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慶長の雷鳴 〜日輪を継ぐ者たち〜  作者: 暁野 標
第2章:安芸の憂鬱

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8/8

【輝元覚醒】偉大なる祖父・元就の亡霊を超えて

 翌朝。広島城本丸の大広間は、抜き身の刃のような殺気に満ちていた。

 庭先に植えられた松の葉を撫でる初夏の風は爽やかだが、開け放たれた障子から吹き込むその風すら、室内を覆う重苦しい熱気を冷ますには至らない。

「――おのれ、黒田の回し者め。たばかる気か!」

 上座近くに座す吉川広家が、血走った双眸を剥いて怒声を上げた。

 その怒りの矛先は、末席に悠然と腰を下ろしている神波亮介に向けられている。昨日の評定において、広家が進めていた徳川への内通が「本家を食い物にされる罠」であると論破された恨み、そして毛利家を戦乱の泥沼へと引きずり込もうとする得体の知れない浪人への、激しい憎悪。

「者ども、その素性知れぬ奸賊かんぞくを斬り捨てよ! 我が毛利の清らかな水に、泥を注ぎ込む猛毒じゃ!」

 広家の裂帛れっぱくの気合と共に、周囲に控えていた数名の吉川筋の武将たちが一斉に立ち上がった。

 カチャリ、チリッ。

 鯉口を切る硬質な音が、静寂の広間に連続して響き渡る。

「……愚か者どもめ」

 亮介がため息混じりに呟くより早く、彼の背後の影が動いた。

 小姓姿に身を包んだ朔である。

 彼女は音もなく亮介の前に滑り出ると、腰に帯びた長大な太刀を、白銀の弧を描いて抜き放った。

 キィン、と冴え渡る鋼の鳴き声が、武将たちの殺気を物理的に弾き返す。

 切っ先を下段に構え、重心を低く落とした朔の姿勢には、微塵の隙もない。その澄み切った殺気に当てられ、飛びかかろうとした武将たちの足が呪縛されたように止まった。

「私のあるじに刃を向ける者、一歩でも踏み入ればその首を落とす」

 氷のように冷たく、美しい声が広間を這う。

 一触即発。

 青畳の上に、いつ血飛沫が舞ってもおかしくない極限の緊張感が張り詰めた。

(さて、舞台装置セッティングは整ったぜ、輝元殿。あんたが自ら動かなければ、毛利という巨大企業はこのまま内部崩壊だ)

 亮介は胡坐あぐらをかいたまま、動じずに上座を見据えた。

 そこには、毛利家当主・毛利輝元が、目を固く閉じたまま微動だにせず座している。その膝の上には、昨夜亮介が手渡した『決算予想図』が、皺くちゃになるほど固く握りしめられていた。

「御屋形様!」

 広家が、悲鳴にも似た声を絞り出した。

 その声には、単なる怒りではない、血を吐くような悲愴感がこもっていた。

「某とて、太閤殿下の海より深き御恩を忘れたわけではござらぬ! 上方で挙兵した治部殿の義も、わからぬわけではない。……されど!」

 広家は畳に拳を叩きつけ、肩を震わせた。

「内府(家康)の軍勢は日の出の勢い、東国の諸将はこぞって家康の馬前にひざまずいておる。ここで西にくみし、万が一にも敗れれば、偉大なる元就公より受け継いだこの百二十万石は灰燼に帰す! 御家の命脈は絶たれるのでござる!」

 広家の双眸から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、己の保身ではない。ただ純粋に、毛利家という巨大な船を沈めたくないという、忠臣ゆえの苦渋の決断であった。

「家名存続のためならば、泥をすすり、天下のそしりを受けようとも、内府に膝を屈する! それこそが、父・元春より受け継いだ某の忠義! 御屋形様、どうか、どうか御決断を!」

 広家の言葉は、居並ぶ老臣たちの胸を激しく打った。

 あちこちから、鼻をすする音や、深く頷く気配が漏れ聞こえる。

「戦を避ける」という広家の主張は、恐怖から逃げるためではなく、重い責任を背負ったが故の悲痛な祈りだったのだ。

(すげえ熱量だ。これぞ戦国武将の矜持プライドってやつか)

 亮介は内心で舌を巻いた。

 現代の冷徹な数字ロジックだけでは、この「情と覚悟」の壁は突破できない。広家の悲痛な叫びは、毛利家を再び「徳川への恭順」という保守的な結論へと強烈に引き戻そうとしていた。

 だが。

「――黙れ、広家!!」

 広間を震わせる、雷鳴のような咆哮が轟いた。

 誰もが耳を疑い、息を呑んで上座を振り仰ぐ。

 温厚で、争い事を好まず、家臣の意見に流されるばかりであった総大将。毛利輝元が、目をカッと見開き、立ち上がっていた。

 その全身から立ち昇る覇気は、これまで誰も見たことのない、荒ぶる獅子の如き威圧感を放っていた。

「お主の忠義、痛いほどによくわかっておる。お主がわしに代わり、どれほどの泥を被ろうとしてくれていたかもな。……じゃが、それゆえに、お主は見誤ったのじゃ」

 輝元は、手に握りしめていた鳥の子紙――亮介が作成した毛利家の悲惨な未来予想図――を、頭上に高く掲げた。

「ここに、戦を避け、内府に膝を屈した場合の毛利の末路が記されておる。……だがな!」

 ビリッ!!

