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慶長の雷鳴 〜日輪を継ぐ者たち〜  作者: 暁野 標
第1章:博多の異端児と黒田の怪物

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【悪魔契約】第三の覇者となるための「最初の任務」

「現代の合理主義」と「戦国武将の情熱・矜持」の融合による、運命(史実)への反逆。

家や血筋といった過去の呪縛を断ち切り、自らの手で新しい時代(未来)を創り出す群像劇。

 如水は膝を打ち鳴らした手を止め、ゆっくりと立ち上がった。

 法衣が擦れる微かな音が、茶室に落ちた静寂を撫でる。

 老いてなお隙のない身のこなし。頭上の低い鴨居を避けるようにわずかに首を曲げた怪物は、懐から鈍い光沢を放つ鹿革の袋を取り出した。

 放物線を描いて投げられたそれは、ドスン、と鈍重な音を立てて亮介の膝元に落ちた。

 い草の香りに混じって、なめし革の獣じみた匂いと、微かな金属の匂いが鼻腔を突く。

 口の紐がわずかに緩み、中から覗いたのは、山吹色に輝く砂金であった。

「持って行け。わしからの軍資金だ」

 亮介は片手で革袋を拾い上げた。ずしりとした重みが、手首の筋を軋ませる。

 一生遊んで暮らせるほどの莫大な富。だが、これから動かそうとしている巨大な事業プロジェクトの規模からすれば、決して十分とは言えない。

「……安い手付金ダウンペイメントですね」

 亮介は口の端を歪め、砂金袋を自らの懐へと押し込んだ。

 帯がぐんと重くなる。それは、自らが背負うことになった途方もない因果の重さそのものだった。

「カカカッ。残りは成功報酬よ。家康の首と引き換えに、好きなだけくれてやる」

 如水は目を細め、楽しげに笑う。

 だが、その瞳の奥には、一切の笑みはなかった。そこにあるのは、冷徹に盤上の駒を動かす棋士の眼光だ。

「さて、手順の確認といこうか」

 如水が扇子を広げ、何もない虚空に一本の線を引くように動かした。

「わしは、ここ九州を平らげる。表向きは、内府に味方して西軍についた愚か者どもを討伐するという名目だ。家康とて、わしの大義名分に文句はつけられまい」

 扇子が、ひらりと翻る。

「九州の兵を糾合し、怒涛の勢いで中国、四国を呑み込み、上方へ攻め上る。……その時こそ、黒田が第三の覇者として天下に名乗りを上げるときだ」

 爛々と輝く老将の瞳には、野望という名の猛火が渦巻いていた。隠居の身でありながら、その内側には天下を焦がすほどの熱量がマグマのように煮えたぎっている。

「ならば、俺の任務タスクは明確ですね」

 亮介は膝の上に手を置き、自らの役割を口にした。

「あんたが上洛の軍を進めるその時まで、美濃の関ヶ原で、内府様と治部殿の軍勢を足止めする。……いや、生かさず殺さず、徹底的に泥沼の消耗戦に引きずり込む」

「その通りだ。家康があっさり勝ってしまえば、わしが動く前に戦が終わる。逆に三成が勝てば、豊臣の威光が蘇り、わしの大義名分が消える」

 如水はパチンと扇子を閉じ、亮介の眼前に突きつけた。

「両軍合わせて十五万。その大軍勢を関ヶ原という壺の中に押し込め、互いの血肉を喰らわせよ。毛利や島津といった手駒を使い、戦況を徹底的に膠着させるのだ。……できるか?」

「俺の描いた『日ノ本商会』の設計図があれば、西国の大名どもは必ず動きます。欲という名の極上の餌ですからね」

 亮介は不敵に笑い返した。

 武士の忠義や誇りなどという不確かなものではない。「利益」という絶対的な指標で、関ヶ原の戦況をコントロールして見せる。

 前世のコンサルタントとしての矜持が、亮介の胸の内で燃え上がっていた。

「頼もしいことだ。……博多の湊に、お主のための船を用意してある。『黒龍丸こくりゅうまる』という。それに乗って安芸へ向かえ。まずは西軍の総大将である毛利輝元の尻に火をつけることだ」

