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たぶん9千5百年くらい前の古代オリエントのエリコに転移したけど意外とのんびり暮らしてる件  作者: 水源


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この時代は農耕と採取、牧畜と狩猟は同時に行われているんだ

 さて。


 俺は山羊乳搾りという労働の対価として、村の長に食事を分けてもらっている。


 材料だけ渡されても困る。


 現代日本でも、料理なんてろくにやってこなかった。


 まして、ここは九千五百年前の世界だ。


 鍋も、コンロもない。


 そんな俺が一人で食事を作れと言われても、まともなものができるとは思えない。


 だから、しばらくは村長の家で食事を分けてもらっている。


 家の中へ入る。


 まず鼻をくすぐったのは、煙の匂いだった。


 少し目がしみる。


 石を積んだ炉では、薪が赤い火を上げて燃えていた。


 ぱちっ。


 乾いた音がして、薪の表面が弾ける。


 燃えた木の一部は黒く炭化し、灰の中には赤い熱が残っている。


 火に近づけば頬が熱くなり、少し離れれば背中にひやりとした空気を感じた。


 煙はゆっくり上へ昇り、家の中には焼いた麦と肉の匂いが混じっている。


 腹が減っていると、こういう匂いはたまらない。


 壁際には石皿。


 その上には砕かれた木の実。


 平たい石の上には、焼かれたパンが何枚か並んでいた。


 今日の食事は、山羊乳。


 バターやチーズ。


 小麦やドングリを粉にして焼いた無発酵パン。


 クルミ、ヘイゼルナッツ、ピスタチオ、アーモンド。


 そして、狩猟で得たガゼルの肉。


 改めて見ると、なかなか不思議な食卓だ。


 俺は焼きたてのパンを手に取った。


「……熱っ」


 思わず持ち直す。


 表面は硬い。


 指先に触れる感触もざらざらしている。


 現代日本で食べていた、ふわふわの食パンとはまるで違う。


 俺はパンに山羊のバターを塗った。


 まだ熱が残っているらしい。


 白っぽい塊がゆっくり溶け、パンの凹凸へ染み込んでいく。


 一口かじる。


 ばりっ。


 硬い表面が歯の下で割れた。


「……ふむ」


 しっかり噛む。


 麦そのものの素朴な味。


 そこへ山羊のバターの濃厚な風味が重なる。


 パンだけなら少しぱさつく。


 だが、バターが入ると驚くほど食べやすい。


 悪くない。


 いや。


 かなり美味い。


「食事のメインがナッツというのも、妙な気分だな」


 俺がそう言うと、向かいに座っていた村長が顔を上げた。


 ちなみに、村長の名前はマリア。


 ……たぶん。


 アリアだったかもしれない。


 この時代の言葉は、まだ細かな発音まで聞き分けられない。


 俺にはマリアに近く聞こえるので、そう呼んでいる。


「そうですか?」


 マリアはクルミを一つ手に取った。


 小さな石を持ち上げる。


 こつん。


 殻を叩く。


 もう一度。


 こつん。


 割れ目が入る。


 慣れた手つきで殻を開き、中身を取り出した。


「冬になれば、これがなければ困りますよ」


「やっぱり重要なんだな」


「もちろんです」


 マリアは木の実の入った皿を見る。


「肉は、いつでも獲れるわけではありませんから」


「そりゃそうか」


「去年は木の実が少なかったので、集める人を増やしました」


「子供たちも?」


「できることだけですよ。落ちたものを拾ったりします」


 なるほど。


 秋の森を歩き回り、地面に落ちた木の実を一つずつ拾う。


 袋へ入れる。


 また拾う。


 そうやって冬の食料を確保する。


 現代人にとっては、おやつに見えるナッツ。


 だが、ここでは違う。


 冬を越すための大切な食料なのだ。


「今までは、どうしていたのですか?」


 マリアが聞いてきた。


 俺は少し考えた。


 水関係の設計をして、その給料で食べ物を買っていた。


 そんな話をしたところで、意味は通じないだろう。


 店で買う。


 金を払う。


 そんな仕組み自体が、ここにはないのだから。


