なぜかスマホがネットにつながって検索などもつかえるがまあありがたいと思っておこう
さて。
俺が町の人間に案内されたのは、レンガを積み重ねて作った四角い家だった。
よく見ると焼成されたものではなく、日に当てて乾燥させたものをそのまま使っているようだ。
日干しにされた土の匂いがする。
壁はところどころ表面がざらついていて、手で触れれば砂のような粒が落ちてきそうだ。
「とりあえず、しばらくはここを使ってくれ。交易なんかで、この街に一時的に泊まる人間が使う建物だ」
「ああ、わかった。ありがとうな」
礼を言って中へ入る。
外から見たときよりも、ずっと狭く感じた。
床は土間。
壁際には藁が積まれていて、どうやらそこが寝床らしい。
窓らしい窓もない。
薄暗い室内には、土と藁の匂いがこもっている。
「……藁の寝床か」
試しに手で触ってみる。
ごわごわしていて、決して柔らかくはない。
横になれば、藁の一本一本が服越しに背中へ当たりそうだ。
「少し寒いな……」
隙間風がどこからか入り込んでいる。
俺は腕をさすった。
「まあ、今まで働いていた会社の仮眠室を思えば、それほど酷くはないか」
……と思ったが。
「仮眠室のベッドと大して変わらない……いや、やっぱりこっちのほうが酷いな」
思わず苦笑する。
会社に泊まり込んだときは、少なくとも毛布くらいはあった。
ここには、それすらない。
これが数千年前の生活なのだと思うと、改めて現実味が増してくる。
俺はそんなことを考えながら、スーツのポケットを探った。
指先に触れたのは、見慣れた硬い感触。
取り出したのは、防水スマホ。
次に、太陽電池式の充電器。
イヤホン。
ズボンの財布には、定期券、銀行のキャッシュカード、クレジットカード、Tポイントカード、病院の診察券。
それから――
近所のホルモン屋のポイントカード。
「……もうホルモンなんて食えそうにないよな」
カードを指先で眺める。
ついこの前まで、仕事帰りにふらっと店へ寄っていた。
暖簾をくぐれば、
『毎度』
と声をかけられる。
焼けた肉の匂い。
網の上で脂が落ちて、じゅうっと音を立てる。
生ビールを一杯飲んで、くだらない話をして帰る。
そんな、ごく当たり前だった日常。
「……あれも、もう戻ってこないのかな」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前だ。
ここは、俺の知っている世界から何千年も離れた場所なのだから。
気を取り直して、今度は鍵の束を取り出す。
家の鍵。
原付の鍵。
物置の鍵。
自転車の鍵。
どれも、今となっては意味のないものばかりだ。
そして――その中に、一つだけ妙なキーホルダーが付いている。
以前、ウクライナ人が来たときに買った、幸福の卵付きのキーホルダー。
小さな卵が、金属の金具にぶら下がっている。
「……これまで持ってきたんだな」
不思議なものだ。
家の鍵も。
自転車の鍵も。
店のポイントカードも。
そして、こんな小さなキーホルダーまで。
「……俺の現代生活、全部ここに入ってるな」
鍵束を握り締める。
それだけで、少しだけ心細さが和らいだ気がした。
最後にスマホを見る。
黒い画面に、自分の顔がぼんやり映った。
「当然、使えないよな」
そう思いながら、電源を入れる。
――ぱっ。
見慣れた画面が立ち上がった。
「……あれ?」
思わず眉を寄せる。
電波表示を見る。
……ある。
「なんで?」
慌ててWi-Fiの一覧を開いた。
表示された名前を見て、俺は固まった。
『siawase_free』
「……なんだこれ」
思わず吹き出す。
「よくわからんが……幸福の神様が繋げてくれてるらしいな」
しかも、接続済み。
試しにブラウザを開く。
読み込みの表示が回り――
普通にページが表示された。
「マジかよ……」
さらに動画サイトを開く。
