第1話 泥濘の轍
轟音。そして、完全なる白い闇。
息をすることも許さないほどの暴力的な豪雨が、大地を打ちすえている。
雨粒が猛烈な水しぶきとなって跳ね上がり、世界からあらゆる色彩を奪い去っていた。
ぬかるんだ街道を一頭の騎馬が、泥をはね上げながら疾走している。
「……急がねばな」
馬の背にまたがる壮年の男――エドマンドは、雨水に濡れた手綱を強く握り直した。
彼のまとう重厚な外套は水を吸って重くたれ下がり、銀髪の混じった髭からは絶え間なく雫がしたたっている。
その瞳には焦燥と、それ以上に強い覚悟の色が宿っていた。
やがて前方に巨大な「壁」が見えてくる。
それは石やレンガで築かれたものではない。天を突くほどに巨大な樹木が幾重にも重なり、人智を超えた密度でそびえる原生林。
彼は馬の速度をゆるめて、その境界線に近づく。
――「迷いの森」。そこに踏みこんだ瞬間、世界の色彩が変質した。
ごうごうと鳴り響いていた雨音は、まるで見えないベールに遮られたかのように遠のく。その代わりに重苦しいほどの沈黙が支配していた。
周囲には、深い、あまりに深い霧が立ちこめている。
奇妙な感覚がエドマンドを包んだ。
手が届きそうなほど近くにあるはずの樹木が、次の瞬間、はるか彼方に遠のいて見える。
逆に、霧の向こうにぼんやりと浮かぶ枝先が、すぐ目の前にあるかのように錯覚する。
それは、特殊な大気の層がもたらす現象。周辺の光の屈折をゆがめ、狂わせ、侵入者の五感を麻痺させているのだ。
「……なるほど、これが『精霊の迷霧』か」
彼はめまいをこらえるように目を細め、懐に手を入れる。
取り出したのは、古びた護符。
彼はその木札を霧の深淵へと高くかかげ、朗々と声を張り上げる。
「古き盟約に従い、霧よ晴れろ! 我は正当なる継承者。守護者との対話を望む者なり!」
その声が静寂を切り裂くと、かかげた護符が呼応するようにやわらかな光を放った。
直後、視界をさえぎっていた霧が意思を持っているかのように左右へと分かたれていく。
それは晴れるというよりも、主の許しを得て道を開く、巨大な生物のカーテンのようだった。
「これは……。言い伝えは本当、だったのだな……」
しばらくあ然としていた彼だったが、気を取り直して再び馬に拍車をかける。
霧が引いた後の森は驚くほどに美しく、そして異質だった。
降り続いているはずの雨が木の葉の屋根にさえぎられ、一滴も落ちてこない。そのかわり、清浄な空気にあふれている。
森の奥へ進むほど空気は澄みわたり、肺の奥まで洗われるような清涼感に満たされていった。
道なき道を進むこと、半刻。
エドマンドの視界に、一つの構造物が飛びこんできた。彼は思わず息を呑み、馬を止める。
それは、長い、あまりに長い年月の中で、森そのものとなった建物だった。
かつての小屋を芯として、巨大な樹の根が複雑に絡み合って壁や屋根を形成していた。
生きた大樹の柱。花の咲く軒先。半透明の膜が張られた窓は、内側の明かりを宝石のように反射している。
そこにあるのは、人の手による建築物ではない。
森が主を守るために組み上げたような、緑の神殿。
あるいは、この世界の循環そのものが結実した、安息の檻。
人間社会が争いと発展をくり返してきた一方で、この場所だけは、「永遠の凪」の中に留まっている。
エドマンドは馬から降り、ふるえる足でその神殿へと歩み寄った。
その扉の向こうに待つのは、いったい――
心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら、静かにその扉へ手をかける。
ギィ……という重い葉擦れの音とともに、内側から温かい琥珀色の光があふれ、エドマンドの雨に濡れた顔を照らし出した。
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