第4話 夏の豪雨と初めての証明
肌にまとわりつくような熱気が抜けない、うだるような夏の夕暮れ。
わたしは中庭の片隅で手作りの観測機器をのぞき込みながら、羊皮紙に数値を書き留めていた。
「ヴィナ、またそのヘンな道具で観察か?」
ふいに、背後から温かい声が降ってきた。
振り返ると、夜間の見回りに向けて愛馬の手入れをしていたお兄様――レオンハルトが、苦笑交じりにこちらを見下ろしている。
「ヘンな道具じゃありません! 立派な観測機器なんだから」
わたしがちょっとむくれてみせると、お兄様は大きな手でわたしの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「ははは、悪かった。まあ、お前がこうして元気に庭を歩き回れるようになっただけで、兄としては嬉しいよ。
……だけど、あまり遅くまで外に出ているなよ。事故の傷がようやく癒えたばかりなのだから」
その目には、大怪我で生死の境をさまよった妹への、過保護なほどの心配と愛情がにじんでいる。
「心配しすぎです、もう大丈夫ですよ。お兄様こそ、連日の見回りお疲れ様」
「ああ。ここのところゼクセン帝国の動きがきな臭くてな。今夜も私が直接、国境の谷を警戒してくる」
お兄様は頼もしく微笑むと、愛馬の首筋を撫でて鞍の最終確認に戻った。
優しくて、家族と領民思いの立派なお兄様。わたしは誇らしい気持ちで、その大きな背中を見つめていた。
――その直後。
「っ、痛……」
わき腹が、ズキリとうずいた。
天気の変化や気圧の低下によって古傷が痛む現象、気象病。
これだけ急激に身体が反応するということは、大気圧が急降下している証拠。空を見上げると、風のにおいがわずかに土の湿気をはらんで変わっていた。
今夜お兄様が向かう国境の谷は、激しい雨が降れば真っ先に濁流の通り道になる。
……このままじゃお兄様が危ない!
「お兄様!」
馬の準備を続けていたその大きな背中へ、わたしは慌てて小走りで駆け寄った。
「お兄様、待って! 明け方に、西からものすごく強い雨が来ます!」
「雨? 見てごらんヴィナ、空にはもう星が出始めているよ」
お兄様は優しく笑ったけれど、わたしは真剣な顔で首を横に振った。
「いまだけです。風のにおいも変わったし、なにより大気の重さが急激に変化してる。国境の谷は、鉄砲水に呑まれます」
「……鉄砲水?」
「お願い、警備隊の配置を谷底から上の方へ変えて。わたしの言葉を信じて!」
普段の態度からは想像もつかない必死な剣幕に押されたのか、お兄様は困惑しながらも「……分かった。お前の言う通りにしてみよう」とうなずいてくれた。
◇
「ヴィナ! ……お前の言った通りだった」
昼下がり。ずぶぬれの外套のまま執務室に飛びこんできたお兄様は、青ざめた顔でそう告げた。
「信じられないことに、ちょうど谷底をゼクセン帝国の斥候部隊が進軍していたんだ。我々が見ている前で、彼らはあっという間に濁流に呑みこまれた。
……お前の警告がなければ、我々も同じ目に遭っていただろう」
明け方に空を覆った真っ黒な雲が、すさまじい豪雨を降らせたのだ。
あらかじめ高いところへ避難していたお兄様たち警備隊は、誰一人欠けることなく無事に戻ってこれた。
「ヴィナ、お前はいったい何を見ているんだ?」
執務室の空気が、しん、と凍りついた。
お父様とお兄様は、信じられないものを見るような目でわたしを見つめている。
「まるでお前が、大いなる精霊と直接言葉を交わしているようだ」
「ふふっ。精霊とお話ししているわけじゃないです、お父様、お兄様」
毎日大切に書き留めてきた羊皮紙の束を胸に抱きしめて、わたしはにっこりと笑った。
「空が、わたしにそう教えてくれたの」
地球と同じように、空はきちんとした法則で動いている。気圧が変わって、前線ができて、雲が生まれる。
毎日の地道な観測と、自然のサインを読み解く知識。頭の中で、この領地の空の仕組みが少しずつ形になっていく。
わたしだけの確かな力が、この異世界で小さな産声を上げた瞬間だった。
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