この時期にはいまだバターやチーズはないらしいから作ってみようじゃないか
指摘した部分を反映して、土器の会話を自然にしつつ、ヨーグルトについても村人の戸惑いが伝わるように整えました。全体の臨場感は維持しています。
さて。
朝の仕事を手伝っているうちに、俺の足元には革袋が四つ並んでいた。
袋の中で、まだ温かい乳がゆっくりと揺れている。
ちゃぷん。
革袋を少し動かすたび、中身が小さく波打った。
搾ったばかりの乳からは、かすかに草の匂いがする。
「……結構な量になったな」
俺は腰を伸ばした。
ずっと前かがみで作業していたせいか、腰の奥が鈍く痛む。
手のひらには、乳の脂で少しぬるついた感触が残っている。
「うわ……」
試しに革袋を片手で持ち上げてみる。
ずしり。
腕が一気に引っ張られた。
「思ったより重いな、これ」
「毎日運びますから」
村長の女性が笑った。
「毎日か……」
俺は革袋を地面へ戻す。
どさっ、と小さな音がした。
これを毎日。
しかも、一つではない。
その瞬間、改めて思う。
――容器が欲しい。
革袋は軽い。
丈夫でもある。
けれど、口が狭い。
注ぐたびにこぼれそうになるし、洗うのも面倒だ。
乳を扱うなら、口の広い器があった方がいい。
「やっぱり土器か木桶だな」
「土器、ですか?」
「ああ。口が広くて、安定して置ける器が欲しいんだ。粘土を焼いて作れないかなと思ってる」
「粘土を……焼く?」
「そう。火で焼いて固めるんだ」
村長の女性が、足元の土を見る。
「土を焼いて……器に?」
「ああ。上手くいくかは分からないけどな」
どうやら、この集落には磨製石器くらいならあるらしい。
それなら、土器を作るための技術も、そのうち身につけられるかもしれない。
そう考えたときだった。
「ベェー……」
足元から、細い声が聞こえた。
振り返る。
さっきの子ヤギだった。
小さな脚で土を踏み、母親の周りをうろうろしている。
「ベェー」
「ベェー」
「ベェー」
「……元気だな、お前ら」
俺がしゃがむと、三頭が一斉にこちらを見る。
大きな目。
細い脚。
まだ毛も柔らかそうだ。
そして母山羊が戻ってきた瞬間――。
三頭が同時に走り出した。
ぱたぱたと土を蹴る。
小さな砂埃が舞う。
「おいおい」
俺が見ている前で、三頭とも母親の腹へ潜り込んだ。
頭を押し込む。
肩で押す。
一頭が別の一頭を押しのける。
「ちょ、待て待て」
思わず苦笑する。
「三頭いるのに……」
俺は腹の下を覗き込んだ。
「乳首は二つしかないぞ」
「ええ」
「一頭は待つのか?」
「そうなります」
「…………」
なんとも世知辛い。
案の定、一番小さい一頭が押し出された。
「ベェー……」
子ヤギは母親を見ながら、数歩下がる。
前脚を交互に踏み、落ち着かない様子で鳴いている。
「うーん……」
見ているだけなのに、妙に胸がざわつく。
「ほら。もう少し待て」
当然、言葉なんて通じない。
それでも、なぜか声を掛けてしまう。
やがて最初の二頭が顔を上げた。
待っていた一頭が、すぐに母親へ駆け寄る。
今度は誰にも押し出されない。
頭をぐっと押し込み、夢中で乳を吸い始める。
「……よかった」
俺は知らず知らずのうちに息を吐いていた。
ふっと肩の力が抜ける。
だが。
村長の女性の顔は晴れなかった。
「でも、いつも上手くいくわけではありません」
「……そうなのか?」
「ええ」
彼女は子ヤギたちを見ながら続ける。
「生まれた子の中には、乳を飲むのが下手な子もいます。体が弱い子もいます」
「…………」
「そういう子は、弱って、そのまま死んでしまうこともあります」
俺は返事ができなかった。
さっきまで可愛らしく見えていた子ヤギの姿が、急に違って見えた。
小さな体。
細い脚。
必死に母親へしがみつく姿。
それが、ちゃんと生き残れる保証なんてない。
ここでは、生きることそのものが難しい。
俺は視線を落とした。
四つの革袋が並んでいる。
乳が、ちゃぷん、と揺れた。
「……乳って、余ることもあるのか?」
「あります」
「どうする?」
「飲めるうちは飲みます。余った分は、ヤシ酒と混ぜて乳酒にすることもあります」
「それでも余ったら?」
村長の女性は少しだけ黙った。
「……捨てることもあります」
「やっぱりか」
俺は革袋を軽く叩いた。
ちゃぷん。
中身が揺れる。
まだ新鮮だからこそ分かる。
これが時間とともに変わっていく。
気温が高ければ、なおさらだ。
「腐る前に、別のものへ変えられればいいんだけどな」
「別のもの?」
「ああ。ヨーグルトとか、チーズとか」
「ヨーグルト……?」
村長の女性が首を傾げる。
「ああ。乳を少し酸っぱくして、固まりかけたような食べ物だ」
「乳を……酸っぱくするのですか?」
