第10話 同化と逸脱
「ヴィナ様。各観測所から集まった今週のデータですが、すでにまとめておきました。……それと、昨夜は遅くまで起きていらしたでしょう?
少し濃いめのカモミールティーを淹れておきましたよ」
朝の領主館。隣に控えていたエミリーが、綺麗にまとめられた記録の板と、湯気を立てるカップを差し出してくれた。
リナとサアラは、早くから気象データ収集のために出払っている。
おどおどとおびえていた彼女の姿はどこへやら。数年の経験を経て、今やエミリーは優秀な専属秘書として、完璧な立ち回りを見せてくれている。
彼女に向かってにっこりと微笑む。
「エミリー、あなたは本当に優秀ね。いつも助かってる」
「ヴィナ様が働きすぎなのです。……ふふっ、私でよければ、いくらでも頼ってくださいね」
エミリーは花が咲くような柔らかい笑顔を見せ、すっかり大人びた手つきで肩にそっとウールの布地をかけてくれた。
だけど次の瞬間、その瞳に心配そうな色を浮かべる。
「午後からはまた、『迷いの森』に行かれるんですか?」
「うん。風の流れを読んで、大気と対話するための大切な時間なの。うちの領地の未来がかかっているからね」
「それは分かっていますけど……ヴィナ様は、この領地のみんなにとって大切な方なんですから。もう少し、ご自分のお体も労わってください」
「大げさね。ただ森を散策して、木陰で休むようなものよ?」
苦笑しながら立ち上がると、エミリーは不思議そうな顔でわたしの顔をしげしげと見つめてきた。
「……どうかした? 顔にインクでもついてる?」
「いえ。ただ……ヴィナ様からは、『年相応に変わっていく感じ』が全然しないなと思いまして」
「年相応に変わっていく感じ? えー、いつまでも子供っぽいって言いたいの?」
わざとらしく頬をふくらませてみせると、エミリーはあわてて首を横に振った。
「違いますよ! 内面や振る舞いのお話ではなくて、お姿のことです。ヴィナ様にはそういう『時間が経った』という変化が全然見当たらないんです」
エミリーが、わたしの全身を確かめるように視線を滑らせる。
「私が初めてお仕えした日から、背丈も、お顔立ちも、まるで綺麗な彫刻みたいに変わらなくて……時間が、ヴィナ様だけを避けて通っているみたい。ずっと、お美しいままで……」
エミリー自身は、出会った頃の幼さが抜け、すっかり背も伸びて大人の女性らしさを帯びてきているというのに。
そこまで一気にまくし立ててから、エミリーは自分の言葉の熱量と、主人を見つめすぎたことにハッと気づいたようだった。
「……えへへ。ごめんなさい、私ったら変なこと言っちゃいましたね」
ぽっと頬を赤くして、照れ隠しのようにふにゃっと甘えた笑みを浮かべてごまかすエミリー。可愛い。
「……気のせいでしょ。毎日顔を合わせていて見慣れているだけよ」
そう流したものの――彼女の言葉は、鋭い棘のように胸の奥をチクリと刺していた。
(……エミリーの言う通りだ)
人間の体は、毎日細胞が生まれ変わって少しずつ朽ちていくのが自然だ。
けれどわたしの体にはそうした新陳代謝や、命をすり減らしているような「生」の痕跡が、いつからか刻まれなくなっていたのだから。
◇
昼下がり。
領主館をこっそり抜け出して、「迷いの森」の奥深くへと足を踏み入れた。
ここは、誰にも見られてはいけない孤独な対話の場所であり、心安らぐ唯一の聖域。
『ケイ、きたー!』
『風おいしいねー』
鈴を転がしたような、くすぐったい声が直接脳内に響いてくる。
長年の会話の末に、彼らの意思と感情が手にとるように理解できるようになっていた。
『今日もよろしくね。最近、南から流れてくる雲の動きが不規則なんだけど、何か知っていることはない?』
たずねてみると、精霊たちはクスクス笑いながら周囲をくるくると飛び回り始めた。
『お山はアツアツだよー』
『風がなだめる』
『大雨はふらないよー』
『そっか、なら麦の収穫期には影響なさそうね』
他愛もない報告を受け取りながら交信を続けるうちに、どうしても抑えきれない疑問を口にしていた。
『……ねえ、最近、身体が少しおかしいの。以前よりもずっと呼吸が深くて、静かになった。心臓の鼓動も、ゆっくり刻まれてるような……あなたたち、何か知ってる?』
その問いかけが落ちた瞬間。
ピタリ、と。
周囲を飛び回っていた精霊たちの無邪気な動きが、不自然なほど完全に停止した。
微かな大気の渦が、全身をひんやり包み込んでいく。
『ケイ、おなじ?』
『ケイ、もう、すこしおなじだね』
脳内に直接響く、精霊たちの声。
さっきまでの愛らしさはどこかへ行ってしまい、急に得体の知れない冷たさが背筋を這い上がってきた。
『おなじ……? それはどういう意味? わたしがあなたたちに近づいているとでも言うの?』
『そう。ケイのたましい、ずっとお話ししてたから』
『だから、だんだんおなじになった』
『ぜんぶじゃないけど。すこしだけおなじ』
『大気と、おなじ』
――ドクン、と。
ゆっくりとした心臓が、ひどく冷たく、そして不気味なほど静かに脈打った。
大気の組成と同じになる。
それは、つまり。
『あなたは風。あなたは空。もう、古くならないよ』
『お父さんもお母さんもお兄さんも、みんないなくなっても、ケイはわたしたちといっしょ』
『ずーっと、ずーっと、いっしょだよ。うれしいね』
無邪気にはしゃぐ、人ならざる者たちの声。
歓喜に満ちたその響きが、今はただひたすらに恐ろしかった。
全身から、さぁっと血の気が引いていく。
――気がつけば、呼吸をすることすら忘れていた。それでも、ちっとも苦しくない。
(……精霊と同化、したの……?)
