【怪物対面】黒田如水は、その異能の息子の正体を見抜く
「現代の合理主義」と「戦国武将の情熱・矜持」の融合による、運命(史実)への反逆。
家や血筋といった過去の呪縛を断ち切り、自らの手で新しい時代(未来)を創り出す群像劇。
母里太兵衛の後ろを歩きながら、神波亮介は幾度も深く息を吐いた。
博多の湊に満ちていたむせ返るような初夏の熱気は、黒田家の広大な敷地に足を踏み入れた途端、嘘のように消え失せた。
高くそびえる築地塀と、生い茂る古木の枝葉が陽光を遮り、屋敷の奥へと進むにつれて空気がひんやりと冷たくなっていく。
玉砂利を踏む太兵衛の重い足音だけが、不気味なほど静謐な空間に響いていた。
(胃が痛てえ……)
亮介は内心で毒づいた。
前世、粉飾決算が発覚したクライアントの元へ、債権者集会の通達に赴いた時でさえ、ここまで内臓が縮み上がるような感覚はなかった。
今から会うのは、ただの大名ではない。豊臣秀吉の天下取りを盤上で描き切り、そのあまりの智謀ゆえに主君からさえも恐れられ、遠ざけられた男だ。
歴史という名の濁流を、自らの手のひらで弄んだ怪物。
やがて、太兵衛の足が止まった。
母屋から渡り廊下で繋がれた、庭の奥まった場所に佇む一棟の離れである。
黒光りする廊下の板敷きには塵一つ落ちていない。ほのかに、伽羅の沈んだ香りが鼻腔をくすぐった。
「入れ」
太兵衛の促す声には、一切の感情が籠っていなかった。
亮介はこくりと唾を飲み込み、杉戸の前に正座する。震えそうになる指先を叱咤し、静かに引き手へ手を掛けた。
わずかに開いた隙間から、シャカ、シャカ、という規則正しい音が漏れ聞こえてくる。茶筅が湯を泡立てる音だ。
襖を細く開け、頭を下げたまま茶室の中へと這い入る。
四畳半の小間は、にじり口からの採光しかなく薄暗かった。その薄闇の中央、炉の前に座る一つの影があった。
法衣を纏い、頭を丸めた老人が、静かな手付きで茶を点てている。
背中を向けているだけだというのに、その空間だけが異界のように切り離されている錯覚に陥った。見えない重圧が四方からのしかかり、呼吸をするのさえ苦しい。
「……表を上げよ」
掠れた、だが耳の奥底まで届く声だった。
亮介がゆっくりと顔を上げると、老人が振り返った。
黒田如水。
死人のように青白い肌。かつて有岡城の土牢に幽閉されていた際に患ったという、梅毒の痕跡か、頭部には醜く爛れた赤紫色の痣が這っている。
だが、何よりも亮介を射すくめたのは、その双眸だった。
年老いてなお濁りのない、底なしの暗黒。人の心の裏の裏、臓腑の奥の醜悪な欲望までを暴き立て、値踏みするような蛇の目。
「ほう」
如水は、柄杓を建水に置きながら、口の端を歪めた。
「わしに似て、不吉な相をしておる」
「……」
感動の再会などという甘い感傷は、そこには微塵もなかった。
捨てた子に対する罪悪感も、成長した姿を見る喜びもない。ただ、目の前の男が「手駒として使えるかどうか」を査定する、冷酷な主君の顔があるだけだ。
亮介の胸の奥底で、前世から引き継いだ合理主義の皮を突き破り、黒い怒りのようなものが一瞬だけ顔を覗かせた。
「お久しぶりです、とは言えませんね。何せ、初対面ですから」
恐怖を悟られまいと、亮介は努めて飄々とした声音を作った。
「博多の湊で、細々と算盤を弾いております、神波亮介と申します。隠居様には、よろず相談の御用命でございましょうか」
「減らず口を叩く。お前を日陰に捨て置いたのは、その目が気に入らなかったからだ。己の才を過信し、身を滅ぼす相だとな」
如水は嘲るように言い放ち、点てたばかりの茶碗を、畳の上を滑らせて亮介の膝先へと押しやった。
「飲め」
緑色の泡が立つ、濃茶である。