「そう。まあ、言葉で説明するより、実際に見た方が早い」
「そんな食べ物があるのですか?」
「ああ」
俺は少し考えた。
現代ならスマホを出せば終わる。
動画を見れば作り方はいくらでも出てくる。
だが、ここにはスマホもない。
ネットもない。
温度計もない。
冷蔵庫もない。
まともな金属鍋すらない。
「……全部、自分の頭でやるしかないか」
記憶を掘り起こす。
乳は発酵させることで酸味が出る。
水分を抜けば、チーズになる。
脂肪を集めれば、バターになる。
ただ。
問題は、この環境だ。
「まあ、やってみるか」
「できますか?」
「分からん」
俺は苦笑した。
「でも、やらないよりはマシだ」
◇
まずは、乳を発酵させる。
器を洗う。
布で何度も拭く。
それでも現代のように清潔にはできない。
「これで……いいか」
乳を器へ注ぐ。
白い液体が、ゆっくりと底に溜まっていく。
乳の表面が揺れる。
鼻を近づけると、ほんのり甘い匂いがした。
暖かな場所へ置く。
あとは待つ。
半日。
一日。
そして翌朝。
布を外す。
「…………ん?」
匂いが違う。
鼻を近づける。
酸っぱい。
昨日とは明らかに違う。
「腐った……?」
「どうですか?」
村長の女性が覗き込む。
「分からん」
俺は指先に少しだけ付ける。
一度、匂いを嗅ぐ。
そして、ほんの少し舐める。
「……酸っぱいな」
嫌な腐敗臭はない。
だが、安全だと断言できるほど自信もない。
「発酵してる……とは思う」
「食べられますか?」
「たぶんな。でも、何が増えてるかまでは分からない」
俺は木の匙を差し入れる。
ぐっ。
「……お?」
昨日までさらさらだった乳が、少し重い。
匙を持ち上げる。
とろり。
白い乳が、細く伸びて落ちる。
「おお……」
思わず顔が緩んだ。
「ヨーグルトっぽくなってる」
村長の女性も覗き込む。
「これが……?」
「ああ。こういう感じだ」
ただ、見た目はきれいでも、現代のヨーグルトとは違う。
表面も少しざらついている。
俺は少しだけ口にする。
酸味が広がる。
舌に残る感触も、少し粗い。
「……うん」
もう一口。
「少なくとも、変な味はしない」
「では?」
「少量なら食べられそうだ。ただ、これが毎回安全に作れるとは限らない。何度も試して、様子を見た方がいい」
村長の女性も恐る恐る口をつける。
しばらく黙る。
「……酸っぱいです」
「だろ?」
「でも……おいしい」
「なら、一歩前進だな」
俺も笑った。
とはいえ、これだけでは保存食とは言い切れない。
もっと水分を抜けばいい。
「次は固めてみるか」
◇
布を広げる。
そこへ発酵した乳を流し込む。
白い液体が布へ染み込み、ぽた、ぽた、と落ちていく。
足元へ小さな水たまりができる。
「おお……」
布を吊るす。
時間が経つ。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
最初は流れ続けていた液体が、少しずつ減っていく。
布の中身が重くなる。
「そろそろか?」
布を開く。
白い塊が現れた。
指で押す。
ぐに。
「これ……」
俺は思わず笑った。
「チーズっぽいな」
塩を加える。
指先で揉む。
ざらざらとした感触。
さらに布で包み、上から押す。
じわり、と水分が滲み出る。
「……よし」
もう一度、押す。
掌に力を入れる。
腕に力が入る。
やがて。
「できた」
手のひらに乗るくらいの白い塊。
形は不格好だ。
それでも、ただの乳ではない。
「……これ、なんですか?」
「ああ。乳を固めて、水分を抜いたものだ」
「これも乳?」
「そう」
俺は少し笑う。
「俺もこんな方法で作ったことはないけどな」
村長の女性が、白い塊をじっと見る。
「食べても?」
「ああ」
先に俺が少し口に入れる。
酸味。
塩気。
そして、濃い乳の味。
「……うん」
噛む。
少しざらつく。
でも、ちゃんと食べられる。
「成功だ」
村長の女性も口にする。
目が少し大きくなる。
「……乳なのに」
「ああ」
「まるで別の食べ物ですね」
「そういうものなんだ」
俺はチーズを眺めた。
すると、別の記憶が浮かぶ。
「……そうだ」
「どうしました?」
「バターもいけるかもしれない」
◇
革袋に乳を入れる。
パンパンにはせず、少し空間を残す。
両手で抱える。
「確か……こうだ」
俺は革袋を振り始めた。
ぶん。
ぶん。
ぶん。
革袋の中で乳が揺れる。
ちゃぷ。
ちゃぷ。
「…………」
変化はない。
もう一度。
ぶん。
ぶん。
ぶん。
「…………何も起きないな」
「まだですか?」
「まだだ」
額に汗が浮く。
呼吸が少しずつ荒くなる。
「ふっ……」
腕を振る。
ぶん。
ぶん。
ぶん。
「……重い」
