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慶長の雷鳴 〜日輪を継ぐ者たち〜  作者: 暁野 標
第2章:安芸の憂鬱

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【密約暴露】吉川広家の「徳川絶対安全神話」を論破せよ

 張り詰めた空気が、広島城本丸の大広間を支配していた。

 真新しい青畳の匂いと、居並ぶ重臣たちが纏う直垂ひたたれの擦れる衣擦れの音。そして、腹の底に響くような野太い声だけが、朝の冷たい空気を震わせている。

「――もはや、豊家の命運は尽きておる。皆も薄々とは気づいておろう」

 上座近くで熱弁を振るうのは、吉川広家である。

 毛利両川の片翼を担う吉川家の当主らしく、その顔立ちは岩のように厳めしく、意志の強さが全身から滲み出ていた。

「上方で治部(三成)殿が兵を挙げようと、天下の帰趨きすうは既に東の内府(家康)公にある。今、治部殿の甘言に乗って大坂へ下れば、毛利は天下の孤児となり、内府公の大軍勢に蹂躙されるのみ!」

 広家は拳を固め、居並ぶ老臣たちを力強い眼光で見回した。

「今は耐える時じゃ。内府公に恩を売り、毛利百二十万石の家名と、この安芸の地を死守する。それこそが、偉大なる元就公より受け継いだ我らの責務。これぞ、まことの忠義というものであろう!」

 広家の言葉には、確かな重みと説得力があった。

 狂信的な理想ではなく、泥を啜ってでも御家を存続させるという現実主義リアリズム。歴戦の老将たちも、広家の悲痛なまでの熱弁に深く頷き、広間は「徳川への恭順」という一つの方向へ固まりつつあった。

 その、重苦しくも厳粛な静寂を。

「……ふわぁあ。やれやれ」

 場違い極まりない、大きな欠伸あくびの音が引き裂いた。

「随分とまあ、退屈なプレゼンだな。結論が『座して死を待つ』しかないじゃないか」

 広間の最後尾、下座の隅から発せられたその声に、全員の視線が一斉に集中した。

 安国寺恵瓊の手引きによって、末席に紛れ込んでいた神波亮介である。背後には小姓姿に扮した朔が、能面のような無表情で控えている。

「何者だ、貴様は!」

 広家が激怒の形相で振り返った。

 名もなき浪人風情が、毛利家の最高意思決定の場である評定を愚弄したのだ。居並ぶ武将たちの手が、一斉に腰の刀の柄へと伸びる。

「控えられよ、広家殿」

 恵瓊がすかさず進み出た。

「その者は、黒田如水殿より遣わされた使者。此度の天下の動乱について、有益な知らせを持参したと申すゆえ、某の一存で同席させたのじゃ」

「黒田の古狸の使いじゃと……?」

 広家の目が細められる。如水という名がもたらす警戒感は、西国においても絶大であった。

「黒田の使い、神波亮介。少しばかり算盤を弾くのが得意な浪人です」

 亮介は立ち上がり、ゆっくりと広間の中央へと進み出た。

 周囲から突き刺さる無数の殺気を意に介する様子もなく、涼しい顔で広家と対峙する。

「毛利の重鎮たる広家殿の事業計画プランがあまりにも杜撰ずさんで、穴だらけだったのでね。見かねて口を挟ませてもらいました」

「杜撰じゃと? 貴様、言葉を慎まねばその首を刎ねるぞ」

 広家の怒気を含んだ声が響く。だが、亮介は肩をすくめただけだった。

「広家殿は、内府様と内々に話がついているとお考えのようだ。『戦わずに味方になれば、本領は安泰である』と。……おそらく、黒田長政殿あたりを通じて、起請文きしょうもんを交わす手筈でも整っているのでしょうな」

