かけませんでしたか!?」
しかし、足を止める人は少なかった。
「さあ……見てないねぇ」
「悪いけど、知らないよ」
そう言って、誰もが通り過ぎていく。
「そんな……」
女性の手が、小さく震えた。
もう何日も、まともに眠れていない。
食事も喉を通らず、頭の中は行方不明になった我が子のことでいっぱいだった。
あの日も、いつもと変わらない一日だった。
少し目を離した隙に、子供の姿が見えなくなった。
家の中にも、近所にもいない。
街中を探し回り、知り合いにも尋ねた。
それでも、どこにもいなかった。
まるで、最初からこの世に存在していなかったかのように。
「お願い……どこにいるの……?」
女性は似顔絵を胸に抱きしめた。
そのとき、
「……あの、ちょっといいですか?」
通りかかった男性が、女性に声をかけた。
「え……?」
「その子、森の方へ入っていくのを見た気がするんですが……」
「森……?」
女性は、弾かれたように顔を上げた。
「本当ですか!?どこの森ですか!?」
「いや、確かじゃないんですけどね。街の外れにある、古い教会へ続く森です。小さな子がひとりで歩いていくのを見かけたような……」
男性の言葉を聞いた瞬間、女性は似顔絵を握りしめた。
そこに子供がいるという確証はない。
けれど、今の彼女には、わずかな可能性でも縋るしかなかった。
「ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます!」
女性は何度も頭を下げると、男性が指さした方向へ駆け出した。
(……待っていて。……今、迎えに行くから……。どうか、無事でいて……)
胸の中で何度も願いながら、女性は街を抜け、森へと向かった。
木々が生い茂る森の入り口に立つと、ひんやりとした風が頬を撫でた。
昼間だというのに、木々の向こうは薄暗い。
女性は一瞬だけ足を止めたが、すぐに顔を上げ、
「……あの子が、ここにいるかもしれない」
自分に言い聞かせるように呟き、森の中へと踏み出した。
落ち葉を踏みしめながら、女性は何度も子供の名前を呼んだ。
もちろん返事はない。
鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音だけが響いている。
どれほど歩いただろうか。
やがて、木々の隙間から古びた建物が姿を現した。
ステンドグラスのある、静かな教会。
以前、子供がこの辺りを歩いていたという話を、女性は思い出していた。
「……ここなの?」
女性は恐る恐る教会へ近づいた。
扉の前に立ち、深呼吸をひとつ。
そして、控えめに扉を叩いた。
しばらくすると、扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「はい。どなたでしょうか?」
そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。
シスターの服を身にまとい、穏やかな笑みを浮かべている。
「あら……お客様でしょうか?」
「あ、あの……!」
女性は慌てて頭を下げた。
「突然すみません!実は、子供が行方不明になってしまって……!この森に入っていくのを見たという方がいて、それで……!」
言葉がうまくまとまらない。
焦りと不安で、声が震えてしまう。
「そうだったのですね……」
シスターは女性の顔を見つめ、悲しそうに眉を下げた。
「それは、ご心配でしょう。お母様も、さぞおつらいでしょうね」
「……っ、はい……!」
その言葉を聞いた途端、女性の目に涙が浮かんだ。
誰かに気持ちを分かってもらえた。
それだけで、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。
「どうか、泣かないでください。よろしければ、中でお話を聞かせていただけませんか?」
シスターは優しく微笑み、教会の扉を大きく開いた。
「ここで何か分かるとは限りませんが……私にできることがあれば、お力になりたいのです」
「……ありがとうございます」
女性は深く頭を下げた。
藁にも縋る思いだった。
(この人なら、話を聞いてくれる……!)
「私はマリアと申します。どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます……。私は……」
女性が名乗ろうとすると、マリアは柔らかく首を振った。
「お名前は、落ち着いてからで構いませんよ。さあ、こちらへ」
マリアに促され、女性は教会の中へと足を踏み入れた。
扉の向こうには、色鮮やかなステンドグラスと、静かな祈りの空間が広がっていた。
「……綺麗な教会ですね」
「ありがとうございます。少しでも、心が安らぐ場所であればと思っております」
マリアは微笑みながら、女性を奥の部屋へと案内した。
「お茶をお淹れしますね。温かいものを飲みながら、ゆっくりお話ししましょう」
「……はい」
女性は小さく頷いた。
我が子の手掛かりが見つかるかもしれない。
今は、その可能性を信じたかった。
マリアは女性を椅子へ座らせると、慣れた手つきでお茶の準備を始めた。
カップに紅茶が注がれ、芳しい香りが、部屋いっぱいに広がった。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
女性はカップを両手で包み込んだ。
(……温かい……)
その温もりに、張り詰めていた心が少しだけ落ち着いていく。
「それで……お子さんは、いつ頃からいなくなってしまったのですか?」
マリアが優しく尋ね、
「数日前からです……。いつもは、あんなに元気なのに……急にいなくなってしまって……」
女性は俯き、声を詰まらせた。
「私が、もっとちゃんと見ていれば……」
「ご自分を責めないでください」
マリアは女性の手に、そっと自分の手を重ねた。
「お母様は、こうして一生懸命に探していらっしゃる。それだけで、お子さんを大切に思っていることは十分に伝わります」
「……マリアさん……」
「きっと、見つかりますよ」
マリアは微笑んだ。
その声は、どこまでも優しかった。
「ですから、今は少しだけ休んでくださいね」
女性は涙を拭い、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
窓から差し込む光が、ゆっくりと傾いていく。
教会の中では、穏やかな時間が流れていた。
母親は、子供の行方を知るためにここへ来た。
ただ、それだけだった。
マリアは優しく話を聞き、紅茶を淹れ、彼女の不安を受け止めた。
まるで、どこにでもいる親切なシスターのように。
やがて、教会の扉は静かに閉じられた。
その日を境に、母親の姿を見た者はいなかった。
街で子供を探し続けていた、そばかすの女性。
彼女もまた、行方不明になってしまったのだ。
子供を探しに行った母親が帰ってこない。
その事実に気づく者は、まだ誰もいなかった。
森の奥に佇む古い教会は、今日も静かだった。
ステンドグラスを通り抜けた光が、誰もいない椅子を照らしている。
そこには、何事もなかったかのように、穏やかな静寂だけが残されていた。




