奪われる朝に
長い夜――着付けだけしかしなかった初めての夜が終わった。
朝を迎え、街は慌ただしく動き始める。
私が小さいころにも、隣の敵国・セピアルと神威の国の間に、かなり激しい諍いがあった。
国境の混沌とした場所に、まだ小さい私まで駆り出して着付けにあたっていた。
能力の高い着付け師は、だいたい位の高い軍人か、王族に割り当てられ、私のようなまだ経験を積んでない着付け師は下級兵を担当していた。
紅葉のような手で、幾人もの軍人に戦いの装いを整えた。
でも今は、国家着付け師として、私は前線に立つ軍人を幾人も戦いのための装いに作り替えていく。
夜を徹した着付けに付き合わされた大河が視界に入った時、彼の背後に、不思議な人影が見えた。
つややかで豊かな黒髪を足元まで垂らし、見事な着物をいくつも重ねて着ている高貴な女性の姿。
着付け師として、その女性の薄紫と緑の襲色目の美しさには目を見張ってしまう。
その女性はしきりに何かつぶやいているのだが、その声を聞き取ることが出来ない。
それもそのはず、おそらく彼女は着付けによって宿った人型の魔なのだから。
「――何て言ってるの?」
私は反射的にその女性に訊き返していた。
「どうした」
大河が私の顔を覗き込んだ。
「後ろの人が何か言ってるんだけど、聞こえなくて」
「えっ……」
大河はかなり困惑していた。彼には見えないらしい。
背後の女性は、大河の腰に巻いている帯を指差して口をパクパクしきりに動かしている。
切なげに眉を下げて、何か懇願しているような様子だった。
「もしかして帯の形を変えてって言ってるの?」
私の問いかけに対して、その女の人はこくりと頷いた。
いつか、天女が剣を振るう大河をサポートしてくれた時のことを彷彿とさせる。
出陣直前の合図の法螺の音が響いた。
……時間はない。
しかし、私は彼女を無視する気になれなかった。
「……御免、大河やり直すね」
「げっ、あんなに時間かけたのに? 間に合うのか」
大河は猶予がない事を気にしていた。
「だって――」私は背後の女性に訊く。「形をどうすればいいの?」
問いかけに、背後の女性は、身振り手振りで指示を出してくれた。
「じゃあ、こういう形の結びにすればいい?」
背後の女性は私の言葉を聞くと嬉しそうに笑って、何度も何度も私に頭を下げた。
「いえいえ」
「おい、もう時間が」
「大丈夫、出来たと思う」
信じて大河、と口にしていいのだろうか。
だって、私は私の決断をこの背後の女性の指示で覆してしまった。
この背後の女性はおそらく、あの天女と同じ類の存在だと思う。
なにしろこの世のものではないことだけは確かなのだ。
天女と似たようなものなら、危険なことは決してないと思うのだけれど……。
答えは出せないまま、出陣の時間が来てしまう。
「大河、死なないで」
戦いの装いの上から大河に抱き着く。
しっかりと抱き返してくれる大河の腕の中で、
「バカ、人の心配は良いんだよ。葵衣、自分の着付けもやって身を守っとけ」
という言葉を聞いた。
「うん……」
去りゆく大河の後ろを、あの襲着物姿の女性が私に会釈をしてからゆっくりと後を追っていく。
あれは、魔――?
*
大河が出陣してから半日後、街に異変が起きていた。
どうやら、敵国の陣形を見誤り、敵陣の一部を神威の国にやすやすと侵入させようとしているらしい。
「涼、急いで着付けしよう。私たちがやらなきゃ。――夕凪の結びで動きを止めよう」
「本気!?」
「早くやらないと!」
私は涼をせかす。
夕凪の結び――その文字通り、夕凪が風を止めるように、相手の動きを止めてしまう魔を呼ぶ帯の結び。
私達は自らの体に、夕凪の結びを施す。
涼の瞳が徐々に険しい色合いを強めていくことがわかる。
――どうか、この国を守って。
祈るように、帯を折りつける。
すると私の背後に儚げな人影が現れ、次いで涼の背後にも人影が現れた。
幽玄の美を携えた、鶯色の着物を身に着けた男性の姿だった。
「……きっと、守ってくれるのね」
私は思わずつぶやく。
あの襲着物の女性が大河を、この鶯色の着物姿の男性はこの国を、きっと守ってくれる。
「葵衣」
「涼、私のほうが上手くなっちゃったかな?」
先に背後の人影が現れたことに対して、笑い交じりに私はそう言った。
「可愛くない台詞だなぁ。でも守ってあげるよ」
夕凪の結び、その装いによって宿った魔、彼等はやわらかに私たちを見て微笑んでいる。
「……葵衣のことは俺が守ってあげる」
私は頬を綻ばせて頷いた。
その言葉のお陰か、遠方からなだれ込むように聞こえてくる馬の蹄の音にも取り乱さないで私は立っていられる。
森を駆け抜けてくる、セピアルの兵士たちの雄叫びの声。
(――来る!)
私は思わず身体を固くして身構える。
「下がれ」
元家元がセピアルの軍の猛進に、真っ先に矢面に立った。
家元の帯は複雑に結び合わされていたが、その帯が一瞬で解けた。
馬に乗ったセピアルの一人の兵士が、鋭利な針のような武具を命中させたのだ。
それは、心臓を狙っていたのに外した、というよりか、最初からそこを狙いに行った様子だった。
「何――」
「まずい……逃げに徹したほうがいいかもしれない。こいつら、元から国が狙いじゃない。着付け師狙いだ」
涼が言った。
「着付け師狙い……」
おそらく私達を攫って、自国で働かせるため。
「風も止めていい、波も止めていい、何でもいいからあいつらの動きを止めろ!」
涼はそう叫び、切り込んでくる敵に刀を振りかざした。
あっけに取られていた私も、涼の手の上から刀の柄を握りしめる。
「なっ」
前方にいる敵は止まったが、宙から飛び上がってくる敵の猛進を止めることは出来ない。
息もつかぬ間に、私達は地面にめり込むように押し付けられた。
「さ、神威の国の大地に別れを告げるんだよ」
厭味ったらしい笑みを浮かべて、私たちを拘束している兵士が言った。
老いぼれに用は無い、と私たちを助けようとしている家元を突き放し、敵国の兵士は、手当たり次第に着付け師を地面にねじ伏せた。
別れを告げろ、とそう言ったくせに、私たちは早々に立ち上がらされた。
縄で後ろ手に縛りあげられ、敵国――セピアルへつながる獣道を黙々と歩く。
「葵衣、ごめん」
私は涼の言葉に何度も何度も首を振った。




