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慶長の雷鳴 〜日輪を継ぐ者たち〜  作者: 暁野 標
第1章:博多の異端児と黒田の怪物

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【未来監査】徳川幕府の「事業計画書」を却下する

「現代の合理主義」と「戦国武将の情熱・矜持」の融合による、運命(史実)への反逆。

家や血筋といった過去の呪縛を断ち切り、自らの手で新しい時代(未来)を創り出す群像劇。

 極限まで張り詰めた茶室の空気の中、枯れ枝のような如水の指が、神波亮介の顎を捉えて離さない。

 底知れぬ暗黒の瞳が、亮介の魂の形ごと引きずり出そうと覗き込んでいる。

「お主、何者だ? ただの、わしの倅ではあるまい」

 その問いは、単なる疑念ではなかった。自らの理解を超えた『異物』に対する、本能的な警戒と底知れぬ好奇心が入り混じった、怪物のみが発する凄絶な圧であった。

 普通なら、ここで土下座して命乞いをするか、恐慌をきたして錯乱するかだろう。

 だが、亮介の心の奥底で、カチリと冷たい音が鳴った。

 前世で、刃物を持った闇金の取り立て屋に取り囲まれながら、一歩も引かずに再建案を通した時の、あの氷のような冷静さが蘇ってきたのだ。

 亮介は、如水の腕を振り払いはしなかった。

 ただ、その昏い瞳を真っ向から見据え返し、唇の端に不敵な笑みを刻んだ。

「――ああ、見えるさ」

 低く、地を這うような声だった。

 如水の眉が微かに動く。

「俺には先の世が見える。あんたの野望が潰え、黒田が天下を取れない未来もな」

「……何だと」

 如水の指から力が抜け、ゆっくりと離れていく。代わりに、茶室の温度が急激に下がったかのような、肌を粟立たせる濃密な殺気が満ちた。

 親の逆鱗に触れたなどという生易しいものではない。天下を謀る稀代の策士に対する、明確な挑発である。

 だが、亮介は動じなかった。

 彼はゆっくりと姿勢を正すと、懐から分厚く折り畳まれた鳥の子紙を取り出し、畳の上にバサリと広げた。

「内府(家康)様がこのまま関ヶ原で西の軍勢をすり潰し、天下の覇権を握ったとしましょう。その後に来るのは、途方もなく退屈で、息の詰まるような世の中です」

 広げられた和紙には、墨と朱泥を用いて極めて精緻に描かれた日本地図があった。国境の線だけでなく、主要な街道、港、そして各大名家の石高と動員可能兵力が細かく書き込まれている。

 この時代の粗雑な絵図面とは次元が違う、情報を視覚化した一枚の『図表』であった。

「天下を握った内府様が最初に行うのは、『固定』です」

 亮介は地図の上の江戸、そして大坂、京を指でなぞった。

「まずは身分の固定。武士は武士、農民は農民、商人は商人として、生涯その枠から抜け出せないように法で縛り付ける。次は土地の固定。大名たちから兵力を削ぐため、領地と江戸を頻繁に行き来させ、無駄な金と時間を使わせる仕組みを作るでしょう」

 い草の香りが漂う薄暗い室内で、亮介の言葉だけが奇妙な熱を帯びて響く。

「そして極めつけは、海の封鎖です」

「海を、封ずるだと?」

 如水の喉の奥から、低く掠れた声が漏れた。

 かつてキリシタン大名として洗礼を受け、南蛮の文化や技術の恩恵を誰よりも知るこの男にとって、それは看過しがたい言葉だった。

「ええ。異国の進んだ技術や思想は、体制を揺るがす謀反の種になりかねない。だから、内府様は南蛮との商いを厳しく制限し、やがては日ノ本という国そのものに巨大な鍵をかける」

 亮介は、現代の知識である『士農工商』『参勤交代』『鎖国』という江戸幕府の政策を、戦国武将にも理解できる言葉に置き換えて語った。

「そうすれば、確かに戦乱は治まる。二百年、いや三百年の泰平が続くかもしれません。平和という意味では満点だ。……ですが、それは『死に絶えた平穏』に過ぎない」

 亮介は筆を取り、地図の上に大きなバツ印を書いた。

「人の行き来が縛られ、身分が固定され、異国からの新しい風も入らない。そのようなよどんだ水の中では、新しい技術も、商いも、決して生まれはしない。日ノ本全体が、緩やかに腐っていく巨大な牢獄になる。俺は、そんな退屈な国で余生を過ごすのは御免被りたい」