動画も読み込める。
通信できる。
そして、太陽電池式の充電器まである。
「つまり、電源さえ確保できれば……しばらく使い続けられるってことか」
これはありがたい。
いや。
ありがたいどころじゃない。
スマホ一台があるだけで、俺は完全な孤立を免れる。
試しにイヤホンを耳へ差し込み、好きなアニソンを検索する。
再生。
次の瞬間――
聞き慣れたイントロが流れた。
「おお……」
思わず目を見開く。
音がある。
歌声がある。
映像まで動いている。
「ちゃんと見れるし、聞けるじゃないか」
自然と笑みがこぼれた。
さっきまで寒さと藁の寝床しかない部屋だったのに。
今は、その小さな画面の中だけ、いつもの世界が残っている。
日本の街。
アニメ。
音楽。
そして、自分が昨日まで生きていた時間。
一人で寂しい夜も、これなら何とかなる。
DVDになったら借りようと思っていたアニメの続きだって見られる。
「……これは、かなり助かるな」
ただし。
スマホのバッテリー表示を見る。
「……まあ、バッテリーは有限だけどな」
無限に使えるわけじゃない。
充電器があるとはいえ、曇りの日もある。
何より、今後何が起きるかわからない。
使える電気には限りがある。
「無駄遣いは避けよう」
名残惜しくなりながらも、動画を止める。
画面を消す。
イヤホンを外す。
そして、防水キャップをきっちり締めた。
現代から持ってきた数少ない文明の利器だ。
大切に使わなければならない。
さて。
せっかくだ。
今いる場所くらいは、ちゃんと調べておこう。
「……エリコって、どこだ?」
検索欄へ入力する。
エリコ。
イェリコ。
ジェリコ。
いくつか候補が出てきた。
その説明を読み進めていく。
そして――
「……あ」
思わず声が漏れた。
エリコ。
古代の都市。
世界でも最古級の定住集落の一つ。
そして、巨大な石壁を持つことで知られる場所。
「ここ……マジでエリコなのか?」
背筋にぞくりとするものを感じた。
ただの異世界ではない。
俺が学校で習った歴史。
テレビで見た歴史番組。
ネットの記事で読んだ古代史。
そういうものの中に出てくる場所だ。
記憶を辿る。
「そういえば……」
エヴァンゲリオンで、アスカがシンジと一緒に暮らすことになったとき、そんな話が出てきた。
「決して崩れぬジェリコの壁……ってやつか」
妙なところで記憶が繋がる。
こんなところでアニメの知識が役に立つとは思わなかった。
だったら――
もう一つ調べてみる。
「ナトゥーフ……」
検索。
表示された内容を読む。
ナトゥーフ文化。
狩猟採集を基盤としながら、定住化が進んだ時代。
後の農耕社会へと繋がっていく、まさに過渡期。
「……なるほどな」
画面を見つめたまま、息を吐く。
やはり。
これは俺の知っている歴史の延長線上にある。
ゲームのような異世界でもなければ、見たこともない文明でもない。
俺が知っている、人類の歴史。
その途中へ、いきなり放り込まれたのだ。
「でも、スマホで歴史の勉強ばっかりしてたら電池がなくなるな」
思わず苦笑する。
調べたいことは山ほどある。
だが、今は我慢だ。
使える電気には限りがある。
俺はスマホをしまい、外へ出た。
扉を開けた瞬間、乾いた風が頬を撫でる。
室内とは違う。
太陽の熱を含んだ空気。
土の匂い。
人の声。
動物の鳴き声。
俺は自然と顔を上げた。
「おお……」
まず目に入ったのは、ナツメヤシだった。
町のあちこちに植えられている。
細長い幹の先で、大きな葉が風に揺れている。
「……やっぱり、場所は間違いないみたいだな」
干しレンガで作られた四角い家。
ナツメヤシ。
乾いた気候。
そして、俺の知識の中にあるエリコという名前。
何一つとして現実感のない要素がない。
むしろ、現実そのものだった。
「どうやら本当に、俺は数千年前の世界へ来ちまったらしい」
