第6話 精霊式
建物の外へ出ると、激しい雨はすっかり上がっていた。重く立ち込めていた雲の切れ間から、うっすらと柔らかな陽の光が差しこみ始めている。
濡れた土と青葉のみずみずしい匂いが胸いっぱいに広がる。
大きく深呼吸をすると、冷たい空気が心地よく肺を満たした。
「おお、お前……ずいぶんと元気を取り戻したな」
過酷な強行軍で疲れ切っていたはずの漆黒の軍馬。
清浄な空気と湧き水、栄養満点の草を口にして、すっかり生気を取り戻したみたい。
艶やかな毛並みをふるわせ、いななきながらエドマンドさんの手に鼻先を擦り付けている。
「よし。それじゃあ、わたしも出発の挨拶を済ませちゃおうかな」
革のバッグを足元に置き、森の空間に向かって意識を集中させた。声には出さず、心の中で語りかける。
『みんな、ちょっと聞いてくれる? しばらく留守にするから、お留守番をお願いね。火の始末と戸締まりもよろしく頼むよ』
『はーい』
『まかせてー!』
人間の耳には決して聞こえない、けれどもはっきりとした返事が、わたしの頭の中に直接響く。
ふわりと周囲の空気が渦を巻いた。精霊たちがキラキラと集束して一つにまとまり、やがてうっすらとした人間の上半身を形作る。
『あら、出かけるの? どこに行くのかしら?』
人間の形をとった精霊の集合体 ――シルフ、と名付けた―― が、首を傾げるような仕草でわたしに念を伝えてくる。
『ホッホブルクのお城。お父様たちの子孫がピンチみたいだから、ちょこっと助けに行ってくるよ』
『それは大変ね。……ケイも死なないわけじゃないんだから、無茶はいけないわよ。気をつけて』
『ふふっ、心配ありがとう。行ってきます』
シルフはパチンと弾けて霧散し、ふたたび大気へと溶け込んでいった。
「さあ、行きましょうか。エドマンドさん、馬の後ろに乗せてもらってもいいですか?」
「は、はいっ! もちろんです! しかし、その……ケイ様がお召しになっているのは……」
エドマンドさんは口ごもった。無理もない。中世の女性らしく長いスカートで横座りするのではなく、二股に分かれたパンツスタイルなのだから。
苦笑しつつも片手で鞍の後ろをつかみ、ひらりと身軽に跳躍して彼の背後へまたがる。
「わたしは気にしませんから、早く出してくださいね」
「はっ……! 失礼いたしました。では、出発いたします!」
エドマンドさんが手綱を引くと、軍馬は力強く森の土を蹴り、前進を始めた。
◇
木々の根が地盤を固めているから、森を抜けるまでは順調だった。
だけど街道に出た途端、馬の足取りが急に重くなる。
「これは……ひどいな……」
街道は豪雨によって完全に水没し、底なし沼のような深いぬかるみになっていた。馬が踏み出すたびにズブズブと関節のあたりまで泥に埋まってしまい、とてもまともに進めない。
「申し訳ございません、ケイ様……。これでは馬の足を限界まで酷使しても、シュテルンフェルス城に着くまでに数日はかかってしまいます……!」
彼は血を吐くような声で謝罪する。
刻一刻と状況が悪化しているというのに、これでは時間がかかりすぎる。
「エドマンドさん。謝る必要はありませんよ。道が悪いなら――道を使わなければいいだけです」
青いトレンチコートのベルトを撫でながら、涼しい顔で周囲の風を読んだ。
「では、飛んでいきましょうか」
「……はい? と、飛ぶ……とは……?」
エドマンドさんが困惑して振り返るのをよそに、前世で培った気象予報士としての知識と、長年に渡る修練の成果を、呼吸をするようにごく自然に発動させた。
目を閉じてイメージする。
『精霊式』
『飛行』
大気操作。
長年の引きこもり生活の中で、精霊たちと極め続けたわたしの十八番だ。手足の延長のように、自然の理を組み替える。
(馬の後方と下方に『高気圧』を、進行方向と上方に段階的な『低気圧』を配置。
足元にはブレを抑えるおだやかな上昇流。
騎乗者を覆うように、涙滴型の気圧制御層を広げる。
断熱圧縮の熱で内部を保温し、先端から常に新鮮な微風を循環させる――)
この基本となる『式』に、状況に応じた具体的な気圧や距離の『数値』を当てはめ、『飛行の精霊式』として一括してイメージすることによってタイムラグなく現象化する。
さらに、わたしはちょっとだけいたずら心を起こす。
『ねえ、せっかくだから、馬に羽根が生えているように見せてあげてくれない?』
瞬時に大気が応えた。
「ヒヒィーンッ!?」
軍馬が驚きにいなないて、後ろ脚だけで立った瞬間。
精霊が操作した水蒸気と光の乱反射によって、馬の体から「光輝く白銀の翼」がぶわっと、神々しく生え広がった。
「なっ……おおおおおおっ!?」
エドマンドさんの絶叫がとどろく。
足元と後方の泥水が勢いよく吹き飛ばされ、わたしたちは斜め上空へと一気に飛び上がった。
「うおおおおっ!? 空を!? 馬が、空を飛んでおるッ!?」
眼下に広がるのは、見渡す限りの泥の街道と、みるみる小さくなっていく森の木々。
軍馬は最初こそパニックになっていたけれど、足元を支える風の滑らかなクッションが心地よいのか、やがて本能のまま空を駆けるように虚空を蹴り始める。
「 ああ⋯⋯なんという美しさだ⋯⋯」
エドマンドさんはもはや手綱を握るのも忘れ、馬の両脇に広がる光の羽根を見て、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「あはは……落ちないように、しっかり手綱は握っていてくださいね」
わたしは苦笑いをこぼした。
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