 語り終えた亮介は、ふうと息を吐いた。

 茶室は深い沈黙に包まれた。庭の青葉を揺らす初夏の風の音すら、遠く感じられる。

 如水はじっと、亮介が広げた精緻な地図を見下ろしていた。

 その顔に表情はない。だが、爛々と光る双眸の奥で、無数の思考が猛烈な勢いで交錯しているのがわかる。

 停滞。腐敗。牢獄。

 新しい物事を好み、常に盤面を引っ掻き回すことで己の才を証明してきた怪物にとって、亮介の語った家康の思い描く未来図は、まさに虫唾が走る代物だったに違いない。

「……面白い」

 やがて、如水はぽつりと呟いた。

「家康が築こうとする盤石の天下を、『退屈』と断じた男は、お主が初めてだ」

 如水の口元に、凄惨な笑みが浮かんだ。

 刀の柄から手が完全に離れ、膝の上に置かれる。殺気が霧散し、代わりに底知れぬ興味の色が老人を包み込んでいた。

「わしも、淀んだ水は好かん。あの古狸が作る天下は、どうにも泥臭くていかんと思っていたところよ。……だが、亮介。盤面をひっくり返してどうする気だ?」

 如水の上体が、さらに前へと傾いた。

「まさか、石田治部の言うような、豊臣の『義』の世を作るとでも言うまいな。それとも、再び戦乱の世に戻すか? それでは何の解決にもならんぞ」

「いいえ。全く別の、新しい国の形を作ります」

 亮介は懐から、もう一枚の紙を取り出した。

 そこに描かれていたのは、地図ではない。幾つもの丸と線で構成された、奇妙な『組織図』だった。

 頂点には『みかど』を示す印がある。

 だが、その下には、本来あるはずの『征夷大将軍』や『関白』といった、一人の絶対的権力者の名がない。

 代わりに描かれているのは、同心円状に並んだ複数の大名家の家紋。そして、その中央に書かれた『合議会』という文字だった。

「なんじゃ、これは」

「『日ノ本商会』……まあ、大名たちによる『株式会社』のようなものです」

 現代の概念をどう説明するか。亮介は事前に頭の中で練り上げていた言葉を紡ぎ出す。

「天下を、一人の武将や一つの家の『私物』にするから、奪い合いの戦が起きるのです。ならば、この国全体を一つの巨大な商いと見立て、有力な大名たちをその『出資者(株主)』にしてしまえばいい」

「出資者、だと?」

「ええ。毛利、島津、上杉、伊達……。彼らに、それぞれの石高と軍役に応じた『発言権(議決権)』を持たせ、国のまつりごとは合議によって決める。そして、南蛮との交易や鉱山開発などで得た莫大な利益を、その権限の大きさに応じて分配(配当)するのです」

 それは、封建社会の根本を覆す、あまりにも突飛な構想だった。

 武力ではなく、経済と利益で権力を分割し、統治する。現代の民主主義や株式会社の概念に、戦国時代の「惣無事そうぶじ」の理念を掛け合わせたハイブリッド案。

「西軍は、治部殿の個人的な『義』だけでは決してまとまりません。大名たちは皆、自家の存続と利益しか考えていない。だからこそ、家康という巨大な敵を打ち破るには、『徳川に領地を削られる未来』を恐れさせるだけでなく、『新しい国で、共に莫大な利益を分け合う未来』を提示し、欲で縛り付けるしかないのです」

 亮介は、如水の目を真っ向から見返した。

「武士の面子ではなく、商人の欲で国をまとめる。……これが、内府様の野望を打ち砕き、バラバラの西軍を一つにまとめ上げる唯一の『事業計画ビジネスモデル』です」

 言い切った。

 自分でも、どれほどの大法螺を吹いているのか自覚はある。一歩間違えば、正気を疑われて幽閉されてもおかしくない妄言だ。

 如水が描いていた「黒田による幕府開闢かいびゃく」という野望をも、真っ向から否定する内容なのだから。

 茶室に、重く、息苦しいほどの静寂が舞い降りた。

 香炉から立ち昇る一筋の紫煙が、二人の間で揺らめいている。

 如水は組織図を見つめたまま、微動だにしない。

 瞬きすら忘れたかのように、ただ一点を凝視している。

 数秒が、永遠のように感じられた。

 亮介の背筋を、冷たい汗が流れ落ちていく。

(やりすぎたか……? いくらなんでも、時代錯誤が過ぎたか)

 そう後悔しかけた、次の瞬間。

「……く、ふ……ふふふ……」

 老人の肩が、小刻みに震え始めた。

 それはやがて、堪えきれない爆発となって茶室の壁を震わせた。

「カッカッカッカッカッ! わはははははっ!」

 如水は腹を抱え、涙を流して笑い転げた。

 それは、先ほどの凄みのある哄笑ではない。腹の底から愉快でたまらないといった、純粋な歓喜の笑い声だった。

「天下を商会に見立てるか! 武士の面子を捨て、商人の欲で大名どもを飼い慣らすか! ……呆れた。呆れ果てた大法螺だ! 気でも狂ったか、亮介!」

 ひとしきり笑い声を上げた後、如水は荒い息をつきながら、バチンッと扇子を地図の上に叩きつけた。

「だが……面白い!」

 爛々と輝く如水の瞳には、これまでにないほどの強烈な炎が宿っていた。

 天下人という玉座すら、彼にとっては退屈なゴールだったのかもしれない。この男は、誰も見たことのない奇想天外な絵図面を描き、それを現実の盤上で動かすことにこそ、無上の喜びを見出すのだ。

「その狂言、わしが乗ってやろうではないか」

 如水は唇の端を吊り上げ、凄絶な笑みを浮かべた。

 それは、徳川の天下を覆す、悪魔の契約が成立した瞬間だった。

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