長年、精霊と深く交信し続けた代償。
大気そのものに近づいてしまったわたしは、完全に「老化」を停止させてしまったのか。
いわゆる――「不老」。
エミリーが言った「時間が避けて通っている」という言葉は、比喩なんかじゃなかった。
人間としての時間が完全に死に絶えてしまったという、おぞましい真実の証明だったんだ。
◇
夕刻。館に戻ったわたしは、何くわぬ顔で家族と夕食の席についていた。
大きなダイニングテーブルを囲むのは、領主であるお父様、お母様、そして次期領主であるお兄様とその妻のオリヴィア義姉様。さらに彼らの間には、生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれている。
卓上に並ぶのは気象予測のかいあって安定供給されるようになってきた、農作物を使った料理の数々だ。
「ヴィナ。今年の麦もおまえの予測のおかげで、無事に収穫の時期を迎えられそうだよ。領民たちも大いに感謝していたぞ」
お父様が、目尻に深い皺を寄せてほがらかに笑う。
その豊かな髭には、数年前にはなかった白いものがはっきりと混じっていた。
「お父様の善政あってのことです。わたしはただ、風の機嫌をうかがっているだけですから」
「またそうやって謙遜して。お前がいなければ、この厳しい土地で民が安心して暮らすことはできないのだぞ?」
お父様の言葉に、お兄様も深くうなずく。
「父上のおっしゃる通りだよ。私の進めている領地開発の計画も、ヴィナの天候予測なしでは成り立たない」
お兄様はそう言いながら、自身の腕の中で眠る赤ちゃんを愛おしそうに見つめた。
その横顔には父親としての確かな責任感と――穏やかな「老いへの歩み」が刻まれている。
「それにしてもヴィナ。お前は本当に、昔から全く変わらないね。その若々しさが羨ましいくらいだよ。何か特別な手入れでもしているのかい?」
温かいスープの湯気越しにお兄様が微笑むと、食卓は明るい笑い声に包まれた。
「お兄様もお父様も働きすぎです。たまにはわたしに任せて、ゆっくり体を休めてください」
完璧な笑顔でそう答えた。
けれど、喉の奥には冷たい石を飲み込んだような異物感が、ずっと消えずに居座っている。
家族の時間は、砂時計のように確実に流れている。
両親は老い、兄は親となり、次世代の新たな命が脈打っている。
その温かく愛おしい「生身の営み」の中で――わたしだけが、風ひとつない虚無の空間に一人ポツンと取り残されている。
彼らの放つ「生」の熱量が、ひどくまぶしかった。
◇
その夜。
自室の窓辺で、静かに夜空を見上げていた。
『ケイ、星がきれいだね』
窓の隙間から滑り込んできた光の蝶が、無邪気な声でささやく。
『……そうだね。とても、綺麗』
そっと目を閉じ、頬を撫でる冷たい風を受け入れた。
恐怖はもう、ない。ただ、胸の奥がひどく静かで、少しだけ寂しかった。
もう、人間のように老いていくことはないのだろう。愛する家族たちと同じ時間を歩むことはできない。
(それでも――)
目を開け、星明かりの下に広がる、愛すべき領地を見下ろした。
(それでもわたしは、あの温かい食卓を、みんなの明日を守りたい)
『ケイ?』
『ううん。なんでもないよ』
わたしは永遠を生きる無垢な隣人たちに向かって、人間としての柔らかな微笑みを返した。
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