「ああ。ここらへんにはないだろうけど……稲というものの実を、主に食べていたよ」


「イネ?」


 マリアが首を傾げる。


「聞いたことがありませんね」


「まあ、ずっと遠くへ行かないと無いはずだからな」


「そんなに遠くに?」


「多分な」


 マリアは不思議そうな顔をした。


 俺は慌てて山羊乳を飲んだ。


 少しぬるい。


 独特の匂いが鼻に抜ける。


 けれど、もう慣れてしまえば悪くない。


 パンを乳に浸してみる。


 乾いたパンが乳を吸い、少し柔らかくなった。


 これなら喉にも通りやすい。


 こうして食べていると、山羊や羊が貴重なのもよく分かる。


 肉にすれば、一度きりだ。


 だが、生かしておけば乳を得られる。


 だから、よほどのことがなければ簡単には屠殺しない。


 俺は外から聞こえてきた声に顔を向けた。


「わん、わん!」


 犬が吠えている。


 少しして、子供の笑い声が聞こえた。


 どうやら犬を追いかけているらしい。


 この村では、犬はもう人間のそばで暮らしている。


 番犬。


 猟犬。


 そして、人間の友として。


 だが、牛や馬、ロバ、猫などはまだいない。


 人間が暮らしに利用できる動物は、後の時代ほど多くない。


 だからこそ、山羊や羊の価値は大きい。


 俺は焼いたガゼルの肉を手に取った。


 肉の繊維がなかなか切れない。


 両手で引っ張る。


 ぶちっ。


 ようやく裂けた。


 口に入れる。


 硬い。


 脂も少ない。


 現代の焼肉のような柔らかさを期待してはいけない。


 それでも、しっかり噛めば肉の味が出てくる。


 噛む。


 さらに噛む。


 その横に置かれていたピスタチオを口に入れた。


 香ばしい。


 ガゼルの肉とは違う味が口の中に広がる。


「……なるほどな」


「何がです?」


「いや。この食事が、ちゃんと理にかなっているんだと思ってな」


 マリアは首を傾げる。


「食べられるものを食べているだけですよ?」


「それが一番難しいんだよ」


 俺は笑った。


 肉。


 乳。


 パン。


 ナッツ。


 一見すると、まとまりのない食事に見える。


 けれど、全部に理由がある。


 その土地で手に入る。


 季節が過ぎても保存できる。


 獲れない日があっても、別の食べ物で補える。


 そうやって組み合わせてきた結果が、この食卓なのだ。


 俺は目の前のパンを見る。


 麦を粉にする。


 水を混ぜる。


 火で焼く。


 今なら、それだけに見える。


 だが、この一枚のパンに辿り着くまでには、途方もない時間がかかっている。


 気候が変わる。


 森が変わる。


 今まで採れていた木の実が減る。


 それなら、別のものを探すしかない。


 根を掘る。


 種を集める。


 食べられる植物を試す。


 そんな積み重ねの中で、人間は麦にも目を向けたのだろう。


 最初から、今の麦があったわけじゃない。


 毎年、育ったものを見る。


 粒の大きいものを残す。


 食べやすいものを残す。


 収穫しやすいものを残す。


 それを何世代も繰り返す。


 そうして少しずつ、人間に都合のいい麦が増えていく。


 今、俺が食べているパンは、その積み重ねの先にある。


「麦は、神が私たちに与えてくれたありがたい食べ物です」


 マリアが言った。


 俺は顔を上げた。


 冗談ではない。


 彼女は本気でそう思っているらしい。


「まあ……それは、そう思っても不思議じゃないな」


 俺はパンを見た。


 腹を満たせる。


 保存できる。


 種を残せば、また育てられる。


 この人たちにとっては、ありがたい食べ物なのだろう。


 マリアはパンを手に取った。


 両手で半分に割る。


 ぱきり。


 乾いた音が、静かな家の中に響いた。


「今年は、麦も悪くありませんでした」


「それはよかったな」


「でも……」


 マリアの手が止まった。


「来年も同じとは限りません」


 静かな声だった。


 俺はすぐに返事ができなかった。


 現代日本なら、収穫が悪くても店へ行けば食料を買える。


 金を払えば、遠くの土地で作られたものだって手に入る。


