第34話 神《デウス様》とマリア
「……それでは、昨日のお礼も兼ねて、改めてお邪魔いたしますわ」
リリアーヌさんが上品に頭を下げると、マリアさんは柔らかな笑みを浮かべた。
今日はただ、"お茶会"に来たわけではない。
「まあ、わざわざありがとうございます。皆さん、どうぞ中へ」
「お邪魔します!」
僕は元気よく返事をすると、教会の中へと足を踏み入れた。
その後ろからレオンが続き、最後にセドリックが静かに扉をくぐる。
昨日と同じ、色鮮やかなステンドグラスは、窓から差し込む光が床を照らし、教会の中を幻想的に彩っている。
「やっぱり、綺麗な教会だね」
「えぇ。何度見ても美しいですわね」
僕とリリアーヌさんは、思わず周囲を見渡しているが、レオンは教会の様子を注意深く観察している。
長い間、使われていなかったはずの教会。
それなのに、埃ひとつ目立たず、まるで毎日誰かが手入れをしているかのように整っている。
そして、ここに住んでいるというシスター。
マリアさんは一体、何者なのだろうか。
「皆さん、こちらへ。お茶を用意しますね」
マリアさんに案内され、一行は昨日と同じ部屋へと向かった。
ほどなくして、テーブルの上に紅茶と焼き菓子が並べられる。
「良かったら、お召し上がりください。今日は昨日とは違う茶葉を用意してみました」
「わぁ、ありがとうございます!」
僕は嬉しそうにカップを手に取り、立ち上る香りを楽しんでから、一口。
「ん〜!美味しい!」
「ふふっ。お気に召したようで何よりです」
マリアさんは優しく微笑んだ。
隣ではリリアーヌさんも紅茶を口に運んでいる。
「こちらも、とても美味しいですわ。やはりマリアさんは紅茶にお詳しいのですね」
「いいえ。私も、まだまだ勉強中ですよ」
「そんなことありませんわ!昨日のお茶も、本当に美味しくて……」
そこまで言って、リリアーヌさんは少しだけ頬を緩めた。
昨日、ひとりで訪れたときのことを思い出したのだろう。
マリアもそれに気づいたのか、楽しそうに目を細めると、リリアーヌさんの尻尾が、ぴょこんと跳ねる。
「お嬢様。尻尾が揺れておりますよ」
「セドリック!余計なことを言わなくてよろしいですわ!」
いつもどおりの主従のやり取りに、僕は思わず笑みをこぼした。
レオンは小さく息を吐き、カップを置く。
今だけは、穏やかな時間だった。
けれど――、
「……さて」
レオンが静かに口を開いた。
「マリアさん。今日は、少しお聞きしたいことがある」
その言葉に、自然と僕は背筋を伸ばした。
今日は、ただお茶を楽しみに来たわけではない。
この場所にひとりで暮らすマリアさんの存在。
それらを確かめるために、ここへ来たのだ。
「ええ。私に答えられることでしたら、何でもどうぞ」
マリアさんはカップを置き、穏やかな表情で彼らを見つめた。
「どうして、マリアさんはこの教会に住んでいるんですか?」
僕が尋ねると、
「この教会は長い間使われていなかったと聞きました。管理する人もいないはずなのに、マリアさんがここにいるのが不思議で……」
「なるほど……」
マリアさんは少し考えるように、視線を落とした。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「困っている人々を助けたいから、でしょうか」
「困っている人々を……?」
「はい。私自身、かつて神に助けていただいたことがあるのです」
その名前を口にするとき、マリアさんの声はどこか大切なものを語るように柔らかくなった。
「だから今度は、私が誰かを助けたい。そう思って、この場所にいるのです」
「……デウス様、ですか」
僕が聞き返すと、
「ええ。私にとって、とても大切なお方です」
マリアさんは微笑んだ。
その表情には、嘘をついているような不自然さはない。
むしろ、本当にその人物を敬愛しているように見えた。
「では、普段はどんなことをしていらっしゃるのですか?」
今度はレオンが尋ねた。
「毎日、神にお祈りをしています。それから、私を訪ねてくださる方々に聖書を読んだり、お話をしたりしていますね」
「ここに、ほかの人も来るんですか?」
「はい。時々ですが」
「どんな人が来るんですか?」
レオンは質問を重ねると、マリアさんは困ったように微笑んだ。
「いろいろな方ですよ。悩みを抱えている方もいれば、ただお話をしに来る方もいます。皆さん、それぞれ事情がありますから」
「そうなんですね……」
僕は納得したように頷いた。
困っている人を助けたい。
その気持ち自体は、決して不自然なものではない。
むしろ、優しい人なのだろう。
実際、昨日から今日にかけて、マリアさんは彼らを丁寧にもてなしてくれている。
それでも、レオンの疑問は消えなかった。
なぜ、この教会なのか。
なぜ、学園長の友人が管理していた森に住んでいるのか。
そして――デウス様とは、一体何者なのか。
「その、デウス様という方は……どんな人なんですか?」
僕が尋ねた、そのときだった。
教会の扉を叩く音が響き、
「あら……。お客様でしょうか」
マリアは席を立った。
「少し失礼しますね」
残された四人は、顔を見合わせ、
「……本当に、訪ねてくる人がいるんだな」
レオンが小さく呟く。
「マリアさんは、困っている人を助けているんだよね。だったら、誰かが相談に来てもおかしくないよ」
「それはそうだが……。だからこそ、余計に気になるんだ。ここに来る人間が、何を求めているのか」