 図星を突かれ、広家の表情が微かに強張った。

 その反応を見逃さず、亮介は畳み掛ける。

「だが、その起請文……いや、契約書の法務確認リーガルチェックは済んでいるのですか?」

「けいやく、りーがる……? 何を妙な言葉を並べ立てる」

「分かりやすく言いましょう」

 亮介は懐から一本の白扇を取り出し、パチンと鳴らした。

「内府様は確かに『毛利の領地を安堵する』と仰ったかもしれない。だが、その書状には『誰に』安堵するのか、明確に記されていますか?」

「な……」

「総大将である毛利輝元殿の御身を保証する、という一文は入っているのか、と聞いているのです」

 広間の空気が、冷水を浴びせられたように凍りついた。

 広家の喉仏が上下に動く。

 契約の抜け穴。現代のビジネスにおいては常套手段だが、この時代の武将たちにとっては「神仏に誓う起請文」の文面をそこまで悪意を持って疑う発想は乏しい。

「例え話をしましょう」

 亮介は扇子の先で、広家の胸元をピタリと指した。

「治部殿に担がれて西軍の総大将となった本家の毛利輝元殿は、戦の後、内府様に『反逆の首謀者』として取り潰される。そして、内通してくれた功労者であるあなた……吉川広家殿にだけ、恩賞として防防(周防・長門)の二州が与えられる。結果として『毛利という家名』は残る。……これでも、内府様の約束は果たされたことになりますね?」

「阿呆なことを申すな!!」

 広家の怒声が大広間を震わせた。

 顔を朱に染め、額に青筋を浮かべて亮介を睨みつける。

「某が、己の欲のために本家を売るなどと申すか! そのような汚き真似、天地神明に誓って……」

「あなたがどう思っているかは関係ない。相手(内府)がどう利用するか、ですよ」

 亮介の冷徹な声が、広家の叫びを容易く切り捨てた。

「神仏の誓いなんてものは、戦国の世じゃ土壇場で反故ほごにするための前振りにすぎない。そんな口約束を信じて、巨大な身代しんだいの命運を預けるなんて、経営者としては三流もいいところだ」

 亮介は懐から、一通の折り畳まれた書状を取り出した。

 如水の配下が畿内で手に入れた、徳川の腹心・本多正信から吉川陣営の何者かへ宛てた密書の写しである。内容は毛利内部の切り崩しを匂わす、極めてきな臭いものだった。

 それを、亮介は広家の足元へと放り投げた。

 カサッ、と乾いた音を立てて和紙が畳を滑る。

「家康にとって、中国路を塞ぐ百二十万石の巨大企業(毛利)は邪魔なだけなんだ。戦おうが戦うまいが、あのお狸様は毛利を分割セグメントして、確実に削り取る気満々なんですよ。……戦わずに恭順すれば生き残れるなんて、虫の良すぎる『安全神話』だ」

 広家は震える手でその書状を拾い上げ、視線を落とした。

 文字を追うごとに、その血の気の多かった顔からスッと赤みが引き、蒼白になっていく。

 家康の狙いは、最初から毛利本家の弱体化である。

 己が必死に奔走し、毛利を救おうと結んだはずの密約が、実は本家を滅ぼすための罠であったかもしれないという恐るべき可能性。

 その事実を、どこの馬の骨とも知れぬ浪人に、これほど大勢の家臣の前で白日の下に晒されたのだ。

「……き、貴様ぁ……ッ!」

 己の信じていた現実主義が崩れ去る恐怖と、それを無惨に暴かれた屈辱。

 限界に達した広家が、獣のような咆哮を上げて立ち上がった。

 ギリッ、と腰の太刀の鯉口が鳴る。

 殺意の塊となった広家が、亮介に向けて抜き打ちを見舞おうとした、その瞬間だった。

 亮介の背後にいた朔が、瞬きすら許さぬ速度で前に出ようと身を沈める。

 だが、刃が交わるよりも早く。

「――控えよ、広家」

 大広間の奥、上座の襖が静かに開かれ、低く、掠れた声が響き渡った。

 決して声高ではないが、その一言で、広間を満たしていた殺気も、喧騒も、一瞬にして凍りついたように静まった。

 広家が、弾かれたようにその場に平伏する。

 恵瓊も、居並ぶ重臣たちも、皆一様に畳に額を擦り付けた。

 亮介だけが、立ち尽くしたまま、声の主を見据えた。

 そこには、豪奢な装束に身を包みながらも、ひどく疲労の色を濃くした初老の男が立っていた。

 肩は落ち、瞳には覇気の一片すら見当たらない。天下の情勢に翻弄され、決断の重圧に押し潰されようとしている男。

 西国一の大太守。

 毛利家当主、毛利輝元であった。

「……客人よ」

 輝元は、虚ろな、だがどこか縋るような視線を亮介に向けた。

「お主の申すこと、奥で聞いておった。……わしの部屋へ参れ。詳しい話が、聞きたい」

 巨大なる象が、ついに重い腰を上げようとしていた。

 亮介は落ちた扇子を拾い上げ、冷ややかに、しかし確かな手応えを感じながら、深く一礼した。


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