第7話 黄金の海
上空の澄んだ風を切り裂きながら、光の羽根を持つ軍馬は飛翔を続けた。
眼下に広がっていた茶色い泥の海は、馬が空を駆けるにつれてどんどん後方へと過ぎ去っていく。
やがて、水はけが良くしっかりと踏み固められた、乾いた土の街道が前方の視界に入ってきた。
『そろそろいいかな。徐々に高度を下げて、安全に着陸させて』
心の中で呼びかけると、馬の進行方向に配置していた低気圧の階段がなだらかな下り坂へと変化し、足元を支えていた上昇気流がクッションのように柔らかくわたしたちを包みこんだ。
軍馬はいななきひとつ上げず、まるでふんわりとしたわた毛が舞い降りるかのように、音もなく街道の乾いた地面に足を下ろす。
「……えっ? あ、あれ……? もう飛ばないのですか?」
しっかりと手綱を握りしめていたエドマンドさんが、名残惜しそうに周囲の空を見回している。馬の体側に展開されていた光の羽根はすでにパチンとはじけ、目に見えない大気中へと溶け込んでいた。
「ここからは道も悪くなさそうですからね。それに、こんな馬が空を飛んでいるところを誰かに見られたら、面倒なことになるでしょう?」
わたしはエドマンドさんの広い背中ごしに声をかけた。
「『光の翼を持つ聖馬現る!』なんて大騒ぎになったら、ただでさえ急ぎの旅なのに足止めされてしまいます。目立たないほうがいいですから」
苦笑交じりに言うと、エドマンドさんはハッとして深くうなずいた。
「た、確かに……! 飛ぶことのあまりの心地よさにすっかり夢中になっておりましたが、我々は一刻も早く城へ向かわねばならない身。しかし……なんという奇跡か……」
「さあ、道が良くなったのですから急ぎましょう」
彼の言葉をさえぎるようにして声をかけると、エドマンドさんは姿勢を正し、馬の腹を軽く蹴った。軍馬は力強い蹄の音を響かせて、乾いた街道を再び駆け始める。
……あんなに感動してもらえるんなら、精霊式に翼の発現も追加しておこうかな。
◇
ぬかるみと化した悪路を空から飛び越えたことで、大幅な時間短縮になったのはまちがいない。そこからは驚くほど順調な道のりだった。
雲の切れ間から差し込む陽光が徐々に強くなり、冷えた身体や湿ったコートを心地よく乾かしてくれる。
しばらく馬を走らせていると、なだらかな丘陵地帯を越えたところで、わたしの目に信じられないような光景が飛び込んできた。
「あれは……」
思わず、前方に座るエドマンドさんの背後から身を乗り出す。
青空に向かって高くそびえ立つ、巨大な石造りの塔。その頂部には、何枚もの巨大な帆布を張った木製の羽根が取り付けられ、山脈からの風を受けてゆったりと、力強く回転している。
一つや二つじゃない。街道の先に広がる平野に沿って、何十基もの風車が立ち並んでいたのだ。
前世の記憶にあるオランダの田園風景を思い出すような、のどかだけれど計算された、美しい光景だった。
「風車……?」
思わずつぶやいたわたしに、前方のエドマンドさんが誇らしげな声を返してきた。
「はい! あれはホッホブルクの誇る『風力揚水機』です。この地に吹き下ろす風を利用して、地下深くを流れる水脈から絶えず水を汲み上げているのですよ。ケイ様、あちらをご覧ください」
エドマンドさんが手綱を持たない方の手で指差す方角へと視線を移した瞬間、わたしの視界は圧倒的な色彩に埋めつくされた。
「わあ……っ」
感嘆の声が漏れる。
「美しいでしょう?」
――見わたすかぎり、地平線の彼方まで続くのではないかと思えるほどの、あざやかな黄金色。
太陽の光をたっぷりと浴びて、たわわに実った麦穂が風にゆれている。ザーッ、ザーッという心地よい音を立てながら、まるで黄金の波がうねっているかのように、広大な麦畑が広がっていた。
汲み上げられた水は緻密に計算された水路を通り、大地をすみずみまで潤しているんだろう。