「承知しました、会長オーナー。……では、俺はこれで」

 亮介は立ち上がり、踵を返そうとした。

 主従の礼など微塵もない、無頼な振る舞い。だが、如水は咎めるどころか、その後ろ姿に向けて低く声をかけた。

「――死ぬなよ、亮介」

 不意に投げかけられた言葉に、亮介の足が止まった。

 振り返ると、如水は再び炉の前に座り、静かに目を伏せていた。

「お主は、わしの最高傑作やもしれんのだからな」

 親子の情愛などという、甘い響きは一切なかった。

 それは、自らが打ち鍛えた妖刀の斬れ味に期待する、狂気じみた刀鍛冶の執着に等しい。

「……ご期待に沿えるよう、せいぜい立ち回らせてもらいますよ」

 亮介は小さく肩をすくめ、杉戸を開けて薄暗い茶室から外へと踏み出した。

 初夏の強い日差しが、眩しく視界を焼く。

 背後にピシャリと閉ざされた戸の音を聞きながら、亮介は深く息を吐き出した。

(最高傑作、ね……)

 懐の砂金袋の重みを感じながら、亮介は内心で冷たく毒づいた。

 あの化け物の腹の内など、手に取るようにわかる。

 家康と三成を共倒れさせ、自身が天下の覇権を握った暁には、自らの意のままにならないこの危険な思想を持った「倅」を、真っ先に始末するつもりなのだ。

(天下人になろうとする人間にとって、大名による合議制なんて邪魔でしかないからな。……だが、俺もただの駒で終わるつもりはねえ)

