【安芸入国】西国の雄は「優柔不断」の病に臥せっていた
「現代の合理主義」と「戦国武将の情熱・矜持」の融合による、運命(史実)への反逆。
家や血筋といった過去の呪縛を断ち切り、自らの手で新しい時代(未来)を創り出す群像劇。
瀬戸の海を滑るように進んできた黒漆塗りの船体が、安芸国・草津湊の桟橋に静かに横付けされた。
初夏の陽射しが波頭をきらきらと反射し、潮の香りと共に、干魚や海草の乾いた匂いが鼻腔をくすぐる。
当時の広島湾において水運の要衝であるこの湊には、上方へ向かう荷船や、毛利水軍の小早舟が所狭しとひしめいていた。だが、三本の太い帆柱を備え、南蛮船の意匠を取り入れた『黒龍丸』の異様な威容に、周囲の船乗りたちは畏怖の念を抱いたように道を開けた。
「……随分と、湿気たツラをしてやがるな」
神波亮介は、甲板の船縁に寄りかかりながら、眼下に広がる港町の情景を見下ろした。
荷揚げ人足たちの掛け声はどこか虚ろで、立ち並ぶ問屋の軒先で算盤を弾く商人たちの顔には、一様に濃い影が落ちている。
すれ違う者同士が、周囲を憚るように声を潜め、不安げな視線を東の上方――そして、背後にそびえる毛利の居城へと向けていた。
「人がこれほど集まっているというのに、活気がない。……まるで、巨大商会の『倒産前夜』だな」
亮介の呟きに、背後で腕を組んでいた朔が、怪訝そうに秀麗な眉を寄せた。
「倒産? 何を馬鹿なことを。毛利といえば中国百二十万石を束ねる西国一の大太守だぞ。潰れるわけがなかろう」
「図体がデカいからこそ、一度傾き始めれば自重で崩れ落ちるんだよ」
亮介は、ポンと手すりを叩いた。
「見てみろ、あの荷下ろしの様子を。大店の番頭らしき男が、受け取りの証文を書くのを渋っている。毛利の手形に対する信用が、市井の端々で暴落し始めている証拠だ。……トップが迷走すれば、その不安は末端の経済にまで直結する」
毛利家当主・毛利輝元。
偉大なる祖父・元就の遺産を受け継いだ男だが、その優柔不断な気性は天下に知れ渡っている。徳川家康が会津へ向け出兵した今、上方で不穏な動きを見せる石田三成に呼応するのか、それとも徳川に恭順するのか。
旗幟を鮮明にしない巨大組織の沈黙が、領民たちの首を真綿で絞めるように不安を煽っていた。
「行くぞ、朔。……まずは、内部の者から現状の聞き取り(ヒアリング)だ」
亮介は、懐に黒田如水から預かった書状が入っていることを確認し、渡り板を踏んで草津の土を踏みしめた。
◇
太田川の支流がゆったりと流れる広島城下。
その川の畔にひっそりと佇む古刹の奥まった茶室で、その男は待っていた。
安国寺恵瓊。
毛利家の外交を一手に担い、かつては太閤秀吉の側近としても暗躍した怪僧である。
墨染めの僧衣を纏ってはいるが、爛々と光るその眼窩の奥には、俗世の権力欲と底知れぬ野心がギラギラと煮えたぎっていた。
「――よう参られた、如水殿の使いの方。お待ち申しておりましたぞ」
恵瓊は、脂ぎった顔に愛想のよい笑みを張り付け、亮介へと茶を勧めた。
その視線が、亮介の背後に無言で控える男装の剣士・朔を鋭く値踏みするのを、亮介は見逃さなかった。
「単刀直入に伺います、恵瓊殿。……なぜ、毛利は動かない?」
出された茶には口をつけず、亮介は直截に本題を切り出した。
恵瓊の顔から笑みが消え、苦々しい皺が深く刻まれる。
「……動けぬのよ。あの男が、我らの行く手を塞いでおる」
「吉川広家殿、ですね」
亮介がその名を口にすると、恵瓊は忌々しげに舌打ちをした。
「左様。元春公の御嫡男にして、毛利両川の一翼を担う岩国領主。奴め、御屋形様(輝元)が治部(三成)殿の誘いに乗って大坂へ向かおうとするのを、全力で押し留めておるのだ」
「太閤殿下の御恩は忘れてはおらぬが、内府(家康)殿の武威に逆らえば御家が滅ぶ……といったところですか」