 鋭い破裂音が、広間に響いた。

 輝元は、その紙を読み上げることもなく、両手で真っ二つに引き裂いたのだ。

 さらに重ねて引き裂き、無惨な紙屑となったそれを、雪のように畳の上へ撒き散らした。

 これには、亮介も微かに目を丸くした。

(おいおい、俺の徹夜の力作レポートを破り捨てやがった)

 だが、その破天荒な行動こそが、輝元が完全に古い殻を打ち破った証左であった。

「損得の計算など、もはやどうでもよい! 戦わずして領地を削られ、先祖伝来の土地を追われ、お主ら家臣やその家族を路頭に迷わせるなど……当主たるわしの目が黒いうちは、断じて許さぬ!」

 輝元の声は、怒気の中に深い慈愛と覚悟を孕んでいた。

 顔を朱に染め、肩で息をしながら、床を踏み鳴らして家臣たちを見下ろす。

「わしは、祖父・元就公のような軍略の天才ではない。凡愚じゃ。……だがな、広家! 戦わずして縮みゆく身代を、指を咥えて眺めているほど、毛利の血は薄れちゃおらん!」

 輝元は腰の太刀を引き抜き、その白刃を中段に構えた。

 総大将自らの抜刀。それは、もはや後戻りのできない最終決断の宣言である。

「わしは、毛利という家を守る父親として、泥をかぶり、血にまみれる覚悟を決めた! 内府の思い通りにはさせん! 大坂へ上り、治部の掲げる義の御旗の元、徳川を討ち果たす! ……毛利の誇り、見せてやろうぞ!!」

 静寂。

 針の落ちる音すら聞こえそうな、完全な空白が広間を支配した。

 誰もが、目の前に立つ男の変貌に魂を奪われていた。優柔不断な当主は死んだ。そこにあるのは、家族を守るために自ら修羅の道へと足を踏み入れた、真の西国覇者の姿であった。

 広家は、呆然と輝元を見上げていた。

 主君のあまりにも強い気迫。理屈や打算を遥かに超越した、当主としての「魂の叫び」。

 広家が信奉していた現実主義の防壁は、その熱量によって脆くも崩れ去った。

 やがて、広家はゆっくりと姿勢を正し、両手を畳について、深く、深く頭を下げた。

「……御屋形様が、そこまでの御覚悟であらせられるならば」

 広家の声は震えていた。だが、それは怒りからではない。長年抱えていた重圧から解放され、己の命を投げ打つべき真の主君を見出した武将の、歓喜の震えであった。

「この広家、地獄の底までお供仕る。もはや異論はござらぬ」

「広家……」

「ただし……」

 広家は顔を上げ、歴戦の猛将らしい鋭い眼光を輝元に向けた。

「万が一にも敗軍の将となられ、毛利の家名が潰えることあらば。その時は、この広家が御屋形様の御首を落とし、介錯をば務めさせていただきますぞ」

「……許す。その時は、お主に命を預けよう」

 主従の目が交錯し、見えない絆が強く結ばれた。

 広家が頭を下げたのを皮切りに、大広間に居並ぶすべての重臣たちが、波が引くように一斉に平伏した。

 反発も、迷いもない。

 百二十万石の巨大な象が、ついに一つの意思の元に立ち上がり、歩みを進める方向を決定した瞬間であった。

 城の奥深くから、空気を震わせるような重低音が響き始めた。

 ブォォォォォ……ッ!

 出陣の合図を告げる、法螺貝の音である。それが一つ、また一つと重なり合い、安芸の空を揺るがす大合唱となっていく。

「朔、刀を引け。……終わったよ」

 亮介が小さく声をかけると、朔は無言のまま、流れるような動作で太刀を鞘に納めた。

 張り詰めていた空気が緩み、亮介は誰にも気づかれないように、ほう、と長く息を吐き出した。

 汗で額に張り付いた髪を乱暴に掻き上げる。

(やれやれ……寿命が縮むプレゼンテーション(最終提案)だったぜ)

 トップの意識改革は成功した。組織のベクトルは完全に「打倒・家康」へと統一された。

 コンサルタントとしての第一段階フェーズ・ワンは、これ以上ない形で完了したと言える。

 毛利輝元を総大将に戴き、十五万の大軍勢が関ヶ原へと向かう。

 歴史の歯車は、確実に本来の軌道を外れ、新たな未来へと向かって回り始めていた。


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