町を歩いている人々を眺める。
服はなめした革が中心。
男たちは弓を持っている。
腰には道具らしきものもぶら下げている。
俺には見慣れない道具ばかりだ。
つがえられている矢の、先端を見てみる。
「……黒曜石、か?」
打製石器。
割ることによって黒く、鋭く加工されている。
光を受けて、刃がぬらりと光った。
うっかり触れば手を切りそうだ。
さらに、その横を犬が走っていく。
細身の体。
長い脚。
こちらをちらりと見て、そのまま主人の後ろを追っていった。
「……猟犬か?」
見た目は、アフガンハウンドやファラオハウンドに少し似ている。
そんなことを考えていると――
「おーい。お前さん、どこか行くのか?」
声が飛んできた。
振り向く。
弓を肩にかけた男が、こちらを見ていた。
「ああ、ガゼルを狩りに行くんだ。お前も来るか?」
男が顎で町の外を指す。
その先には、乾いた大地が広がっている。
「……ガゼルを?」
「そうだ。今日は何頭か獲れるといいんだがな」
男が弓を持ち上げる。
慣れた手つきだった。
俺は苦笑する。
「すまん。俺、弓は使えないんだ」
「……は?」
男の顔が固まった。
何か、とんでもなく珍しいことを聞いたような顔だ。
「お前さん、その歳で弓が使えないのか?」
「すまん。そうなんだ」
「ちゃんと使えるようになったほうがいいぞ」
「あ、ああ……そうだな」
男は本気で心配しているらしい。
冗談でも馬鹿にしているわけでもない。
純粋に、
――弓も使えないのか。
という反応だ。
「……この時代じゃ、弓くらい使えて当然なのか」
俺が呟くと、男は首を傾げた。
「当然だろう。獲物を取れなければ、腹が減るぞ」
「……ごもっとも」
反論の余地がない。
「まあ、山羊の乳を搾るなり、ナツメヤシを取るなりはしろよ」
「ああ」
そう言い残して、男たちは犬を連れて町の外へ向かっていった。
犬の爪が乾いた地面を軽く叩く。
男たちの背中が、少しずつ小さくなる。
「……働かざる者食うべからず、ってわけか」
食べ物を買えばいい。
働いて金を稼げばいい。
そんな現代の常識は、ここにはない。
自分の食料を、自分の手で確保する。
生きるということそのものが仕事なのだ。
「なら、俺も何かしよう」
何もせずに寝ているわけにもいかない。
「山羊の乳搾りでも手伝うか」
まずは、自分にもできそうなことからだ。
俺は集落の長らしい女性を探した。
しばらく歩いていると、それらしい女性を見つける。
「あの、すみません」
「はい?」
「山羊の乳搾りを手伝いたいんですが、どうすればいいですか?」
女性は俺の顔をじっと見た。
少し考えてから、穏やかに答える。
「では、私が一緒に行きましょう」
「え、いいんですか?」
「はい。ただ――」
女性が首を傾げる。
「あなた、乳搾りの経験は?」
俺は首を横に振った。
「ありません」
「そうですか」
女性は特に驚いた様子もない。
「では、私が教えましょう」
「お願いします」
そう言って渡されたのは、大きな革袋だった。
「これは?」
「搾った乳を受けるためのものです」
「ああ、なるほど」
持ち上げてみる。
柔らかい。
けれど、思った以上に丈夫そうだ。
今の俺が知っている金属製のバケツやプラスチック容器とはまるで違う。
こういう身近な材料が、当たり前のように生活道具になっている。
俺は少しだけ感心した。
「これ一つで、ちゃんと役に立つんだな……」
「ええ」
女性が笑う。
俺たちは町の外れへ向かった。
乾いた土を踏むたび、ざく、ざく、と小さな音がする。
少し歩くと――
「おお……」
山羊の群れが見えてきた。
白。
茶色。
黒。
斑模様。
様々な色の山羊が、柵の中で草や葉を食べている。
「これが家畜の山羊か」
近づくと、一頭がこちらを見る。
「メェ……」
「……なんだか、思ってたより可愛いな」
じっと見ていると、山羊が鼻をひくつかせる。