「いかにも。『勝てぬ戦をして毛利の家名を絶やしては、地下の元就公に顔向けできぬ』とな。……奴がそう正論を吐くたびに、輝元様は迷い、貝のように口を閉ざされてしまう」
恵瓊は苛立たしげに、自らの数珠をじゃらじゃらと揉みしだいた。
「正論、ですか」
亮介は鼻で短く笑い、懐から扇子を取り出して手の中で弄んだ。
「その『正論』が、毛利という巨大な屋台骨を内部から腐らせているとも知らずに」
「……何だと? それはどういう意味じゃ」
「恵瓊殿。如水殿からの書状にあった通り、用意してありますね。毛利家の『帳簿』……年貢の収支と、経費の内訳が記された財務諸表を」
恵瓊は怪訝な顔をしながらも、畳の横に積まれていた数冊の和綴じの帳面を亮介の前へ押しやった。
亮介はそれを手に取ると、凄まじい速度で頁を捲り始めた。
茶室に、紙の擦れる乾いた音だけが響く。
朔が「また始まった」と呆れたように壁際へ寄りかかる中、亮介の目は、墨で記された膨大な数字の羅列を、現代の公認会計士の頭脳を用いて瞬時に分解し、再構築していく。
年貢の上がり、家臣たちへの莫大な禄、そして……。
「……なるほど。予想はしていましたが、ここまで酷いとは」
ほんの四半刻(約三十分)ほどで帳面を閉じた亮介は、深く息を吐き出した。
「酷いとは、何がじゃ。毛利の倉には、いざという時のための金銀が山と積まれておるぞ」
「確かに資産は巨大だ。だが、お金の回り方が完全に死んでいる」
亮介は帳面の一つの項目を指で叩いた。
「典型的な『大企業病』だ。図体がデカくなりすぎたせいで、維持費だけで首が回らなくなっている。見てください、この広島城をはじめとする領内の支城の改修費。さらに、戦もないのに代々の重臣たちを食わせるためだけに設けられた、無駄な役職と莫大な手当」
「……」
「百二十万石の収入に対して、支出が肥大化しすぎている。現状維持を続けるだけで、いずれ遠からず毛利の財政はパンク(破綻)しますよ」
亮介の冷徹な分析に、恵瓊はあんぐりと口を開けた。
諸大名との外交交渉の裏を掻くことには長けているこの怪僧も、自家の懐具合をこれほど残酷に数字で突きつけられたことはなかったのだ。
「広家殿の言う『御家の安泰』なんてものは、砂上の楼閣だ。家康と戦うのを避けたところで、このままいけば毛利は数年後に自壊する。……戦うか否かという以前に、組織の構造が時代遅れなんですよ」
亮介は立ち上がり、恵瓊を真っ直ぐに見下ろした。
「輝元殿に直接お会いしたい。俺が、根本的な解決策をプレゼンします」
「し、しかし……」
恵瓊は額に脂汗を浮かべ、狼狽した。
「城内は今、広家様の息のかかった重臣たちで溢れ返っておる。どこの馬の骨とも知れぬ浪人が上がり込めば、即座に斬り捨てられるぞ」
その警告に対し、亮介はニヤリと笑い、背後で静かに佇む少年剣士を親指で指し示した。
「ご心配なく。ウチには、最高品質の『防犯装置』がついていますから」
◇
恵瓊の寺を辞し、太田川に沿って広島城の威容を遠目に望みながら歩く道すがら。
日は西に傾き、川面を撫でる風が微かに冷気を帯び始めていた。
柳の木々が風に揺れ、ざわざわと葉鳴りの音を立てる。
だが、その自然の音に混じって、全く別の質の「気配」が忍び寄ってきているのを、亮介は肌で感じ取っていた。
「……主、囲まれたぞ」
朔が、歩みを止めずに低い声で告げた。
すれ違う町人や、道端で休む行商人。一見すると長閑な夕暮れの風景だが、彼らの足運びには一切の無駄がなく、視線は不自然なほど亮介たちに固定されている。
(鉢屋衆……吉川広家が抱える草の者か)
恵瓊と接触したことは、既に広家の耳に入っている。これは明確な『警告』だ。これ以上、毛利家の内部に立ち入るなら、ここで消すという。
「どうする? 太刀を抜くか?」
「いや、こっちから手を出すな。……向こうが『挨拶』してくるまで待て」
亮介の言葉が終わるか終わらないかの刹那。
ヒュッ!