「レオン。あまり疑いすぎるのも失礼ですわよ」
リリアーヌさんがたしなめたが、
「疑うのと、確かめるのは違うだろ」
「それは……そうですけれど」
少しだけ口を尖らせた。
マリアさんは優しい人だ。
それは、彼女自身がよく分かっている。
だからこそ、レオンが必要以上に疑っているように感じられた。
やがて、廊下から小さな足音が聞こえてきて、
「どうぞ、こちらへ」
マリアさんの声に続いて、ひとりの子供が部屋へ入ってくる。
年齢は、ルカたちよりもずっと幼い。
その子供は、部屋にいる四人を見て少し驚いたようだったが、すぐにマリアさんのそばへ駆け寄った。
「マリア様!」
「こんにちは。今日も来てくれたのですね」
マリアさんは子供の目線に合わせて、優しく微笑んだ。
「うん!」
子供は嬉しそうに頷き、
「ねえ、マリア様。今日もデウス様のお話、してくれる?」
「ええ、もちろんですよ」
「本当!?やったぁ!」
顔が、ぱっと明るくなる。
その無邪気な笑顔に、僕も自然と頬を緩めた。
「デウス様って、そんなにすごい人なの?」
僕が尋ねると、子供は勢いよく振り返った。
「すごいよ!とってもすごい人なんだよ!」
「へぇ……」
「ぼく、デウス様に会いたいんだ!」
子供は胸の前で、ぎゅっと両手を握った。
「デウス様に会いたい!褒めてもらいたい!」
その声には、純粋な憧れが込められていた。
まるで、大好きな人に会える日を心待ちにしているかのように。
「……そっか。そんなに会いたいんだね」
僕は優しく頷き、
「うん!ぼく、もっと頑張るんだ!」
「ふふっ。偉いですね」
マリアさんは子供の頭をそっと撫でた。
「でも、デウス様は特別なお方なのです。誰でも簡単にお会いできるわけではありません」
「……そうなの?」
子供の顔に、わずかな寂しさが浮かぶ。
「ええ。特別な方だけが、お会いできるのですよ」
「マリア様は?」
「私も……一度だけ、お会いしたことがあります」
「あるんですか!?」
子供は目を丸くし、
「だから、ぼくもいつか会えるかな?」
マリアさんは少しだけ考えるように微笑んだ。
「それは、デウス様がお決めになることでしょうね」
「そっか……!」
子供はすぐに顔を明るくして、
「じゃあ、ぼく、もっと頑張る!」
「ええ。きっと、デウス様もあなたの頑張りを見てくださっていますよ」
「うん!」
嬉しそうに頷いた。
その姿を見つめながら、リリアーヌさんも微笑んでいた。
「素敵なお話ですわね。誰かに認めてもらいたいという気持ちは、わたくしにも分かりますもの」
「そうだね。僕も分かるなぁ」
誰かに褒めてもらいたい。
誰かに認めてもらいたい。
そう願うことは、決しておかしなことではない。
けれど.
「……デウス様、か」
レオンだけは、静かにその名を繰り返していた。
マリアさん自身も一度しか会ったことがないという人物。
それなのに、教会を訪れる子供は、まるでその人物をよく知っているかのように憧れている。
その熱意は、どこから生まれているのだろうか。
「……レオン?」
僕が声をかけると、レオンは顔を上げた。
「いや。何でもない」
そう言いながらも、彼の視線は子供とマリアさんから離れなかった。
やがて、子供はマリアさんにお礼を言い、帰っていった。
「また来てくださいね」
「うん!またね、マリア様!」
小さな背中が遠ざかり、教会の扉が静かに閉じられる。
マリアさんはその姿を見送ってから、僕たちのいる部屋へ戻ってきた。
「お待たせしました」
「いえ、大丈夫です!」
僕が笑顔で答えると、
「さっきの子、デウス様に会えるといいですね」
「……そうですね」
マリアさんは優しく微笑んだ。
その微笑みは、先ほどまでと何ひとつ変わらない。
穏やかで、慈愛に満ちていて、誰が見ても、優しいシスターそのものだった。
結局、その後も僕らは紅茶を飲みながら話を続けた。
マリアさんは終始穏やかで、質問にも丁寧に答えてくれた。
しかし、デウス様については、それ以上詳しいことを聞き出すことはできなかった。
教会を出る頃には、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。
「……結局、今日も大きな収穫はなかったな」
「でも、マリアさんがどうしてここにいるのかは分かったよ。困っている人を助けたいんだって」
「それは本人の言葉だ。実際のところは、まだ分からない」
「レオン。あなたは本当に慎重ですわね」
「慎重で悪いか?」
「いいえ。悪いとは言っていませんわ」
リリアーヌさんは少しだけ笑い、
「ただ……マリアさんが悪い人だとは、わたくしには思えませんの」
「……そうか」
レオンはそれ以上、何も言わなかった。
セドリックもまた、黙って主人の隣を歩いていた。
僕は、ふと教会を振り返る。
綺麗な教会に、優しいシスター。
そして、デウス様という謎の人物。
今日もまた、分からないことが増えてしまった。
けれど、ひとつだけ気になることがある。
あの子供は、どうしてあんなにもデウス様に会いたがっていたのだろう。
褒めてもらいたい。
その願いは、どこまでも純粋に聞こえた。
だからこそ、僕はまだ知らない。
その小さな願いの奥に、どんな秘密が隠されているのかを。
そして――、マリアが語った「一度だけ会った」という言葉が、これから僕らをどこへ導いていくのかも。
夕暮れの森に、ひぐらしの声が響く。
四人の背中を見送るように、教会の扉は静かに閉じられた。




