第11話 神鳴りの暴風と大いなる代償
運命の日。
ホッホブルクの領主館。その最上階にある執務室の分厚い木戸が、外の突風によって蝶番を引きちぎらんばかりの悲鳴を上げていた。
「きゃあっ!」
突然の風の音で肩を揺らした拍子に、リナが机の脚につまずいて転倒した。抱えていた大量の羊皮紙がバサバサと派手に散らばる。
「ちょっとリナ! 何やってるのよこんな時に!」
サアラが、いら立ちを隠せない声で怒鳴りつけた。彼女の目は、極度の疲労とあせりで血走っている。
「ご、ごめんなさい! すぐに拾いますぅ……っ! ああっ、大事な観測データにインクが……!」
「もう! あなたのドジのせいで計算のやり直しになったらどうするの! 今は一秒だって惜しい状況なのよ!?」
涙目で書類をかき集めるリナにサアラが詰め寄ろうとしたその時、すっと白い手が伸びて、床に転がったインク壺を拾い上げた。
「まあまあ、サアラ。そんなに大きな声を出しては、よけいに手元が狂ってしまいます。リナも怪我はない?」
もう一人の助手、エミリーの穏やかな声が室内の緊迫を和らげた。だけど彼女が横に目を向けた途端、その顔がこわばる。
「……ヴィナ様。観測器の針が、異常な速度で乱高下しています。外の空も……まるで夜のように真っ黒です」
わたしはエミリーが整理したデータに視線を落としながら、木戸の向こうに迫る異様な嵐の気配を静かに感じ取っていた。
(ガルム山脈から吹き降ろす極度に乾燥した熱風と、南から入り込んだ湿った空気が上空で激突している……)
海から遠く離れたこの内陸部で、これほど凶悪な雲が形成されるなど普通はあり得ない。
だけど前世の知識と目の前のデータは、恐るべき局地災害――超巨大積乱雲の発生を告げていた。
「……当たってほしくなかったけど。最悪のケースだね」
執務室は水を打ったように静まり返った。
木戸の外から、まるで何十台もの巨大な馬車が地鳴りを立てて暴走しているような轟音が響き始めている。
書類を抱えたまま立ち上がったリナが、震える声で尋ねてきた。
「あ、あの……ヴィナ様。このままだと、領地はどうなっちゃうんですか……?」
「あれは、巨大な竜巻をいくつも生み出す嵐よ」
三人の助手たちに厳しい顔で告げた。
「この街の上空を通過したら、いくら頑丈な石造りの家屋でも、根こそぎ空へ巻き上げられて領地は更地になってしまう」
残酷な宣告に、三人は絶望の表情を浮かべる。
――それを見たわたしは、ゆっくりと立ち上がった。
「リナ、エミリー、サアラ。今すぐ領兵たちと一緒に避難指示を徹底して。南の村の住民を地下の石室へ。一人残らず避難させるよ」
「ヴィ、ヴィナ様はどうするんですか!?」
「……あの嵐の様子を見に行く」
「えっ!? そんな、無茶です!」
引き止める三人の悲痛な声を背に、突風が吹き荒れる外へと飛び出していった。
◇
ホッホブルク領を一望でき、背後に巨大なガルム山脈を仰ぎ見る高台の岩場。
そこに立った時、空はすでに終末のような光景に支配されていた。
天の半分を覆いつくすほどの円盤状の黒雲が、ゆっくりと、確かな殺意を持って回転している。
ゴゴゴゴゴゴォォォォッ!!
鼓膜を破らんばかりの轟音と、拳ほどの雹が無数に周囲へ叩きつけられる。
両腕を大きく広げ、目を閉じた。
全神経を研ぎ澄ませる。意識を、無数の精霊たちへとつないでいく。
『ぐるぐるしてて止まらないの!』
『引っ張られる!』
『吸い込まれちゃうよ!』
脳内に響くのは、巨大な気圧の谷へ強制的に吸い寄せられ、乱気流に巻き込まれた精霊たちの悲鳴。
『みんな、わたしに力を貸して! あの中で暴走してる仲間たちを止めるのはムリ。でも、外側から流れを変えることならできる!』
強く念じた瞬間、次々と色とりどりの光の蝶が現れ、大きな渦を巻いて身体を包みこんだ。
それは、呼びかけに応えて周囲に密集した精霊たちが放つ、神秘的な光の奔流。
(スーパーセルのエネルギー源は、強烈な上昇気流。なら、上空から極度に冷たく重い風の壁を叩きつけて、雲の背中を強引に押し返してやる!)
『西から吹き降ろすみんな! 雲の向こう側の上空に集まって!』
『わかった! あつまる!』
『あつくて、重いよぉ!』
「ぐっ……あああああッ!」
意識が千切れるような激痛が襲う。
数百万トンに及ぶ大気の質量と運動エネルギーを操作する反動が、全身の血管が焼き切れるような感覚をもたらす。
奥歯を噛み締めた口の中に、あの時を思い出すような鉄の味が広がった。限界を超えた脳圧に耐えきれず、唇の端から一筋の赤い線があごへと伝い落ちる。
「耐えなきゃ……っ! ここで退いたら、ホッホブルクが……ッ!」
瞳が赤くなっていき、光を発し始める。
精霊たちは極度に圧縮された重く冷たい西風の塊となって、すさまじい風圧で黒雲の巨大な壁へと直撃した。
空気がきしみ、空間そのものが悲鳴を上げる。
「……お隣さんに特大の『水資源』、たっぷりプレゼントしてあげるわ……ッ! いけぇぇぇぇッ!!」
血を吐くような絶叫と共に、視界のすべてを白く焼き尽くすほどの閃光が弾けた。
◇
静寂が訪れた。
まさに竜巻を落とそうとしていた巨大な渦が、見えない巨大なハンマーで側面を殴り飛ばされたかのように東の空――敵国、ゼクセン帝国領の方向へと大きく軌道を逸らして流れていく。
建物を震わせていた地鳴りは遠ざかり、雲の切れ間から一筋の陽の光が差し込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
膝から崩れ落ちそうになるのをこらえ、荒い息を吐きながら空を見上げた。
進路の変更が成功したこと、そして憎きお隣さんに特大の嫌がらせができたことを悟り、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「ヴィ、ヴィナ様……?」
背後から聞こえた声に、ハッとして振り返った。
泥だらけになりながら高台まで駆けつけてきたリナ、エミリー、サアラの三人が立ち尽くしている。避難誘導を領兵に任せて追ってきたのだろう。
三人の視線は、あれほど絶望的だった雲の怪物を東へ追いやり、圧縮した大気の余韻で周囲の空間を陽炎のように歪ませているわたしに釘付けになっていた。
そこに恐怖はなかった。
ただ、人間の理解を完全に超えた、圧倒的な奇跡を目の当たりにしたことへの深い『畏敬』だけがあった。
三人は深く頭を垂れる。
「ヴィナ様……まるで神の御使いのようです……」
その恭しい反応を見て、すべてを悟ってしまった。
領地は守られた。けれど、彼女たちと憎まれ口を叩き合い、共に地道な観測データを集めて笑い合った平穏な日々は、もう二度と戻ってこない。
わたしは彼女たちと同じ目線で語り合える『ただの人間』ではなくなってしまったのだ。
「……ごめん。驚かせちゃったね」
静かに微笑んだけれど、その声は寂しげに、風にかき消えていった。
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