第1話 観天望気とアスファルトの匂い
「はい。それでは続いて、皆さんから届いた空の写真を見ていきましょう」
カメラの向こうへ落ち着いた微笑みを向けながら、わたし――高城 慧は、手元のタブレットを軽くスワイプした。
スタジオの大型モニターに、視聴者から送られてきた写真が次々と映し出される。どれも、墨を流したような曇天。画面の右端では、リアルタイム更新のコメント欄が絶え間なく流れている。
「東京都の――」
投稿者名を読み上げかけて、目が止まる。
「……『慧さん推し』さん、からのリポートです。え? 名前? ええと……
『さっきまで晴れていたのに、急に空が真っ暗になってきました。冷たい風も吹いてます! でも、女神のような慧さんの笑顔を見ていると……』
……って、ちょっと……!」
不意打ちだった。普段は冷静なはずの声が、わずかに裏返る。タブレットをスクロールする指は焦って空を切り、ほんの一瞬、進行を見失った。
その隙を、コメント欄は見逃さない。滝のような勢いで流れ始める。
『草』
『wwwwwwwww』
『めっちゃ動揺してて草』
『クールな慧姉の貴重なわたわた』
『慧さんマジ女神』
『ガチ照れかわいい』
『たすかる』
『放送事故www』
『顔真っ赤やんw』
「あ、ちが、ええとっ! リ、リポートありがとうございます!」
顔がカッと熱い。手で扇ぎたい衝動をぐっと堪えて、小さく咳払いをひとつ。――いけない。冷静にならなきゃ。
「こ、コホン。……えー、チャットでも『うちの周りも急に暗くなった!』『ポツポツ降ってきたよー』という声が、一気に増えてきましたね」
気を取り直すように、耳にかけたサイドの髪をすっと直す。
わたしは気象予報士。民間気象会社が配信する生放送の気象情報番組で、キャスターを務めている。
視聴者と一緒に、リアルタイムで空模様を追いかけるこの時間が、わたしはとても好きだった。
「急な空の変化、原因は西から近づいている寒冷前線です。皆さんが感じた『冷たい風』は、積乱雲から吹き下ろす冷気――ダウンバーストのサインなんですよ」
リモコンをカチリと操作し、画面を雨雲レーダーに切り替える。
赤と黄に染まった強烈な雨雲の帯が、関東平野に迫っていた。
「低気圧の接近にともなって、発達した雨雲の帯が形成されています。
この後、都内でも局地的に一時間に五十ミリを超える、非常に激しい雨が降るおそれがあります。
視界が極端に悪くなりますから、車の運転には十分ご注意ください」
「特に、高架下などの低い土地は、あっという間に冠水する危険があります。無理な通行は、絶対に避けてくださいね」
真剣な表情でカメラに語りかけ、最後はふわりと、いつもの包み込むような笑顔に戻って、深くお辞儀をする。
「以上、最新の気象情報をお伝えしました。この後も、空の急な変化にはお気をつけて。それでは皆さん、今日も安全な一日を!」
『CMに行きまーす!』
ディレクターの声がインカムから響き、わたしはほっと息をついて肩の力を抜いた。
「高城さん、お疲れ様でした! いやー、今日も良かったですよ。ファン、また増えたんじゃないですか?」
「お疲れ様です。いやいや、わたしより人気の子はいっぱいいますよ。……それより、ここからの天気のほうが気になります。あの雨雲、予想以上に発達していますから」
スタッフと二、三、言葉を交わし、スタジオを後にした。
◇
雨がルーフを叩いていた。
激しい雨音が狭い車内に反響する。鉛色に濁った空はアスファルトの街をぎゅっと押しつぶすように、低く、重く垂れ込めていた。
「……低気圧の接近にともなう、発達した雨雲の帯、ね」
番組中は掛けていない眼鏡のブリッジを押し上げ、最高速で雨粒をはじくワイパーの向こう――フロントガラス越しに上空を見上げる。
気象とはわたしにとって、無数の変数が織りなす巨大で複雑な流体力学のショーだ。
気温。湿度。気圧。風向。
スーパーコンピューターがはじき出した膨大なデータを読み解き、物理法則のセオリー通りに数時間後の未来を精密に予測していく。
空で起きるあらゆる出来事は計算の延長線上にあって、そこに神様の気まぐれや奇跡なんていう非科学的なものが入り込む余地は、ない。
――そう、思っていたのだけれど。
「ひどい雨……。番組で話した通り、あのアンダーパスはきっと冠水するわね」
雨音にかき消されそうな独り言をこぼしながら、ハンドルを握り直す。
発達した積乱雲の真下に入ったのだろう。雨足は、前方の景色がぐにゃりとゆがむほどの局地的な豪雨に変わっていた。
――その時。
ハンドルから伝わる振動が、ふっ、と軽くなった。
路面に張った分厚い水膜。タイヤが地面を掴む感覚が、消えている。
ハイドロプレーニング現象の予兆。
(危ない、スピードを――!)
反射的にブレーキペダルへ足を伸ばした、その瞬間だった。
対向車線を猛スピードで走っていた大型トラックが、巨大な水柱を跳ね上げ、不自然に車体を蛇行させた。
スリップした十トンの鉄塊は、完全に制御を失っている。雨音さえ圧し潰すような質量で、中央分離帯のコンクリートを削りながら軽々と乗り越えてきた。
雨のベールを引き裂いて、ヘッドライトの光が視界を真っ白に染め上げる。
(あ……)
避ける時間なんて、一秒だって残されていなかった。
耳をつんざく轟音。鉄のひしゃげる痛々しい悲鳴。空間ごと押し潰すような衝撃が車体を貫いて、わたしの身体は紙くずみたいに弾け飛んだ。
フラッシュを焚かれたように視界が白く飛び、次の瞬間、全身から痛みと重力が消えていく。
薄れゆく意識の底。最後に焼き付いたのは、土砂降りに濡れたアスファルトのむせ返るような匂いと、わずかに粘り気を帯びた鉄と――血の、感覚だけ。
わたし、高城 慧の意識は、底知れぬ暗闇の中へと静かに沈んでいった。
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