亮介は茶碗を見つめた。毒見役などはいない。これを飲んで死ぬのなら、それがこの男の決定した自分の価値だということだ。
(……上等だ)
亮介は両手で茶碗を押し戴き、一息に飲み干した。
強烈な苦味が舌を刺し、熱い液体が喉から胃の腑へと焼け付くように落ちていく。鼻腔を抜ける青臭い香りが、かえって意識を覚醒させた。
毒はない。
「結構なお点前で」
「さて、亮介とやら。お主の算盤の腕前、いかほどのものか試させてもらおうか」
如水は膝の上で両手を組み、その深淵のような瞳で亮介を見据えた。
「単刀直入に問う。……今の天下の情勢、お主の目にはどう映っておる」
試練が始まった。
亮介は慎重に言葉を選ぶ。今は慶長五年の初夏。徳川家康が、会津の上杉景勝を討伐するために、大軍を率いて東へ下ろうとしている時期だ。
「……表向きは、内府(家康)様による上杉討伐で終わるでしょう。家康公に逆らう愚か者はおりませんゆえ」
無難な回答。一般の町人や、少しばかり耳の早い商人なら誰もが口にする予測だ。
その言葉を聞いた瞬間、如水の目がスッと細められた。
室内の温度が、急激に数度下がったような錯覚に陥る。
「つまらん」
如水が吐き捨てるように言った。
同時に、老人の右手が、傍らの脇息に立てかけられていた小太刀の柄へと伸びた。
チリッ。
鯉口が切れる、微かな、だが致命的な音が茶室に響いた。
「世間の瓦版売りと同じ戯れ言を聞くために、わざわざ呼んだのではない。わしが聞きたいのは、お主の『計算』だ」
白刃が鞘から数寸覗いている。
本気だ。この怪物は、自分の問いに対して期待値以下の答えしか返せない無能を、実の息子であろうとこの場で斬り捨てる気だ。
背中を冷や汗が滝のように流れ落ちる。
亮介の脳内で、生存本能に基づく激しい警報が鳴り響いた。
前世の記憶、歴史の知識、そしてコンサルタントとしての分析力。持てる全ての力を注ぎ込まなければ、生き残れない。
(……やってやるよ。あんたが望む『計算』ってやつをな)
亮介は姿勢を正し、如水の目を真っ直ぐに見返した。
「失礼しました。では、本音で申し上げます。……内府様が会津へ向かえば、背後の大坂城が空になります。石田治部(三成)殿が、その絶好の隙を見逃すはずがない。必ず、毛利や宇喜多を巻き込んで上方で兵を挙げます」
「ふむ。家康の留守を突くか。だが、家康とてそれに気づかぬほど愚かではあるまい」
「ええ。治部殿が挙兵の狼煙を上げれば、内府様は上杉への抑えを伊達や最上に任せ、即座に踵を返すでしょう。全軍で上方へ戻ってくる」
亮介は右手の指先で、畳の目をなぞりながら仮想の地図を描いた。
「問題は、両軍がどこで激突するか、です」
「ほう。お主にはその地が読めるというのか」
「兵站と地形の制約から、答えは自ずと絞られます」
亮介の語気に熱がこもる。
もはや自分が戦国時代の浪人であることを忘れ、かつて会議室でクライアントに事業計画をプレゼンしていた時の口調になっていた。
「治部殿は大坂城に籠城はしません。それでは天下の諸大名を束ねる大義名分が立たず、ジリ貧になるからです。必ず内府様を野戦で迎え撃つ。対する内府様は、東海道を大軍を率いて西上の途につく」
「……」
「数万、十万の軍勢が展開できる平野。かつ、東西の物流が交差する結節点。京への入口を塞ぐための、唯一にして最大の要衝」
亮介の指が、畳のある一点を力強く叩いた。
「美濃国、不破の関。……関ヶ原。ここしかありません」
静寂が下りた。
如水は小太刀の柄に手を置いたまま、動かない。
関ヶ原。かつて壬申の乱において天下を分けた地。だが、まだ東西両軍が兵を挙げてすらいないこの時期に、戦場をその一点にまで絞り込む論理の飛躍に、怪物の目が微かに見開かれた。
「場所はよい」
やがて、如水は低く唸るように言った。