 だが、この時代は違う。


 獲れなければ食べられない。


 保存した食料が尽きれば、それまでだ。


 だから、一つの方法だけには頼れない。


 狩る。


 集める。


 麦を育てる。


 豆を育てる。


 山羊や羊から乳を得る。


 その一つ一つが、次の季節へつなぐための手段なのだ。


 そして、俺は改めてエリコという場所を見る。


 ここには水がある。


 飲める。


 料理に使える。


 食べ物の加工にも使える。


 ドングリのような木の実を食べるにも、水が必要だ。


 水がある。


 だから人が集まる。


 人が集まれば、食料を蓄え、家を作り、道具を作る。


 そうして集落が大きくなっていく。


 俺は入口の向こうへ目を向けた。


 乾いた風が吹き込んできた。


 煙が揺れる。


 火がぱちりと鳴る。


 外では誰かが話している。


 子供たちの笑い声。


 犬の鳴き声。


 遠くから聞こえる、人の足音。


 ここには人がいる。


 たくさんの人間が集まって暮らしている。


 現代の都市と比べれば、驚くほど小さな集落だ。


 それでも。


 これだけの人間が、同じ場所で暮らしている。


 日本も、今頃は縄文時代だ。


 向こうでは海や川が食卓を支えている。


 魚を獲る。


 貝を拾う。


 山では木の実を集める。


 同じ時代でも、暮らし方は土地によって違う。


 ここではガゼルと麦とナッツがある。


 日本では魚や貝がある。


 その土地で手に入るものが、人間の暮らしを決めていく。


 俺は残ったパンを手に取った。


 バターを塗る。


 さらにチーズを少し乗せる。


 指で押すと、柔らかなチーズが少し潰れた。


「それにしても」


 一口食べる。


 バターの香り。


 チーズの塩気。


 麦の素朴な味。


 硬いパン。


 それらが一緒になると、思った以上に美味い。


「バターは美味しいですね」


 マリアが笑う。


「そうでしょう?」


「焼きたてのパンに塗ると、とても美味しくなります。さらにチーズも素晴らしいです」


「みんな好きなのか?」


「ええ。特に子供たちは」


「それは一万年経っても変わらないと思うぞ」


「一万年?」


「いや。こっちの話だ」


 マリアは不思議そうに俺を見る。


 それから、くすりと笑った。


「変な人ですね」


「よく言われる」


 俺も笑った。


 火の熱が頬に当たる。


 外から風が入り、今度は少しだけ寒く感じた。


 俺は無意識に火の方へ体を寄せた。


 その瞬間、薪が崩れた。


 ぱちぱちと火の粉が舞う。


 マリアが手を伸ばし、長い木の枝で薪の位置を直す。


 火がまた大きくなった。


 暖かい。


 この時代の生活は、不便だ。


 けれど。


 こうして火を囲み、食べ物を分け合い、人と話す。


 そんな暮らしそのものは、現代とそれほど違わないのかもしれない。


 俺は最後の一口を食べた。


 指についたバターを軽く拭う。


 腹の奥に、じんわりとした満足感がある。


 豪華な食事ではない。


 それでも十分だった。


「ごちそうさまでした、マリアさん」


 俺が言うと、マリアは穏やかに笑った。


「いえいえ」


 薪がぱちりと鳴った。


 外では誰かが笑っている。


 子供たちはまだ走り回っているらしい。


 犬も時々、思い出したように吠える。


 今、この瞬間だけを見れば。


 何も変わらない、平和な一日だった。


 だが。


 マリアの言葉が頭から離れない。


 ――来年も同じとは限りません。


 今日の食事はある。


 腹も満たされた。


 けれど、明日も同じように食べられる保証はない。


 今日のパンも。


 今日の肉も。


 今日の乳も。


 誰かが季節ごとに集め、育て、狩り、蓄えてきたものだ。


 俺は空になった石皿を見つめた。


 腹いっぱい食べられる。


 それは、この時代の人間にとって。


 決して当たり前のことではなかった。


 むしろ現代の日本が特別だったのだろう。

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