第5話 日照りと大祈雨祭
わたしが十七歳を迎えたその年。
ホッホブルク領は、ひどい干ばつに見舞われていた。
春の雪どけから、雨のしずく一つ落ちてこない。地面はカラカラにひび割れて、青々と育つはずの小麦もすっかり立ち枯れている。
領民たちの顔から日に日に元気がなくなっていく。
このままじゃ、作物が採れなくて冬の前には本当に大変なことになっちゃう……。
お父様の執務室は、外のうだるような暑さがウソみたいに重くて冷たい空気に包まれていた。
「ヴィナ。お前の『観測』とやらで、恵みの兆しは見えないのか……? ほんの少しでも構わないんだが」
すがるようなお父様の声。痛いくらいの視線を浴びながら、手元の記録をパラパラとめくって……小さく首を横に振った。
「……ごめんなさい、お父様。いま、この領地全体がすごく強い高気圧――目に見えない『空気の山』に覆われています」
「空気の、山?」
「上空の風も南へ大きく蛇行していて、湿った空気の入りこむ隙間がどこにもありません。わたしの見立てだと、向こう二週間は雨が降る条件がどうやっても揃わないんです」
こんなことは言いたくないけれど、天気は残酷なくらい嘘をつかない。
「……条件、か。お前の言うことは時々ひどく難しいな。だが、絶望的な状況だということだけはわかった」
深いため息をついて、お父様はゆっくりと立ち上がった。窓から赤茶けた領地を見下ろすその背中が、なんだかとても小さく見えた。
「もはや人事につくせる策はない。明日の夜、ガルム山脈の『古き祭壇』で、大祈雨祭を執り行う。
レオンハルト、領民に知らせを出してくれ。
……そしてエレオノーラ、すまないが、お前に頼むしかない」
お父様の苦渋に満ちた言葉。傍らに控えていたお母様は静かに、覚悟を決めた美しい笑みを浮かべてうなずいた。
「お母様! まさかご自身で……!」
「ええ。わたしが恵みの雨が降るその日まで、絶食して天に祈り続けるわ」
「それではお体が持ちません!」
お兄様が血相を変えて止めるけれど、お母様の決意は揺るがなかった。お父様もただ黙って、血がにじむほど強く拳を握りしめている。
(雨が降るまで……? だめ、わたしの計算通りなら、二週間は絶対に降らない。そんなことしたら、お母様が死んじゃう!)
でも、わたしは何も言えなかった。それはきっと、領民たちの不安を少しでも和らげて希望をつなぐための、代々祈祷を司る母としての大事な役目なのだから。
◇
次の日の夜。
領地の裏にそびえるガルム山脈。その山頂近くの古い祭壇で、赤々とした松明の炎が夜風にゆれている。
神官たちが円陣を組んで、低い声で祈りを捧げている。その真ん中で、お母様は白く薄い儀礼服を身にまとって両手を気高くかかげていた。
「大いなる精霊よ! 乾ききった我らが大地に、どうか慈悲なる雨をもたらしたまえ……!」
凛とした声が夜の山に響き渡る。お父様は祭壇のすぐそばで、心配そうにお母様を見守っていた。
祭壇の端っこで見守りながら、わたしはそっと夜空を見上げた。雲一つない空には、星がびっくりするくらいハッキリと輝いている。
大気中の水蒸気が極端に少ない、何よりの証拠だ。
(この条件で雨を降らせるなんて、絶対に無理。どれだけ大きな声で祈っても、水蒸気がない場所から水滴が生まれるなんて物理的にありえないもの)
それは前世から信じてきた、絶対にゆるがないルール。
でも――その常識がひっくり返る瞬間は、突然やってきた。
神官たちの声がひときわ高くなって、お母様が祭壇の炎に特別な香草を投げ入れた、すぐあとのこと。
肌を撫でる空気が、かすかに、でもはっきりと……
『ふるえた』。
「……え? 今の、なに?」
思わず身を乗り出して、辺りを見回す。
気温が急に変わったわけじゃない。気圧の変化でもない。
前世で一度も感じたことのない、まったく未知のエネルギーの波みたいなものが、空間そのものをゆらしている。
目をこらすと、二枚の羽根だけでできた蝶のような形の光がパタパタと愛らしく羽ばたいていた。
ホタルの光みたいだけど、もっと小さくて、ものすごい数!
色とりどりに輝く『光の蝶』たちは、まるでそれぞれが意思を持っているみたいに一か所に集まって、ゆっくりと渦を巻き始めた。
(発光現象? セントエルモの火? ううん、ちがう。あんな動きをする自然現象なんて、聞いたことない……!)
わたしは息をのんで立ちつくした。
十、百、千――数え切れないほどの光の蝶の群れが、祭壇の周りを飛び交い始めたのだ。
『呼んだ?』
『呼ばれた気がして!』
『めっちゃカラカラですね〜』
『遠くの海から集めよう』
頭の中に直接響く、鈴の音みたいなたくさんの声。
彼らが宙を舞うたびに、ひび割れるほど乾ききっていた空に少しずつ湿り気が混じっていくのが分かる。
肌に触れる風が、熱っぽい乾燥からひんやりとした湿ったものへ変わっていく。
(うそ……! 彼らが大気中の水蒸気をむりやり移動させてるっていうの!?)
わたしが信じてきた前世の常識が、音を立てて崩れ去っていく。
この世界の天気は、物理法則だけで動いているんじゃなかった。大気の流れは、『精霊』たちの意思の延長線上にあったんだ……!
「精霊……本当に……」
思わずこぼれたわたしの声に反応したのか、いくつもの光の蝶が、目の前までふわりと降りてきた。それらがサラサラと集まって、人の上半身みたいな形になる。
『あなた、わたしたちが見えるの?』
『あ、うん……見えるよ。君たちが、今ここで雲を作っているの?』
『そうよ。あなたのお母様の祈り、きれいで、でもちょっと苦しそうね』
頭に直接話しかけてくる光の精霊は、心配そうにチカチカと瞬いた。
『でも、とっても優しくて悲しそうだから、特別に雨を降らせてあげる』
そう言い残して、精霊たちが渦を巻きながら空へ舞い上がる。
すると、さっきまで星が輝いていた夜空へだんだん雲ができ始めた。
精霊たちが気象のルールをねじ曲げて、上昇気流なんて関係なしに、遠くの水分を山頂に集めているんだ......!
ポツリ。
わたしの頬に、冷たい水滴が一つ落ちた。
続いて、サーッというやさしい音が辺り一帯を包みこむ。
雨だ。何ヶ月ぶりかも分からない、命をつなぐ恵みの雨!
「おおおお! 雨だ! 雨が降ってきたぞ!!」
「大いなる精霊よ! ありがとうございます!!」
神官たちが泥だらけになるのも気にせず歓声を上げて、地面に深くひれ伏している。
お父様は真っ先に祭壇へと駆けより、ふらつくお母様を強く抱きかかえて男泣きしていた。
どうやらみんなの目には、空を舞う無数の光の蝶は見えていないみたい。ただ神聖な大いなる奇跡として、この雨に感謝している。
わたしだけが、雨粒と楽しそうに踊る精霊たちの姿をまばたきも忘れて見つめ続けていた。
面白い、続きが気になる!と思っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や、下の「評価(★★★★★)」から応援していただけると大変嬉しいです!
皆様の応援が更新の励みになります!
どうぞよろしくお願いいたします。




