第12話 気象研究所
どたばたしているうちに、太陽はすっかり空の高い位置へと昇っていた。
「ねえ、レオニー団長。あの子たち……三導師様が残した『気象観測』の技術って、今はどうなっているか見学することはできる?」
「気象観測ですか? それでしたら、この近くにちょうど良い場所がありますよ」
案内されたのは、街の小高い丘に建つ石造りの立派な施設だった。
屋根の上には風向や風速を測る大きな風車が勢いよく回り、空高く観測塔がそびえ立っている。
その尖塔には、巨大な観測凧が何本もの綱につながれていた。
「ここは『ホッホブルク気象研究所』。天候予測を専門に行う、我が領地の中枢機関の一つです」
中では大勢の学者や技官たちがあわただしく行き交っていた。
ひときわ目を引くのは、石壁に沿ってそそり立つ、十メートル以上はありそうな鈍色に光る鉛の太い管。
観測塔の天井近くにある真鍮のつなぎ目を境に、その最上部だけが、青い色水をたたえて妖しく光る極太のガラス管に変わっている。
(気圧で色水が上下する水柱ね。頂上にいる技官がガラス管をアストロラーベで覗きこんで、水時計の鐘の音に合わせて蝋板へ記録する観測体制……。
すごい、二百五十年でここまで進化したんだ!)
「おや、レオニー様。本日はどのようなご用件で?」
設備に目を奪われていると、白衣を着た三十代ほどの知的なイメージの男性に声をかけられた。
少しクセのあるボサボサの髪に、インクの染みがついた指先。いかにも研究者といった風貌をしている。
「クラウス主任。父上の客人であるケイ殿が、こちらの気象観測に興味を持たれましてな。少し見学させてもよろしいか」
「ほう、ご令嬢が気象観測に? それは珍しい」
クラウス主任は驚いたようにわたしを見る。
「我が研究所の強みは、なんといっても観測開始から二百五十年あまり、一日も欠かすことなく記録されたホッホブルクの気象情報です」
誇らしげに胸を張る主任。
「偉大なる三導師様が遺された『原初の観測ノート』を基盤に、我らは天候予測の精度を日々高めているのですよ」
案内された巨大な地下書庫には、年代ごとに整理された羊皮紙の束が壁一面の棚にズラリと並んでいる。
それはまぎれもなく、あの子たちがわたしから受け継ぎ、後世へと必死に繋いでくれた「努力の結晶」だった。
その中の一番古い年代の棚から、丁寧に皮の表紙で保護された一冊を開かせてもらう。
そこには几帳面な字で細かく記録された数字の羅列と、不器用ながらも一生懸命に描かれた雲のスケッチがあった。エミリーの字だ。
ページの端には、「今日はヴィナ様が褒めてくださった」という小さなメモ書きまで残っている。
指先がふるえ、視界が少しだけにじむ。
「うん……」
なつかしさで胸が熱くなる。
だけど最新のデータが広げられた机を覗きこんだ時、わたしの目は気象予報士としての「違和感」を捉えた。
「クラウス主任。素人が申し訳ないのだけど、この明日の予測……『夕方から広範囲で長時間の豪雨』となっているわよね?
これってもしかして、地上の空気の重さの急低下と湿り気の高さだけで判断してない?」
「え? ええ、そうですが……。西から空気の重さの谷間が接近しており、南からの湿った風も入っています。これだけの条件が揃えば、当然広範囲にわたってまとまった雨雲が形成されます」
クラウス主任は、素人の令嬢から唐突に専門的な指摘を受け、少しだけむっとしたような顔をした。
でも天候の読み違いは、時として領民の命や農作物の大きな被害に直結する。ここは引き下がれない。
「確かに地上だけを見ればそうね。でも地上の観測記録と、今朝の観測凧、それから山脈の観測所の記録を見て。
地表は南風だけど、上空は強い北西の風が吹いているわ。それに上空の温かさが昨日より急激に下がっている」
わたしは技官たちが観測データを書き殴っている大きな黒石板の前へと歩み寄り、チョーク代わりの白い滑石を手に取って少し考えた。
(そうね……幾何学図ならわかってもらえるかな?)
クラウス主任の目の前で、右下の空きスペースへさらさらと図を描き始める。
(本当は線に囲まれた『面積』から上昇気流がどれだけ暴れられるかを計算する、難解な気象物理の図なんだけど……。
この時代の人に伝えるなら、シンプルに落としこむのが一番伝わりやすいよね)
まず描いたのは、縦の軸を「高度」、横の軸を「温度」に見立てた直線図。
そこに各高度で観測された温度と湿度、そして地表の空気を持ち上げた場合の温度の変化を示す、三本の線をすすっと描き足した。
その隣へ、地表の風と上空の風を『二つの矢印』で描き、その先端同士を点線で結んだ幾何学図。
「これはガルム山脈を越えてきた冷たく乾いた空気が、上空に入り込んでいる証拠よ。
こんなふうに、上へ行くほど温かさの下がり方が急になっているの。線と線の間に大きな『隙間』ができているでしょ?
これが嵐を育てる力の大きさなの。
そして、地上の風と上空の風のズレ……この二つの矢印の先端を結ぶ『第三の辺』が長いほど、上下の風のズレが大きい。発達した雲を激しくねじれさせる力になるわ」
それぞれの図を指しながら続ける。
「それに、西から近づく空気の重さの谷は浅い。広い範囲の空気を長く持ち上げ続けるほど強くない。
でも明日の日中、お日様に地面が温められれば、地面近くの温かくて湿った空気が浮き上がり始める。
それが引き金になるの。
だから『広い範囲で長く降る雨』より『空気が勢いよく昇った場所だけで黒雲が猛烈に発達する』可能性が高い――」
素人の令嬢の口から飛び出した「空気の重さの谷」や「猛烈に発達した黒雲」といった専門的な内容に、クラウス主任は最初「何をバカな」という顔をした。
だけど、彼が手元の風向データと過去の類似ケースの記録を急いで照らし合わせるうち、その顔色が見る見るうちに変わっていった。
「上空の風のズレと、鉛直方向の温かさの差……! ば、バカな、確かにその通りだ!
過去の記録にも、同じ条件で局地的な突風被害が出た事例がある……!」
彼はあわてて部下たちに予測の修正を指示する。
「このまま広範囲の豪雨警報を出して農作業を中止させるだけでなく、突風への警戒を怠っていれば、甚大な被害を出してしまうところだった……!」
指示が終わり一息ついたあと、クラウス主任は信じられないという目でわたしを振り返った。
「あ、貴女様は一体……!?」
「ふふっ、素晴らしい研究施設と、精度の高い記録を見せてくれてありがとう。とっても嬉しかったわ!」
満面の笑みで礼を言うと、クラウス主任は茫然としながらも深く頭を下げた。隣で見ているレオニー団長も、すっかり感心したように目を丸くしている。
わたしは大満足で研究所を後にした。
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