第2話 お天気お姉さんと辺境の令嬢
――深く、遠い水底から響くように、震える声が聞こえてきた。
「……ヴィナ! ヴィナ、お願いだから目を開けてちょうだい……!」
鼻先をくすぐるのは、薬草の青臭い香りと、かすかにこびりついた生臭い泥の匂い。
重たいまぶたをそっと開ける。視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井と簡素な天蓋。
誰かに声を掛けようと息を吸い込んだ瞬間、胸の奥に激痛が走った。
「っ……」
(……息をするだけで、肋骨が……。左腕も感覚が鈍い。ひびが入ってるかも……)
苦痛に顔をしかめる。
枕元には、濡れたハンカチを握りしめた女の人がすがるような瞳でこちらを見つめている。
自分と同じ、明るい金髪がハラハラとこぼれ落ちていた。
……自分と同じ、金髪!?
「気がついたか……! おお、精霊よ、感謝いたします!」
そばに立っていた大柄な男の人が、わたしの細い手を優しく、しっかりと握りしめた。豊かな髭の厳格そうな顔立ちに、泣きそうなほどの安堵の色を浮かべている。
(ここは……どこ? あの状況で生きているはずが……)
混乱する頭のなかに、突然、別の記憶があふれるように流れ込んできた。
日本の民間気象会社で、三十二歳まで空の機嫌を読み続け、スタジオで解説をしていたお天気キャスター「高城 慧」としての記憶。
そして、この世界で十六年間、辺境領主の長女として領地を活発に駆けまわってきた「レヴィナ・フォン・ホッホブルク」としてのすこやかな記憶。
――ふたつの人生が溶けあい、ひとつの魂になっていく。
目の前で涙を流しているのは、お母様のエレオノーラと、お父様のガウェインだ。
「お父様……お母様……」
ひび割れた唇から、痛みを堪えてようやくかすれた声が漏れる。
その瞬間、部屋の隅にいた騎士のような男の人が弾かれたように歩み寄ってきた。
レオンハルトお兄様。普段は冷静な次期領主が、いまはその瞳に隠しきれない動揺をにじませている。
「無茶をしたね、ヴィナ。いくら雨足が強まる前だったとはいえ、あの天候で渓谷の視察に出るなんて……。
一歩間違えれば、命を落としていたかもしれないんだよ」
お兄様の言葉に、ぼんやりとした意識の中で事故の状況がよみがえってくる。
数日前、領地の北方に広がる渓谷。降り始めた雨は、当初はただの通り雨のように見えた。
だけど突如として山間部特有の急激な気圧低下が起こって、天候は狂ったように牙をむいたのだ。
前世の知識に照らし合わせれば、それは『発達した積乱雲による「線状降水帯」の形成』と、それにともなう鉄砲水と土砂崩れだった。
けれど、この世界には気象衛星もアメダスもない。
空の異変は「神様の怒り」や「精霊の気まぐれ」として恐れられるだけで、誰もあの急変を予測できなかったのだ。
「ヴィナ、お水を」
お母様が木杯を差し出してくれた。
むせないように少しずつお水を含むと、のどを焼くような渇きが引いていく。頭の中がさらにクリアになった。
(身体中が痛むけれど……わたしは生きてる)
窓の外に目を向ける。
石造りの窓枠の向こうに、どこまでも高い青空が広がっていた。
「お父様、あの雨は……どのくらい続いたのですか?」
「丸二日だ。あのような猛烈な嵐は、ここのところ誰も経験したことがない。まさに『空が裂けた』ようだったよ」
わたしはベッドに横たわったまま、窓の外を流れる雲の動きをじっと見つめた。
かつての地球よりも、ほんの少しだけ紫がかって見える空。浮かんでいる雲の形も、対流圏の厚みが違うのか、どこか不自然に引き伸ばされている。
高度一万メートル付近を流れる巻雲の引き方。風の匂いに混じるわずかな湿り気。
(偏西風の流れが違う。ううん、何かが大気の流体力学に直接干渉している……?)
気象衛星がないなら、この目で、体感で読み解くしかない。
胸の奥にわき上がってきたのは、事故への恐怖でも戸惑いでもなく――
気象予報士としての、抑えきれない好奇心だった。
「この世界の気象、一体どうなってるの……?」
家族には聞こえないくらいの、小さなつぶやき。
鉄の匂いがただようアスファルトの上で終わったはずの人生が、いま、未知なる風の吹く異世界で新しく動き出そうとしていた。
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