↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/35

第3話 危機

 ケイの透きとおった瞳に見つめられ、エドマンドはごくりと唾を飲みこんだ。


 その眼差しには、ただ目の前にいる一人の人間の苦悩をまっすぐに受け止めようとする深い慈愛だけがあった。


 彼は姿勢を正し、ふるえそうになる声を腹の底に力を込めて抑えこみながら、重い口を開く。


「現在、我がヴォルケン王国は、東の国境を接する隣国『ゼクセン帝国』と凄惨な戦争状態にあります。

 その最前線にして最大の防衛拠点となっているのが、我らホッホブルク辺境伯領なのです」


 そこで一度言葉を切り、悔しげに目を伏せた。


「我が方の兵たちは皆、一騎当千の精強な勇士たちです。この険しい地形も熟知しており、地の利を活かした戦術で幾度も敵の猛攻を退けてきました。

 個々の武勇において、決して帝国兵に劣ってはおりません。……しかし、いかんせん数が違いすぎます」


 エドマンドの顔に、濃い疲労の色と深い苦渋が浮かぶ。


「現在、防衛に当たっている我らの兵力は、かき集めてもようやく五千ほど。対するゼクセン帝国軍の総数は、およそ三万。

 ……いかに兵の練度が高かろうとも、六倍にも及ぶ数の暴力の前に、前線は削られ、押しこまれているのが現状でして……

 戦況は、きわめて不利な状態にあります」


 しぼり出すような声が、静かな部屋に響く。ケイは口を挟むことなく、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。


「敵の進軍は止まらず、このままでは防衛線は崩壊し、我が領地の中心である要塞都市『シュテルンフェルス』まで迫るでしょう。

 そうなれば、罪なき領民たちが略奪と殺戮の犠牲となってしまう……!」


 そこまで語ると彼は立ち上がり、ケイの足元に深く膝をついた。それは誇り高き辺境伯が、領民の命を救うため、なりふり構わず見せた懇願の姿だった。


「これは、ホッホブルクの存亡をかけた危機です。

 ……我ら一族の長にのみ密かに語り継がれてきた『古き盟約』。

 すなわち――『真なる危機の時、ホッホブルクの守護者に助けを求めよ』という伝承にすがり、己の無力を恥じて御前へ馳せ参じました」


 エドマンドは、床に額がすれすれになるほど深々と頭を下げた。


「どうか……! どうか、我らをお救いください! あなたがかつての同志たちと共に築き上げたあの地を、愛すべき民たちを、どうかお守りいただきたいのです……!」


 沈黙が落ちた。

 パチパチと爆ぜる暖炉の音だけが、部屋に響く。


 エドマンドは己の願いがいかに身勝手で、図々しいものであるかを理解していた。


 長い年月をこの静寂の中で過ごしてきた伝説の存在を、人間のおろかな血なまぐさい争いに巻き込もうとしているのだから。怒りに触れてこの場で灰にされても文句は言えない。


 しかし。


「――顔を上げてください、エドマンドさん」


 頭上から降ってきたのは、責めるような冷たい声ではなく、春風のように柔らかく、どこまでも優しい響きだった。


 彼が恐る恐る顔を上げると、ケイは静かに立ち上がり、目の前でふわりとほほえんでいた。


「謝る必要はありませんよ。大切なものを守るために、自分以外の誰かに助けを求めるのは、決して恥ずべきことではありませんから」


 ケイはそう言って、エドマンドの大きな肩に、そっと白く細い手を置いた。


「行きましょう。わたしが一緒に、そのシュテルンフェルス城へ参ります」


 あまりにもあっさりと。

 まるで、「少しそこまで散歩に出かけましょう」とでも言うかのような、優しく、そして当然のような口ぶりだった。


 エドマンドは目を見開き、信じられないものを見る目でケイを見上げる。


「よ、よろしいのですか……!? このような、人間たちのおろかな争いに巻き込むような身勝手な願いを……」


「身勝手だなんて」


 ケイはくすりと小さく笑うと、その透きとおるような瞳へ静かに決意の光を宿した。


「わたしにとっても、家族やあの子たちが遺してくれた大切な場所です。あの地に根付いた命と、あの子たちの努力の結晶を、土足で荒らされるのを黙って見過ごすわけにはいきません。それに――」


 ケイは泥だらけのブーツと、疲れきった顔を優しく見つめた。


「あなたがそれほどまでに必死に守ろうとしている民は、きっと素晴らしい人たちなのでしょうから」


 その言葉を聞いた瞬間。

 長きにわたり最前線の重圧に耐え、孤独に領地を守り続けてきたエドマンドの感情が音を立ててほとばしった。


「おおおお……っ!」


 老将の目から、大粒の涙がボロボロとあふれ落ちる。

 彼はもはや貴族の体面も忘れ、子供のように嗚咽を漏らしながら、再び床に深々とひれ伏した。


「ありがとうございます……! ありがとうございます、ケイ様……! このご恩は、我が命に代え、ホッホブルクの名にかけて永劫忘れませんっ!」


 伝説の守護者は、想像をはるかに超える気高さと慈悲を持っていた。圧倒的な感謝と安堵に打ちふるえるエドマンドの背中を、ケイはただ優しく、なだめるように撫で続けていた。


 外の激しい雨は、いつの間にかすっかり止んでいた。




面白い、続きが気になる! と思っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や、「評価(★★★★★)」から応援していただけると大変嬉しいです!

皆様の応援が更新の励みになります!

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。