第7話 夜の気象操作と雲の毛布
……おかしい。やけに肌寒い。
空を見上げると、雲ひとつない見事な快晴。風はピタリと止んでいて、森の木々も一枚の葉っぱすら揺らしていない。
穏やかな晩春の夕暮れ。普通なら「明日はいいお天気になりそうだなあ」って呑気に笑うところ。
でも、前世で気象予報士だったわたしの頭の中では、けたたましいアラートが鳴り響いていた。
(……まずい。これは典型的な『放射冷却』のパターンだ)
季節は晩春。小麦が穂をつけ始める、一年で一番デリケートな時期。
お昼の間に太陽に温められた地面の熱は、夜になると宇宙空間に向かって逃げていってしまう。
普段なら雲があるから熱は逃げきらないんだけど、今日みたいに風がなくて、雲ひとつない夜は、熱が文字通り「ダダ漏れ」になっちゃうのだ。
このままいけば、明日の明け方には気温が氷点下近くまで急降下してしまう。
そして、恐ろしい「遅霜」が降りる。
まだ育ちきっていない小麦の水分が凍ってダメになってしまえば、今年の収穫は半分以下に落ち込むだろう。
――領民みんなの希望が、絶望に変わってしまう!
わたしは慌てて馬に飛び乗り、お屋敷へと急いだ。
「お父様! 大変です、今夜から明日の朝にかけて、とんでもない冷え込みになります!」
執務室のドアをバンッと開け放ち、書類仕事をしていたお父様に詰め寄った。
「なんだ騒々しい。ヴィナ、外を見てみなさい。あんなに綺麗な夕焼け空だぞ? 明日も穏やかな一日になるはずだ」
お父様はきょとんとして窓の外を指さした。
無理もない。前世でも「よく晴れた風のない夜ほど冷え込む」なんて知識は、お天気コーナーを見ていないと意外と知らないものだから。
「晴れているからこそ、地面の熱が空へ逃げてしまうんです! わたしの観天望気を信じてください。
すぐに村々へ使い走りを出して、畑のまわりで一晩中、焚き火をするように伝えてください! 煙の層を作って畑を覆うんです!」
必死の剣幕にお父様は少し驚いた顔をした後、重々しく頷いた。
「……わかった。お前の『勘』が外れたことはないからな。すぐに手配しよう」
でも、わたしの焦りは消えなかった。
焚き火の煙で畑を覆う方法は、あくまで気休めに過ぎない。薄い煙の層だけでは、宇宙へ逃げていく熱を完全に塞ぎきることはできないからだ。
根本的な解決策はただ一つ、「雲の毛布」を作ること。
夜中。
領民のみんなが不安そうに畑の周りで焚き火の準備を始める中、わたしはねずみ色のマントをすっぽりと被り、誰にも見つからないように裏口から抜け出した。
向かう先は、当然「迷いの森」。
真夜中の森は、昼間よりもずっと冷えこんでいた。吐く息がすでに真っ白だ。
広場の中央に立つと、わたしは両手を夜空に向かって大きく広げた。
『みんな、起きて! 急ぎの頼みがあるの!』
呼びかけに答えて、暗闇の中に光の蝶たちがふわりと浮かび上がる。
寝ぼけ眼をこするように、ゆっくりとした動きだ。
『こんな夜中にどうしたの〜?』
『さむいねえ……』
『うん、すごく寒いんだよ。このままだと、村の麦が凍って死んじゃう。だからお願い、領地の畑の上空から、一斉に遠くへ散らばって! できるだけ遠くへ!』
わたしは前世で何度も見たお天気レーダーの動きを頭の中で強烈にイメージした。
畑が集中している領地の南側。そこにいる精霊たちを、巨大な見えない手で外側へギュッと押しやるような感覚。
『了解〜です〜』
『遠くへ行くね!』
『ちらばるー』
精霊たちが一斉に動き出した。光の波紋が、森から領地の南へ向かってぶわっと広がっていく。
でも、わたしにできるのは、あくまで「風を動かすスイッチを押すこと」だけ。
そこから先は、時間と自然の法則との勝負。
一時間が過ぎた。空は相変わらず満天の星空。気温はみるみる下がり、足元の草にはうっすらと霜が降り始めている。
寒さでガチガチと歯の根が合わなくなってきたけれど……集中を切らさず、ひたすらに精霊たちを遠ざけ続けた。
(お願い、間に合って……! もっと早く、風よ流れて……!)
二時間経過。
腕はだるく、体力は限界に近い。ずっと集中しているからか、わたしの瞳がだんだん黄色に光り始めたころ。
肌を撫でる空気に変化が起きる。
ピュウ……と、生ぬるい風が森に吹き込んできた。
領土の南側で精霊たちに移動してもらったことで、そこだけ空気がスカスカになった。
すると、その隙間を埋めようとして、遠くの山の向こうから湿り気を帯びた空気が一気に流れ込み始めたのだ。
上空で冷たい空気と湿った空気がぶつかり合う。
見上げると、星空の一部が黒いモヤのようなものに隠れ始めていた。
「……雲だ!」
三時間が経過した午前四時。東の空がうっすらと白み始める、一番冷え込みが厳しくなる魔の時間帯。
だけど、ホッホブルク領の上空は見渡す限りの分厚い雲に覆われていた。
星空を隠す巨大な「雲の毛布」が、地面から逃げようとする熱をがっちりと受け止め、跳ね返してくれたのだ。
急降下していた気温はピタリと下げ止まり、致命的な氷点下には届かなかった。
「……やったぁ」
その場にへたり込んだわたしの頭上を、仕事を終えた精霊たちがくるくる飛び回りながら帰ってくる。
『うまくいったー』
『作戦成功!』
「ありがとう……みんなのおかげだよ」
「雲が出たぞ!」「 神様、精霊様、ありがとうございます!」
ホッとした声が、風に乗って微かに聞こえた気がした。
魔法なんてなくてもいい。
天気の知識と、この小さな見えない相棒たちがいてくれれば、わたしはがんばれる。
(今のわたしには、数時間かけて雲を作るのがやっとだけどね……)
いつか、もっと大きな雲をコントロールできるようになれば、この水不足に悩む領地を豊かな緑の地に変えることだって夢じゃない、かも。
疲労で重い身体を引きずりながらも、わたしの胸の奥は、前世で難しい予報をピタリと当てた時みたいなワクワクする気持ちで満たされていた。
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