俺の匂いを嗅いでいるらしい。
その動きが妙におかしくて、少しだけ頬が緩んだ。
山羊の祖先は、野生のパサン。
人間に家畜化された歴史はかなり古い。
粗食にも耐える。
乳も取れる。
肉にもなる。
毛や皮も利用できる。
何より、牛や羊ほど広い放牧地を必要としない。
「……なるほど」
こうして実際に間近で見てみると、人間が山羊を飼う理由がよくわかる。
小さくて扱いやすい。
食べられるものも幅広い。
生きている間にも、乳という形で恵みをくれる。
これなら、古代の人々が重宝するのも当然だろう。
「では、袋をここへ」
「はい」
女性が山羊の横に座る。
俺も言われた通り、その下に革袋を差し込んだ。
山羊が少し身じろぎする。
「大丈夫ですよ」
女性が優しく声をかける。
すると、山羊が少し落ち着いた。
女性は格子の間から手を伸ばす。
山羊の乳房を両手で包んだ。
近くで見ると、想像していたよりもずっと大きい。
「では、始めます」
女性の手が動く。
親指と人差し指で乳首の根元を押さえ――
続いて中指。
薬指。
小指。
上から順番に握っていく。
すると、
ぴゅっ。
細い白い筋が飛び、革袋の中へ落ちた。
「……へえ」
思わず身を乗り出す。
搾るというより、乳を下へ押し出しているような動きだ。
「こうやって出すんです」
「なるほど」
テレビや動画で見たことはある。
けれど、実際に目の前で見ると全然違う。
山羊の体温。
少し甘いような、獣のような匂い。
手を動かすたびに伝わってくる柔らかい感触。
そして、革袋へ落ちる乳の音。
生活そのものが、目の前にある。
「一人だと難しいので、二人一組でするといいですよ」
「わかりました」
「では、やってみますか?」
「お願いします」
今度は俺の番だ。
女性に手を添えてもらいながら、恐る恐る乳房に手を伸ばす。
触れた瞬間、想像していたよりも温かいことに驚いた。
「こう……ですか?」
「もう少し力を抜いて」
「はい」
「根元を押さえて、そのまま順番に指を閉じていきます」
「こう?」
「そうです」
俺は教えられた通りに指を動かす。
ぎゅっ。
……何も出ない。
「……あれ?」
「もう少し、しっかり」
「はい」
もう一度。
ぎゅっ。
ぴゅっ。
白い乳が、革袋へ落ちた。
「……おお」
思わず声が出る。
「出た!」
自分でも驚くくらい、嬉しかった。
女性がくすりと笑う。
「ええ。ちゃんと出ていますよ」
「なんか……面白いな、これ」
もう一度。
ぎゅっ。
ぴゅっ。
また白い乳が落ちる。
今度はちゃんと狙ったところへ入った。
「おお……」
なんだか妙に達成感がある。
ただ、山羊の乳を搾っただけなのに。
普段なら、蛇口をひねれば水が出る。
冷蔵庫を開ければ牛乳がある。
コンビニへ行けば、食べ物はいくらでも買える。
そんな世界で暮らしていた俺にとって――
目の前の白い乳は、まるで別のものに見えた。
これは食料だ。
この山羊が生きているからこそ得られるもの。
そして、それを手に入れるには、自分の手を動かさなければならない。
「……なるほどな」
俺は山羊を見る。
山羊は何事もなかったように草を食べている。
その横で、俺は黙々と手を動かす。
数千年前。
俺は今、山羊の乳を搾っている。
会社でCADをいじっていた頃には、こんな未来なんて想像もしなかった。
机の上にはモニターがあって。
図面を描いて。
上司に確認を取って。
帰りにホルモン屋へ寄って。
そんな生活を送っていた。
それが今は――
土の上に座って。
革袋を足元に置いて。
山羊の乳を搾っている。
あまりにも違いすぎて、笑えてくる。
「……まあ、悪くないか」
口元が自然に緩んだ。
もう一度、指に力を込める。
ぎゅっ。
ぴゅっ。
白い乳が革袋へ落ちる。
その音を聞きながら、俺は少しだけ、この時代の暮らしが身近になった気がした。




