【未来監査】毛利輝元に突きつける「倒産予定日」の決算書
「現代の合理主義」と「戦国武将の情熱・矜持」の融合による、運命(史実)への反逆。
家や血筋といった過去の呪縛を断ち切り、自らの手で新しい時代(未来)を創り出す群像劇。
本丸の奥深く、総大将の私室は、大広間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
床の間に飾られた名品の青磁の香炉からは、白檀の香煙が細くたなびいている。欄間に施された精緻な透かし彫りを通し、初夏の日差しが畳の上に幾何学的な影を落としていた。
毛利輝元は、上座に力なく腰を下ろした。
百二十万石を統べる西国の覇者という肩書きには到底そぐわない、ひどく老け込んだ横顔だった。主君を護衛するように、室外の廊下には数名の近習が控えている気配がある。だが、室内には輝元と、神波亮介、そして背後に控える朔の三人だけであった。
「……わしは、戦が嫌いじゃ」
長い沈黙を破り、輝元がポツリとこぼした。
絞り出すような、乾いた声だった。
「戦えば、人が死ぬ。血が流れる。わしが一声下知を飛ばせば、何千、何万という家臣や領民が命を落とす。それが恐ろしいのだ」
輝元は、己の震える両手を見つめながら自嘲の笑みを浮かべた。
「皆はわしに、偉大なる祖父・元就の面影を求める。だが、わしにはあの御仁のような苛烈な才も、冷徹な決断力もない。広家が『戦わずに御家が安泰ならばそれに越したことはない』と申すのを聞いて、正直なところ、安堵したのだ。……わしは、大将の器ではない」
天下を分けるかもしれない大戦を前にした、西軍総大将のあまりにも弱気な独白。
普通ならば、恐れ多くて平伏するか、あるいは「御屋形様、ご乱心を」と取り繕う場面である。
だが、亮介は畳の上に胡座をかいたまま、全く表情を崩さなかった。
「ええ、知っていますよ」
氷のように冷たく、無機質な声が茶室に響いた。
「あなたが天下取りに何の関心も抱いていない凡人であることは、外から見ていれば十分にわかります。だからこそ、吉川広家殿の『恭順という名の思考停止』に逃げ込もうとした」
「……何と」
輝元の肩がビクリと跳ねた。痛いところを容赦なくえぐられた男の、怯えたような目が亮介を見る。
「ですが、輝元殿。あなたが戦を避け、血を流すことを拒んだ結果、毛利家がどうなるか……その『確実な未来』を計算したことはありますか?」
亮介は懐から、分厚く折り畳まれた鳥の子紙を取り出した。
先ほど大広間で広家に突きつけた密書の写しとは違う。亮介自身が昨夜、宿の行灯の薄明かりの下で、毛利家の財務情報と己の歴史知識を照らし合わせて書き上げたものだ。
「ご覧ください。これが、戦わずに内府(家康)様に頭を下げた場合の、数年後の毛利家の『決算予想図』です」
亮介は、その和紙を輝元の目の前に広げた。
墨と朱で書き込まれた、無数の数字と地名。
「まず、領地です。内府様は、謀反の首謀者として毛利本家を取り潰すことこそ免除するでしょうが、安芸、備後、出雲、伯耆など豊かな国々は全て没収されます。残されるのは、周防と長門の二州のみ」
「な……防防の二州じゃと? それでは……」
「ええ、石高は百二十万石から、およそ三十万石以下へと激減します。売り上げが四分の一に減るわけだ」
亮介の指が、和紙の上に引かれた残酷な下降線をなぞる。
「では、収入が四分の一になったらどうなるか。当然、今まで抱えていた家臣たちを養っていくことは不可能です。毛利家は、大規模な『家臣の解雇』を断行せざるを得なくなる」
輝元の顔から、さっと血の気が引いた。
呼吸が浅くなり、小刻みに手が震え始めている。
「代々毛利に仕えてきた誇り高き武士たちは、突然禄を失い、路頭に迷う。家族を食わせるために刀を捨てて泥をすするか、野盗に落ちぶれるか。……それでも養いきれない分は、どうしますか?」
亮介は、容赦なく言葉の刃を突き立てる。
「残された領地から、限界まで年貢を搾り取るしかない。防長二州の領民たちは、過酷な重税に喘ぎ、飢え、泥水をすすることになる。さらに内府様は、あなた方をこの豊かな広島から追い出し、日本海に面した辺境の寒村……『萩』あたりに城を築いて逼塞するよう命じるでしょう」
香炉の煙が、一瞬だけ形を変えて立ち昇った。
輝元の見開かれた目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「わ、わしは……わしはただ、家臣たちを死なせたくなかっただけなのじゃ……。血を流さずに、このままの暮らしが続くものだと……」
「戦わずに守った結果が、これですよ」