 亮介は、木漏れ日の落ちる玉砂利を踏み締めながら、前を向いた。

 怪物を使い潰し、踏み台にしてでも、自分の理想とする「自由な商いの国」を作り上げる。

 それは、生き馬の目を抜く企業再生の修羅場をくぐり抜けてきた、神波亮介という男の意地であった。

          ◇

 亮介が立ち去った後の茶室。

 如水は一人、炉の火を見つめていた。

 パチッ、と炭が爆ぜる音が、静寂を際立たせる。

「……日ノ本商会、か」

 如水は、亮介が残していった組織図の描かれた和紙を手に取った。

 指先でその奇妙な線と丸をなぞりながら、老将の唇が三日月のように吊り上がる。

「武士の世を否定し、商人の欲で国を束ねる。……実に恐ろしく、そして甘美な毒よ」

 この毒を西国大名たちに喰らわせれば、彼らは必ずや狂ったように戦場を駆け回るだろう。

 だが、その毒が日ノ本全体に回り切る前に、解毒しなければならない。

「天下に、かしらは二ついらぬ」

 如水は和紙を丸め、容赦なく炉の火の中へと放り込んだ。

 真っ赤な炎が、未来の設計図を瞬く間に舐め尽くし、黒い灰へと変えていく。

 その炎に照らされた如水の顔には、身の毛もよだつほどの冷酷な覇者の相が浮かんでいた。

          ◇

 日が西へと傾き始めた頃、亮介は博多の湊へと到着した。

 潮の満ち引きと共に、港町は夕暮れの気怠い活気に包まれている。

 漁から戻った小舟が網を下ろし、海鳥が残飯を狙ってけたたましく鳴き交わす。

 生臭い潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、亮介は波止場の先端へと歩を進めた。

 無数の帆柱が林立する中、その船は一際異彩を放って停泊していた。

「……こいつは凄いな」

 亮介は思わず感嘆の声を漏らした。

 和船特有の平箱のような安宅船あたけぶねではない。船首が鋭く波を切り裂くように尖り、三本の太いマストが天を衝いている。

 船体は黒漆で厚く塗り固められ、夕陽を反射してぬらぬらと濡れたような光沢を放っていた。

 南蛮のガレオン船の設計を取り入れ、和洋折衷の技術で組み上げられた、如水秘蔵の快速船。

『黒龍丸』。

 その名に相応しい、まるで海神の遣いのような威容である。

「これなら、瀬戸内の潮流も一気に突っ切れそうだ」

 新しい相棒の姿に、亮介の胸の奥で、前世では決して味わうことのなかった種類の高揚感が湧き上がってきた。

 死と隣り合わせの戦国時代。だが、自らの手で巨大な歴史の歯車を回すという途方もない冒険が、今まさに始まろうとしているのだ。

 波に揺れて軋む渡り板を踏み、亮介は黒龍丸の甲板へと足を乗せた。

 真新しい木材の匂いと、帆布に染み込んだ潮の匂いが鼻をくすぐる。

 ふと、帆柱の影に、不自然な気配を感じた。

 コンサルタントとして数多の修羅場を潜り抜けてきた直感が、そこに「誰か」がいると告げている。

「誰だ?」

 亮介が声をかけると、夕闇が迫る影の中から、一人の人物が静かに歩み出てきた。

「遅いぞ」

 涼やかな、それでいて芯のある透き通った声だった。

 現れたのは、まだ元服を迎えたばかりかと思われる、年若い「少年」であった。

 白練りの小袖に、濃紺の袴。腰には、その華奢な体躯には不釣り合いなほどの長大な太刀と脇差を帯びている。

 だが、亮介の目を釘付けにしたのは、その顔立ちだった。

 夕陽の残光に照らされた横顔は、陶器のように白く滑らかで、一切の瑕瑾かきんがない。

 切れ長の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように鋭い光を放ちながらも、どこか憂いを帯びたような深い漆黒をたたえていた。

 男装をしているが、その骨格の線の細さや、所作の端々に滲み出るしなやかさは、どう見ても――。

(……おいおい。嘘だろ)

 亮介の鼻腔を、潮の香りとは全く異なる、微かな丁子ちょうじの香りがくすぐった。

 香を焚き染めているのか。血生臭い武の象徴たる刀とは無縁の、甘く儚い香り。

 少年は、値踏みするように亮介を頭の先から足の先まで眺め回し、ふん、と短く鼻を鳴らした。

「お前が、私の新しいあるじというわけか?」

 腕を組み、挑発するように顎をしゃくる。

「聞いていたよりも、ずいぶんと頼りない、腑抜けた顔をしているな。……本当に、あの如水様の血を引いているのか?」

「初対面の相手に向かって、ずいぶんな口の利き方じゃねえか」

 亮介は呆れたように肩をすくめ、一歩前へ出た。

「俺がこの船の全権を握る神波亮介だ。お前は?」

「名は、さく

 少年――朔は、腰の太刀の柄に白魚のような手を添え、凜とした態度で名乗った。

「如水様の命により、お前の『護衛』としてこの船に乗った」

「護衛? 俺の?」

「そうだ。お前のような、口先ばかりで剣の腕も立たぬ軍師など、戦場に出れば三つ数える間に死ぬからな。……私が背中を守ってやる」

 自信に満ちた言葉。だが、その瞳の奥には、自らも死地に赴くことを覚悟したような、悲痛なほどの決意が揺らめいているように見えた。

(護衛ねえ。親父殿の監視役(お目付け)の間違いじゃないのか)

 厄介な荷物を押し付けられたものだ。

 だが、この美貌の剣士を連れて西国を巡るのも、そう悪くないかもしれない。

 少なくとも、むさ苦しい母里太兵衛に張り付かれるよりは、精神衛生上はるかにマシだ。

「……分かったよ、朔。俺の背中は預ける。その代わり、俺の仕事ビジネスの邪魔だけはするなよ」

 亮介の言葉に、朔はふいと顔を背け、西の空を睨みつけた。

 夕陽が沈み、群青色に染まり始めた空を背景に、彼女の横顔が美しく浮かび上がる。

「邪魔などせぬ。お前が本当に、内府を打ち倒すほどの才覚を持っているのならばな。……見極めさせてもらうぞ、神波亮介」

 風が吹き抜け、黒龍丸の帆がバサリと音を立てて膨らんだ。

 怪物の父親との危うい盟約。そして、男装の美剣士という規格外の相棒。

 役者は揃った。

「抜錨しろ! まずは安芸国、毛利家を目指す!」

 亮介の号令が、夕闇の湊に響き渡る。

 歴史のシナリオを根底から書き換える、長きにわたる反逆の航海が、今まさに幕を開けた。

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