第5話 では、参りましょうか
部屋の隅に置かれた大きな木箱を開け、その一番奥から引っ張り出したのは、使いこまれた飴色の革製バッグ。
(……これを使うのも、ずいぶん久しぶりだなぁ)
指先で滑らかな革の表面を撫でる。ちょっと小さめで、所々に小さな傷やシミがあるそれは、わたしがかつて家を出た時に持っていた、いわば始まりの相棒だ。
さて、何を持っていこうかと考え、ふと居間にいるエドマンドさんの姿を思い出した。
雨に濡れてはいたものの、彼の着ている上着の精巧な裁断、縫製、そして生地の滑らかさ。それらは、わたしが外の世界にいた頃の粗末な麻布や、ぶ厚いだけの羊毛の衣服とは全く次元の違うものだった。
おそらく、わたしが森に引きこもっていた長い年月の間に機織りや仕立ての技術が劇的に進歩し、服の流行もすっかり様変わりしたんだろう。
(今さら古臭い服を引っ張り出しても、悪目立ちするだけね……。着替えなんかは、お城に着いてから適当に見つくろってもらえばいっか)
そう割りきり、衣服は最低限の肌着や細かいものだけ詰めることにした。
衣服の代わりに入れたのは、怪我をした時のための清潔な包帯や、長年の暇つぶしで研究しつくした純度の高い薬草の軟膏、気つけの丸薬といった野営や応急処置のための最低限の道具。
わたしが使う、わけではないんだけど。
ほかにも作った道具いくつかを納めて荷造りを終え、身支度を整えるために鏡台の前に座る。
簡単なメイクを終わらせたあと、なんとなく視線が鏡台の小さな引き出しへと向かった。
少しだけ迷った末に、わたしはその引き出しに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。
色あせた布の上にちょこんと乗っているのは、木を削って作られた一つの髪留め。
高名な職人が作ったわけでも、高価な宝石が埋めこまれているわけでもない。いびつで、少しばかり武骨で、お世辞にも洗練されているとは言えない、素人仕事の代物。
――『ヴィナ様! お誕生日おめでとう! これ、あたしたち三人で一生懸命作ったのよ!』
――『えへへ……小刀が滑って、ちょっと指を切っちゃったんですけど……でも、頑張りました』
――『あ、あの……ヴィナ様はいつも風みたいに自由だから、風をイメージして彫ってみたんです……気に入って、いただけますか……?』
頭の中に鮮明によみがえる、懐かしい三人の少女たちの声。
勝ち気でいつも先頭に立っていたサアラ。
ドジですぐに転んだり怪我をしたりするけれど、誰よりも笑顔が明るかったリナ。
そして、内気でいつもおどおどしていたけれど、真面目に書類仕事と向き合っていたエミリー。
当時のホッホブルクは見わたす限りの荒野と痩せた土地が広がるばかりで、金銀や宝石など到底手に入らない、本当に貧しい辺境の地だった。
だから彼女たちは、森で見つけた一番手ざわりの良い木を拾い、不器用な手つきで何日もかけて、わたしのための髪留めを削り出してくれたのだ。
吹き抜ける風の軌跡をイメージしたというその意匠は、確かに少しゆがんで不格好だけれど……彼女たちの努力と、温かな好意が詰まったそれは、世界中のどんな王冠よりも美しく、何にも代えがたい宝物だ。
「……みんなが頑張った結果、見に行かせてもらうね」
誰にともなくつぶやいて、その木製の髪留めを手に取った。
長く伸びた髪を櫛でざっと梳き、後ろ髪の上下半分を一つにまとめ、風の意匠の髪留めでハーフアップに。
鏡の中のわたしは、森の奥で静かに時を過ごしていた『隠遁者』の顔から、あの頃の顔に戻っていた。
「よし」
森で増やした毛長のウサギをブラッシングして取った、細番手の毛糸で仕立てた純白のハイネックセーター。
補強に麻を混紡して、少しくすんだ色の毛を使った銀灰色のパンツ。
そのスリムテーパードのようなシルエットのパンツに、茶革の細いベルトを合わせ、同じく茶革のショートブーツ。
最後に壁のフックに掛けられていた外套を羽織る。引きこもり生活の中で、自分で少しずつ縫い上げたものだ。
空のような明るい青色の生地で、ボタンは髪色に合わせて、真鍮を溶かして成形した大きめの金ボタン。
形はお天気キャスター時代によく着ていたダブルブレストのトレンチコートに近い、お気に入りの一着だ。
前を開けてばさっと着ようか、と思ったけど、馬に乗るかと思い直し、前はボタンで止めてベルトはサイドでリボン結びに。
うん、これでいいかな。
革のバッグを片手に提げ、居間へと戻る。
そこには、鍋の底が見えるまでシチューとパンを平らげ、すっかり生気を取り戻したエドマンドさんの姿があった。
ブーツのカカトが響く音に気づき、彼は慌てて立ち上がる。
その視線が、わたしの身なりに一瞬だけ留まったような気がしたが、彼は何も問うことはなく、ただ深く臣下としての最敬礼をとった。
「ケイ様、あの煮こみ料理は……絶望しかけていた私の魂までもが救われるような、慈愛に満ちたお味でした。ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。エドマンドさんに元気が出たなら、何よりです」
わたしはバッグの持ち手をぎゅっと握り直し、まっすぐに彼の顔を見すえて、包み込むような笑顔を作った。
開け放たれた入り口からは、雨上がりの森のみずみずしい匂いが流れこんでくる。
「では、参りましょうか」
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