亮介の声には、軽蔑も同情もなかった。ただ、冷厳な事実を提示する仕事人としての響きだけがあった。
「あなたが決断を先送りし、広家殿の甘い観測に逃げ込んだ代償は、毛利家に仕える数万の人間とその家族が、何世代にもわたって地獄の苦しみを味わうという形で支払われるのです。……戦場で死ぬよりも、はるかに惨たらしい死の行軍です」
「やめよ……もう、やめてくれ……!」
輝元は両手で顔を覆い、畳に突っ伏した。
百二十万石の太守が、一人の浪人の前で子どものように嗚咽を漏らしている。
その背中は、あまりにも小さく、ひ弱に見えた。
朔が、見かねて亮介の袖を軽く引いた。
(言い過ぎではないか)という、無言の抗議。
だが、亮介は首を振った。ここで甘やかせば、この巨大な象は二度と立ち上がることはない。完全に絶望の底に突き落としてからでなければ、本物の『覚悟』は生まれないのだ。
「輝元殿」
亮介は、先ほどまでの冷たい口調をわずかに緩め、静かに語りかけた。
「戦えば、確かに血は流れる。勝てる保証なんてどこにもない。だが、戦わなければ、そこに待っているのは『確実な破滅(倒産)』です。……死を免れないのであれば、せめて立って戦うべきではないですか?」
輝元の嗚咽が、わずかに弱まる。
「あんたは、偉大な祖父・元就公の幻影に苦しんできた。天才にはなれないと、自分を卑下してきた。……いいんですよ、天才になんてならなくて」
亮介は、畳の上に置かれた輝元の震える手に、そっと自分の手を重ねた。
冷え切った、分厚い手だった。
「あんたは元就公にはなれない。だが、この毛利という巨大な『家族』を守るための、『父親』にはなれるはずだ。家族が理不尽に家を奪われ、飢えさせられようとしている時、父親がすべきことはただ一つでしょう」
輝元が、ゆっくりと顔を上げた。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだったが、その瞳の奥には、先ほどまでの虚ろな色とは違う、小さな火種のようなものが灯り始めていた。
「わしは……父親、か」
「ええ。子供たち(家臣と領民)のために、泥をかぶり、血にまみれる覚悟を決めてください。……そうすれば、俺が持てる全ての知恵と算盤を駆使して、内府の首をあんたの前に転がして見せますよ」
亮介はニヤリと笑い、自らの胸を親指で叩いた。
静寂が、再び私室を包み込んだ。
初夏の日差しが、庭の青葉を鮮やかに照らし出している。
輝元は、亮介が突きつけた『決算予想図』をじっと見つめていた。
そこには、座して死を待った場合の、救いようのない絶望が数字として羅列されている。
「……広家は、この事実を知らぬのだな」
輝元が、掠れた声で呟いた。
「ええ。彼は彼なりに、毛利を守ろうとして必死なだけです。だが、その視座は『今』にとらわれすぎていて、『未来』を見ていない」
「わしが、広家の描く幻を打ち砕かねばならんということか……」
輝元は、震える手で和紙を握りしめ、そして、ゆっくりと立ち上がった。
その背中は、先ほどまでの小さく縮こまったものではなかった。
決断の重圧を受け入れ、自らの意志で立ち上がった男の、不格好だが力強い立ち姿であった。
「亮介、と申したな」
「はい」
「お主の申す通りじゃ。わしは、毛利の当主。この家の親として、子らを守らねばならん。……内府の思い通りには、断じてさせぬ」
輝元の声には、明確な覇気が宿っていた。
だが、輝元はふと表情を曇らせ、再び座り込んだ。
「……とはいえ、大広間には広家の息のかかった者たちが大勢おる。長年、毛利の屋台骨を支えてきた広家の功績は重い。わしの一存で『徳川と戦う』と宣っても、奴が猛反発すれば、家中が真っ二つに割れてしまうやもしれん」
自分の権力基盤の弱さを、輝元自身が一番よく理解していた。
ここで家中が分裂すれば、決戦の地へ向かう前に毛利家は内部崩壊してしまう。
「わしには……広家を説き伏せ、家中を一つにまとめるだけの力(言葉)がないのじゃ……」
再び弱音を吐きそうになる輝元に対し、亮介はフッと息を吐き、悪戯っ子のように片目を瞑った。
「心配ご無用。会議の根回しと、反対派の説得なんてものは、俺たちコンサルタントの基本業務ですからね」
亮介は立ち上がり、着物の砂を払った。
「輝元殿は、当主としてドンと構えていてくださればいい。広家殿が折れざるを得ないような、究極の『舞台装置』を用意して、俺があんたの背中を押してやりますよ」
西国の巨大な象が、ついに覚醒の時を迎えようとしていた。
明日の大広間は、毛利家の歴史を塗り替える、最大の修羅場となる。
亮介の瞳の奥で、現代の冷徹な知性が、戦国の情念を焼き尽くすための業火となって静かに燃え上がっていた。