革袋が、腕に食い込む。
肩が痛い。
肘が重い。
呼吸を整える。
「はぁ……はぁ……」
それでも続ける。
現代なら機械がやってくれる。
ここでは、自分の腕だ。
「……こんなの、家電のありがたみを思い知るな」
苦笑しながら、また振る。
ぶん。
ぶん。
ぶん。
「はぁ……」
頬を汗が伝う。
暑い。
腕が熱い。
肩が焼けるようにだるい。
「まだ……」
ぶん。
ぶん。
ぶん。
そのときだった。
「……ん?」
手に伝わる感触が変わった。
さっきまで、ちゃぷちゃぷしていた。
それが――。
少しだけ重い。
「……止まれ」
自分で言ってしまう。
革袋を耳元へ持っていく。
揺らす。
音が違う。
「もう一度だ」
ぶん。
ぶん。
ぶん。
今度はさっきより、はっきりと手応えがあった。
「…………!」
俺は急いで革袋を開く。
白い液体の中。
小さな白い塊がいくつも浮いている。
「おお……!」
思わず身を乗り出す。
「できてる……!」
「本当に?」
「ああ!」
指を入れてすくい上げる。
ぬるり。
柔らかな脂肪の塊が指にまとわりついた。
「これだ……!」
俺は笑った。
疲れて息が上がっているのに、そんなことはどうでもよかった。
少しずつ集める。
手のひらでまとめる。
握る。
水分を抜く。
またまとめる。
「まだだ……もう少し……」
指先で押す。
白い塊が少しずつ一つになっていく。
塩を少し混ぜる。
そして――。
手のひらに、小さな塊が残った。
「……バターだ」
白っぽい。
ほんの少ししかない。
それでも、確かにバターだった。
俺は指先で少しだけすくい、舐める。
「…………」
舌の上で、ゆっくり溶けていく。
「……うまい」
思わず笑う。
「はぁ……はぁ……」
まだ息が上がっている。
腕は痛い。
肩も重い。
それでも、不思議と疲れが気にならない。
「ほら」
俺は村長の女性へ差し出した。
彼女は指先で少しだけすくう。
口に入れる。
目を閉じる。
そして。
「……おいしい」
「だろ?」
「少ないですね」
「うん」
二人で手のひらの上を見る。
ほんの少しのバター。
「これはもっと効率を上げないとな」
俺は苦笑した。
「山羊乳は、これだけ作るのにも大変だ」
「でも、作れる」
「ああ」
それが大事だった。
少なくとも、方法そのものは使える。
あとは道具だ。
容器だ。
工程だ。
何度も試して、無駄を減らしていけばいい。
「チーズに、バターか……」
俺は出来上がったものを眺める。
元は、ただの乳だった。
発酵させる。
水分を抜く。
脂肪を集める。
それだけで、違う食べ物になる。
「……面白いな」
俺が呟くと、村長の女性が頷いた。
「これなら、傷んでしまった乳を捨てなくて済みますね」
「ああ」
「作り方を、みんなに教えてください」
「もちろん」
俺は頷いた。
「ただし、最初から毎回成功するとは思わない方がいい」
「そうなのですか?」
「ああ。温度も分からないし、どれくらい置けばいいかも、この環境じゃ一定じゃない。何度も試して、覚えていくしかない」
「分かりました」
村長の女性はチーズを大切そうに持った。
俺は、その横にある山羊の群れを見る。
子ヤギたちは、まだ母親にまとわりついていた。
「ベェー」
「ベェー」
小さな鳴き声が響く。
俺は思う。
保存できる。
乳を無駄にしなくていい。
そうなれば、乳が多く取れる時期にも対応できる。
もっと乳を利用できるなら――。
「山羊、増やせるかもしれないな」
「増やす、ですか?」
「ああ」
俺は群れを見た。
もちろん、簡単じゃない。
餌がいる。
水がいる。
世話をする人手がいる。
病気になれば死ぬ。
それでも。
一頭増えるだけでも、乳は増える。
乳が増えれば、食料も増える。
「……一つずつだな」
俺は小さく息を吐いた。
ここは現代じゃない。
欲しい道具を店で買うこともできない。
失敗したら、また最初からやり直す。
だからこそ。
乳を搾る。
発酵させる。
固める。
振る。
失敗する。
また試す。
その繰り返しだ。
そうやって積み重ねた小さな工夫が、いつかこの集落の暮らしを変えていくのかもしれない。
「……よし」
俺は立ち上がった。
膝を伸ばすと、少しだけ関節が鳴った。
「次は、もっと大きな器が必要だな」
「土器、ですね?」
「ああ」
俺は革袋を持ち上げる。
ずしり。
腕に重みがかかる。
「これを毎日扱うなら、もっと楽にしないとな」
少し離れたところから、
「ベェー!」
元気な鳴き声が飛んできた。
俺は振り返る。
母山羊の足元で、三頭の子ヤギが跳ねている。
さっきまで押し合っていたのが嘘みたいだ。
俺は思わず笑った。
「分かった分かった」
革袋を抱え直す。
「お前たちのためにも、もう少し頑張るよ」




