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恐れることなく抱きしめたい、甘美な夜を

 (あ、二人きりだ。正真正銘、ちゃんと二人きりなんだ……)

 

 そんな自覚が今更、私の中に芽生え、急に体がこわばってしまう。

 着付けっていう大義名分があるとはいえ、二人きりの状況というのはかなり緊張する。

 この緊張は、大事な仕事をしているのだという緊張感のはず。

 もしこれが他の、そう、好きな人を前にして起こる緊張なら、今夜一晩ずっと二人きりなんて耐えられない。


 これは、仕事だ。目の前の存在に心乱されちゃいけない……。


 私は自分に言い聞かせた。

 大河が遠くを見ているのか、不自然なほどに首を伸ばして横を向いていた。

 大河の着物の襟から少し見える鎖骨の上に、斜めに浮かんでいる首筋が、私の集中を妨げようとする。


 これも雑念と言うのだろうか。


 私は頭を悩ませながら、背の高い彼を見上げて言う。

「大河、上向くか下向くかしてください」

「は、はあ?」

 大河はぎょっとした目で私を見る。

 いきなり何を言っているんだと思われたのだろう。

「集中させて欲しいの……お願い」

 私は手を合わせて懇願した。

「――……分かったから、その顔はよせ」

「どの顔?」

 私は彼を再び見上げ、眉を寄せて訊き返す。

「――っ、馬鹿か、俺は……」

 大河が自分の脳天を指先で小突いていた。

「……?」

「さっきの顔だって……その、上目遣いみたいな……」

 大河が後半、消え入りそうな声で説明していた。

「私、どんな顔してた……?」

「いや、気にすんな。邪魔して悪かった……」

 大河が口を手で覆って下を向いてしまった。


「あ、ありがとう」

 とりあえず、私の集中は守られそうだった。


 私は作業に取り掛かる。

 着付けを入念にやると言っても、たくさん着こむということではない。

 一つ一つの工程を限りなく丁寧に行うことで、より高尚な魔を宿らせるというのが目的なのだ。

 つまり、帯を巻くにしても、刀を吊るすにしても、物凄くゆっくりやるのだ。

 一見、かったるそうに作業しているようにしか見えないのが悩みどころ。

 当の着付け師は、冷汗をたらたら流しながら、気持ちを込めてやっているのだが。


 

 夜が更け、行燈の灯りを照らした頃、大河がふと私に言った。

「今日は、言わねえのか」

「何を?」

「耳……塞いでほしいって」


 私はこの前のことを思い出して、かっと頬を染めた。

 触れられもしていない耳のあたりに、大河の手のひらの感触を思い出してしまう。


「な……な、言わな……」

 私は平然を装おうとしたのだが、言葉通りしどろもどろになっていた。

 あの時は、緊急事態だったのだ。

 いつもの自分なら、男性に私の耳を塞いでほしいなんて言う訳がない……ん?

 私はあの日のことを鮮明に思い出した。


「違います! 耳塞ぐって言いだしたの大河の方だった……」

「冗談だろ? 俺がそんなこと言う訳――あっ」

 どうやら、大河も正確に記憶を思い出したらしい。

 二人揃って黙りこくってしまった。


 着付けのせいで、上に持ち上げ続けた自分の腕がだるくなってきたのを感じる。

 そんなだるさがうざったくなって、頬のほてりがうざったくなって、私は変なことを口にしてしまう。


「……頼んだら今日もしてくれますか?」


 今日は、そもそも部屋にこもってやっているのだから、騒がしさなんて微塵も感じない。

 街はすでに寝静まり、部屋の外では王宮の警護に当たっている兵士たちの足音が少し聞こえるばかり。


 それなのに、私集中できない、耳塞いでよなんて甘え方。

 笑っちゃう。

 だけど、大河は耳に手を添えてくれた。

「ほら」

 彼の唇が投げやりにそう動いていた。

 触れたいのに、それだけのために一生懸命に理由作って、おかしいかも。

 彼の手の内側からは、剣の柄を握りしめた後の、汗と鉄が混ざり合ったようなにおいがする。

 

 その手に包まれると、私が刀になったみたいに感じる。

 ぎゅうっと、柄の部分みたいに握りしめられたくなる。

 鞘に閉じ込めるみたいに、包まれるみたいに、抱きしめられたくなる。

 刀みたいに、ずっと寝る間もそばにおいてほしい。


 でも、秘密にしている。


 闘いに赴く人を困らせるわけにはいかない。


 今日は大河を着付け師として守りたくて、そのために彼から一晩時間を借りて、一緒にいるのだ。


 これは、仕事仕事。

 

 そう思いながらも、私が耳から外そうと彼の手に触れると、胸が高鳴ってしまう。

 

 それに、私の手に、大河が指を一本ずつ絡めてくるので、余計私はどうしていいのか分からなくなる。

「熱い……」

 刺激的に絡められた指と指の間が、一気に熱を帯び、緊張からか汗にじっとりと濡れてくるのが分かる。


 

 私は高揚を留めるために、こんなことを訊いた。

「大河、しばらく会えないとして。私が変わってる方が良い? それとも変わらない方が良い?」

「……変わるな、そのままでいろよ」

 そう言って大河が頭を撫でてくれた。

「分かった。もし、変わったとしても、前の自分に舞い戻ればいい、よね?」

 

 私は、私が変わっていくことを拒めるだろうか?

 この先に何があるか、分からないけど……。

 大河と出会ってから、私は変わった。

 成長したとは言い切れないけど、今までの自分は、これほどまでに人を想ったことなんかなかった。


 これから、もっともっと私は変わるかもしれない。

 弱くて落ちこぼれの葵衣じゃなくて……。

 変わっても、受け入れてくれるのだろうか。


「……いいんじゃねえの、それで」

 大河が言った。


 美しい結晶を持つ、粉の雪――儚くて美しくて、見る人の切なさを煽る。

 

 だけど、粉雪だって、恋の熱に溶かされそうになるのなら、拒もうとするだろう。

 

 儚さを棄てて、強靭な氷へと変貌しようとするだろう。


 私は今、剥かれるような思いだ。

 落ちこぼれ、弱くてずっと涼にかばってもらったり、甘えさせてもらったりした自分を脱ぎ捨てたい。


「死なせない。必ず生きて、私に会いに来て」

 私は大河の手を握った。

「……分かってる」

 大河がそう言って、握り返してくれる。


 

 大河の手の感触を覚えた私の耳は、もう他の誰も受け入れられないだろう。



 きっと――。

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