「だが、勝敗はどちらに転ぶ? 家康の兵力は強大ぞ。治部が集める寄せ集めの軍勢で、太刀打ちできるか?」
「真っ向からぶつかれば拮抗するでしょう。島津や毛利が本気で動けば、西軍にも十分に勝機はあります」
亮介はそこで言葉を区切り、わざと勿体ぶるように息を吸い込んだ。
「ですが……西軍は『内部崩壊』します」
「内部崩壊だと?」
「ええ。組織論の観点から見て、西軍には致命的なバグ(欠陥)が内在しています。勝敗を分ける転換点……それは、彼です」
亮介は、畳の上に指で一つの名前を書く真似をした。
「小早川、秀秋」
その名を聞いた瞬間、如水の眉間がピクリと動いた。
「小早川中納言か。……なぜ、毛利でも島津でもなく、あの若造の名を挙げる」
「動機と影響力、その両方を兼ね備えた最大のリスク要因だからです」
亮介は冷徹に分析を並べ立てる。
「彼はかつて太閤殿下の後継者と目されながら、秀頼公の誕生によって小早川家へ体よく追い払われた。さらに朝鮮の役での失態を治部殿に厳しく指弾され、領地まで削られている。……彼は、豊臣を、そして治部殿を深く憎んでいる」
「……」
「それに加え、彼が率いるのは一万を超える大軍です。内府様は必ず、開戦前から小早川へ強烈な調略をかける。戦が膠着したその瞬間、一万の軍勢が突如として牙を剥き、味方の側面を突いたらどうなるか」
亮介は如水から視線を外さず、断言した。
「西軍は雪崩を打って崩壊します。戦が始まる前に、勝負は既に決まっているのです。関ヶ原は、治部殿たちの処刑場となります」
言い切った亮介は、静かに息を吐き出した。
これが、史実という名の『確定された未来』を、現代の分析手法で装飾した完璧な回答だ。
茶室は、水を打ったような静けさに包まれた。
庭先で、手水鉢に水が落ちる音だけが、等間隔に響いている。
どれほどの時間が流れただろうか。
不意に、如水の肩が小刻みに震え始めた。
「……く、くく……」
最初は忍び笑いだった。
それが次第に大きくなり、やがて腹の底から湧き上がるような、濁った哄笑へと変わる。
「カッカッカッカッ! 愉快! 実に愉快じゃ!」
如水は涙すら浮かべながら、膝を叩いて笑い声を上げた。
その様子は、狂人のようでもあり、最高の玩具を見つけた童のようでもあった。
亮介は、気圧されたように畳に手をついたまま、老人の笑いが収まるのを待った。
やがて、笑い声をぴたりと止めた如水が、上体を前へと乗り出してきた。
鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離。
沈香の匂いと、老獪な男のむせ返るような体臭が、亮介の顔面を打ち据える。
その双眸に宿る光は、先程までの査定者のものではなかった。
正体の知れない『異形』を前にして、歓喜に打ち震える狩人の目だ。
「……お主、まるで先の世を、高みから見物してきたような口ぶりだな」
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
冷や汗が顎を伝い、ポタッと畳に落ちる。
「博多の町で算盤を弾く浪人が、天下の情勢を、ましてや大名たちの腹の内まで、そこまで緻密に読み解けるはずがない」
如水の枯れ枝のような指が、亮介の顎をゆっくりと持ち上げた。
逃げられない。蛇の瞳孔が、亮介の魂の底まで見透かそうと覗き込んでいる。
「……お主、何者だ? ただの、わしの倅ではあるまい」
正体を見破られた。
転生者であることまでは分からずとも、この怪物は、亮介が「この時代の人間ではない常識外の視点」を持っていることを、たった一度の対話で看破してしまったのだ。
茶室の空気が、極限まで張り詰める。
神波亮介の最大の秘密が暴かれようとする、緊迫の瞬間だった。