青い空と、力強く回る風車と、視界を埋めつくす豊穣の黄金。
かつてわたしがいた頃のホッホブルクは、荒涼とした痩せた土地だった。
フェーン現象に悩まされ、雨が降らなければ作物は枯れ、大雨が降れば土が流される。民はいつも天候におびえ、飢えと隣り合わせの生活を強いられていたはずだ。
それがどうだろう。今、わたしの目の前にあるのは、生命力に満ちあふれた、息を呑むほど豊かな大地だった。
「この広大な麦畑は、およそ百年前から運用を続けている、我々ホッホブルクの生命線なのです。
かつて不毛の荒野だったこの地に、豊穣の女神様の教えを受けた三人の偉大なる従者――
『三導師』聖リナ、聖エミリー、聖サアラが、この奇跡への道筋をつけられました」
「……リナ、エミリー、サアラ……」
その懐かしい響きに、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「はい。導師様たちは女神様が遺された聖遺物を読みとき、何十年もの歳月をかけて地下深くに眠る巨大な水脈を掘り当てられたそうです」
「あの子……いえ、彼女たちが、自分たちの力で……」
思わずこぼれたわたしのつぶやきに、エドマンドさんは誇らしげに深くうなずいた。
「ええ。彼女たちの知識と信仰は次代へと引きつがれ、後を託された者たちが百年以上かけてあの風車や水路を整備しました。
三人の導師様はその偉大な功績により死後教会から『列聖』され、豊穣の女神の従者として、領民のだれもが感謝の祈りをささげているのですよ」
エドマンドさんの言葉が、すっと心に染み込んでいく。
女神様――つまりわたしが姿を消して、あの三人が水脈を見つけるのに数十年、さらに風車と水路を用いた農業が現在の形に近づくまで百年以上、運用してから百年。
(ああ……そうか。わたしが森の奥にこもってから、もう二百五十年近く経っていたのね……)
精霊とともに静かに暮らして時間感覚がすっかり麻痺していたけれど、人間にとっての二百五十年は途方もない年月だ。
あの子たちが生きた時間。志を継いだ者たちが苦難を乗り越え、何世代もの命が生まれ、そして土に還っていく、果てしない時間。
『……自分でやろうと思っていたことで申し訳ないけれど、みんなになら、託せる。……できるよね?』
『……はい。ヴィナ様が愛したこのホッホブルクを、私たちが必ず守り抜いてみせます。土を守り、水を見つけて……豊かな土地にしてみせます』
別れの日。ふるえる手で涙を拭い、決意に満ちた目で力強くうなずいた三人の少女の顔が、鮮明に脳裏へよみがえる。
彼女たちは、守り抜いたのだ。
わたしが託した観測ノートの切れ端と、ほんの少しの知識。それを道しるべにして彼女たちは決してあきらめることなく大地と向き合い続け、その想いを次の世代へと確かにつないだのだ。
風車が水を汲み上げ、水路が大地を潤す。
それは神の奇跡なんかじゃない。リナが、エミリーが、サアラが、そしてこの地を生き抜いた人間の手で成しとげた、汗と涙と途方もない努力の結晶だった。
吹き抜ける風が、黄金の麦の甘い香りを運んでくる。
わたしは無意識のうちに、後頭部で髪をまとめている木製の髪留めにそっと触れていた。
あの頃と変わらぬ三人の温もりが、指先を通して伝わってくるような気がする。
目頭が熱くなり、黄金色の視界がじんわりと滲む。
こんなにも美しく、力強い景色を、わたしに見せてくれるなんて。
「……ありがとう」
誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた感謝の言葉。
それは風車の回る力強い音と麦の揺れる優しい音に包まれて、見渡す限りの黄金の海へと吸いこまれていった。
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