柳の陰から、そしてすれ違いざまの編笠の男の袖口から、四つの黒い影が音もなく放たれた。
必殺の手裏剣が、亮介の首筋と心臓を正確に狙って飛来する。
「――愚鈍」
銀の閃光が、亮介の視界を斜めに切り裂いた。
朔である。
いつの間に抜刀したのか。彼女の白練りの小袖が翻ったかと思うと、チィィン!という甲高い金属音が連続して響き、四つの手裏剣が全て弾き落とされた。
「なっ……!?」
暗殺者たちが驚愕に目を剥く。
その隙を、朔の神速の剣技が見逃すはずもなかった。
「遅い」
踏み込み一足。
水面を滑るような歩法で間合いを詰めた朔の太刀が、編笠の男の胴を薙ぎ払う。
だが、刃を返す寸前で峰打ちへと切り替えられており、ドゴッ!という鈍い骨の軋む音と共に、男が川の土手へと吹き飛んだ。
さらに二人、三人。
朔は踊るように刃を振るう。人を殺めることを極力避ける彼女の剣は、それでも相手の急所を的確に打ち据え、戦闘能力だけを完全に奪い去っていく。
その所作は、血生臭い戦闘というよりも、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた舞のようであった。
ほんの数瞬の後。
土手の上には、苦悶の呻き声を上げて這いつくばる男たちが転がっていた。
「……へえ。口だけじゃなかったんだな」
亮介が感心して口笛を吹くと、最後の一人を容赦なく川へ蹴り落とした朔が、乱れた前髪を払って振り返った。
その白い頬にはうっすらと朱が差し、微かに息を弾ませている。
「お前こそ、少しは怯えたらどうだ。突っ立っているだけで……」
「俺は信じてるからな。お前の剣の腕と、俺の悪運の強さを」
亮介の軽口に、朔はふいと顔を背けた。
その耳の端が僅かに赤らんでいるのを、亮介は見逃さなかった。
「……調子のいい男だ」
太刀を鞘に納めるチャキ、という音が夕暮れの空に響く。
襲撃は退けた。だが、これは吉川広家からの『交渉決裂』の合図に他ならない。
亮介は、夕陽を浴びて黒々としたシルエットを浮かび上がらせる広島城の天守を見上げた。
「帰るわけにはいかねえよ。……俺の本当の顧客は、あの城の奥にいるんだからな」
亮介は着物の襟を正し、朔に向き直った。
「明日の朝、本丸の大広間で『評定』があるらしいな」
「ああ。だが、お前のような浪人が正面から入れる場所ではあるまい」
「普通ならな。だが、会議ってのは『声のデカい奴』か、あるいは『進行役』が支配するものだと相場が決まってる」
亮介の口元に、冷酷な笑みが浮かぶ。
内向きの論理だけで空転する巨大組織の会議など、現代の修羅場をくぐり抜けてきた男からすれば、児戯にも等しい。
「明日は殴り込みだ、朔。……俺がその退屈な御前会議、劇的に取り仕切ってやるよ」
西国の巨大なる象・毛利家。
その心臓部たる評定の場に、歴史を書き換える猛毒が、今まさに滴り落ちようとしていた。




